横綱

大相撲力士の最高位の称号

横綱(よこづな)は、大相撲力士の地位の一つで、最高位のものである。大関の上。幕内に属する。

現役横綱の照ノ富士春雄(第73代横綱)

呼称・由来

元は、時の力士の内の実力者(原則、大関)の中から、特に優れたものに対して、白製の注連縄に締めて土俵入りを行うことが許可されたことを指す。この綱を「横綱」と読んだことから転じて、綱を締めることを許可された力士のことを「横綱」という称号で呼ぶようになった(詳細は後述)。その後、横綱免許を得た力士については番付上も「横綱」と記載するようになり、称号ではなく地位としての横綱が確立することとなった。

特徴

待遇
  • 全ての力士を代表する存在であると同時に、依り代であることの証とされている。したがって、横綱になる力士はその地位にふさわしい品格と抜群の力量を要求され、それが果たせなくなった時は、(他の地位の力士と違い)力量相応の地位に降ろされるのではなく、現役を引退することとなる。
横綱の品格基準として、は日本相撲協会は以下のように明記している。
  • 一、相撲に精進する気迫
  • 二、地位に対する責任感
  • 三、社会に対する責任感
  • 四、常識ある生活態度
  • 五、その他横綱として求められる事項
  • 月給300万円であり[1]、大関(250万円)よりも増える。
  • 横綱に昇進すると、名誉賞として100万円が授与される。
  • 土俵入りは、その称号の由来である「横綱」を締めて、単独で実施する。
  • 付け人は通常、10 - 15人程度つく。綱を締めるために人手を必要とする事情もあって、大関以下の関取に比してその数は非常に多い。
  • 明荷は支度部屋に3つまで持ちこむことが認められている(三ツ揃いの化粧廻しと綱を持参する必要があるため。大関以下は1つしか持てない)。
  • 巡業等、公式の移動においては、大関と同様、鉄道はグリーン席、飛行機はファーストクラスを利用することができる。また東京での本場所の際に両国国技館の地下駐車場に直接自家用車を乗り入れ、駐車することもできる(ただし、現役力士の自家用車の運転は協会の内規で禁止されていて、これは横綱であっても例外ではない。したがって別に運転手を確保する必要がある)。
  • 年寄名跡を持たなくても現役引退後5年間は現役時の四股名のままで年寄(委員待遇)として協会に残ることができる。また、師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる。
  • 現役中は力士弁当をプロデュースすることができる(大関も同様)。
  • 日本相撲協会が財団法人であった時代は、日本国籍を有する横綱は評議員として役員選挙の投票権をもっていたが、協会が公益法人となったときに廃止された。
取組

幕内力士として、本場所では15日間毎日取組が組まれる。取組は終盤に組まれ、結びの一番をつとめる(複数人出場している場合は輪番で担当)。

定員

定められておらず、現役力士中にその地位にふさわしい力士がいるか否かによって増減する。同時在籍人数の最多は4名で、横綱不在になったこともある。

歴史

横綱の誕生以前

横綱および横綱土俵入りが何をベースに誕生したかは、定かでない。

江戸初期の頃、邸宅を立てる時の地鎮祭に当時の大関を2人呼び、地面にたくさんの綱を張った中で四股を踏ませた。このお祓いの地踏みに参加する資格を与えられることを「横綱之伝」と言ったとされるが、これが歴史的事実であるかどうかは極めて疑わしいとされている。

また、古くは戦国時代に黒と白の絹を混ぜて撚り合わせた綱の記述が文献に見え、この綱を締めた力士は江戸時代中頃の宝暦から安永にかけての浮世絵にその姿を留めている。これを応用したとする指摘もあるが、この白黒の綱には四手も垂らされておらず、1人土俵入りを行ったわけでもないので、化粧まわしの装飾品だったと考える方が自然である[2]

横綱の誕生

その後興行としての江戸相撲が人気を博すようになると、吉田司家行司の総元締めとしての権力を保持するため横綱免許を与えて横綱を作ることを考えた。それまでの将軍家の観戦する上覧相撲寺社への奉納相撲等特別な式典に際して行っていた土俵入りを、土俵上で行っていた顔見世土俵入りと結び付け、綱を締めさせて1人で土俵入りを披露させることにした。

そして1791年(寛政3年)、第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲において二代目 谷風梶之助仙台の谷風)と小野川喜三郎が行った紙垂をたらした純白の綱をつけた土俵入りが天下公認となり、横綱が誕生することになった。これが、今日につながる「横綱」の始まりとされる。

しかし、当時はまだ横綱免許の慣習は定着しておらず、谷風・小野川両名のあとは、雷電為右衛門など力量のある力士はいたにもかかわらず、永らく吉田司家による横綱免許は行われなかった。その後、五条家から両大関玉垣柏戸が横綱免許を受けたが、この頃、横綱のステータスはまだ認知されていなかったのか、玉垣・柏戸が免許を受けたので横綱土俵入りをしたという記録は見つかっていない。これに吉田司家は触発されたか、この直後、谷風・小野川から38年ぶりとなる横綱免許を、阿武松緑之助に対して発行。本場所での土俵入りも始まる。この頃、吉田司家は主君である熊本藩細川家の威を背景として京都五条家との免許権争いに勝利し、吉田司家による横綱免許の授与が制度化され、吉田司家の免許を持つ者が正式な横綱として認められるようになった。吉田司家は明治初期に西南戦争連座して一時期権威を失うが、1884年(明治17年)2月に免許を受けた第15代横綱・初代梅ヶ谷が吉田司家の免許を希望し、復権する。

なお、この時点では、「横綱」は、大関の中で綱を付けられる者の称号であって、番付での最高位はあくまで大関であった。番付に横綱の文字が掲載されるようになったのは、1890年(明治23年)5月場所である。これは、第16代横綱・初代西ノ海嘉治郎が東正大関小錦八十吉に対して東張出大関にされ下風に立ったような形になった西ノ海をなだめる方法として横綱と記したのである。これは便宜的措置であって正式に地位とされたわけではないが、続く小錦以後の横綱も、免許後は番付に「横綱」として記載される習慣が続いたことで、1909年(明治42年)2月には相撲規約改正のとき、横綱が正式な地位とされることになった[3]。「横綱は大関の中の強豪」という考え方が一般的になると、本場所での成績によって横綱を免許されるようになった。その最初のケースは、第17代横綱・初代小錦だったと言われている。

横綱が大関の名誉称号であった時代の横綱に対しては「横綱を免許される」、地位となって以降は「横綱に昇進する」という様に、表現を使い分ける場合もある。但し、誰までが「免許」で誰からが「昇進」かはっきりした基準があるわけでもなく、区分は明確ではない。第15代横綱・初代梅ヶ谷藤太郎までは番付が大関のままだったのでこれを基準とする見方や、第19代横綱・常陸山谷右エ門と20代横綱・2代梅ヶ谷藤太郎の同時免許(このときの代数は、年長の常陸山を19代と決めている)で横綱は大関の上位と認識されるようになったのでこれを基準とする見方、史上初の相撲協会推挙による横綱である第41代横綱・千代の山雅信を基準とする見方がある。

1900年、第12代横綱・陣幕久五郎富岡八幡宮に「横綱力士碑」を建立し、ここに掲載された横綱の代数が、現在に至るまでの正式な横綱一覧として公認されるようになった。

なお、大坂相撲および京都相撲にも、吉田司家の免許を持つ公認横綱は存在したが、これらの横綱は、後に追認を受けた力士を除くと、上記の歴代横綱として認められていない。

非公認横綱
相 撲四股名免 許備考
大坂相撲八陣信蔵五条家免許
高越山谷五郎五条家免許
八陣調五郎神理教免許
朝汐太郎吉田司家長年の功績を讃える一日限りの特例免許
京都相撲小野川才助五条家免許
兜潟弥吉五条家免許
大碇紋太郎五条家免許
礒風音治郎吉田司家巡業用の特例免許

吉田司家以外の免許で土俵入りを行った力士の中には吉田司家に遠慮して綱の色(黄色が多かったという)を変えたり吉田司家の地元熊本では土俵入りを行わなかったりする者もいた。吉田司家以外から横綱免許の話を持ち掛けられたが断った力士も存在する。後述の通り、横綱免許を巡る事件も幾つか発生している。以降、第40代横綱・東富士までの横綱は、吉田司家で行われる本免許状授与式で免許を授与され、奉納の土俵入りを行うことが通例であった。

しかし、1950年(昭和25年)に横綱の濫造を指摘された日本相撲協会が横綱の権威を保つために、横綱免許の家元である吉田司家ではなく、相撲に造詣が深い有識者に横綱を推挙してもらうことを目的として横綱審議委員会(横審)を発足させたことで、1951年(昭和26年)5月場所後の第41代横綱・千代の山以降に吉田司家の横綱本免許状授与式は廃止となり行われていない。

慣例として、九州巡業や11月場所(九州場所)前に新横綱が熊本市の吉田司家を表敬訪問し、土俵入りを披露する慣わしも踏襲されたが、司家の経済問題が発覚した1986年(昭和61年)に吉田司家は横綱免許の授与に関する権限を日本相撲協会に委嘱(事実上協会と吉田司家が絶縁した)。これにより、現在では横綱免許は協会及び横審の内部で完結している。

昇進

横綱審議委員会への諮問

現在では、以下の手続きを踏むことで、横綱免許が行われる。

  • 番付編成を所管する審判部を代表して、審判部長から日本相撲協会理事長に、該当力士の横綱昇進について審議する臨時理事会の召集を要請する。
  • 理事長はこれを受けて、横綱審議委員会(横審)に当該力士の横綱昇進について諮問する。
  • 横審は諮問を受け、内規等に照らして当該力士の品格・力量等を審査する。内規では大関で2場所連続優勝した力士の推薦を原則とし、これに準ずる好成績を挙げた力士の場合は出席委員の3分の2以上の賛成があれば横綱推薦を日本相撲協会の理事長に答申する。
  • 答申を受けて臨時理事会において横綱昇進について決議し、正式に横綱昇進の可否を決定する(理事会は横審の答申を「尊重する」とされるため、横綱昇進の可否は、横審の答申後に事実上確定すると考えてよい)。

伝達式

理事会で横綱昇進が決定すると、大関昇進時と同様に協会の使者として理事と審判委員各1名ずつが当該力士のもと(通常、東京場所なら所属部屋、地方場所なら宿舎である旅館・寺社など)にその旨を伝達に訪れ、「昇進伝達式」が行われる。通常、力士の地位は新番付の発表を待って有効になるが、横綱昇進に関しては、当該力士は、新番付の発表を待たずにこの時点で横綱として扱われる

横綱昇進前3場所成績

明治神宮での稀勢の里の奉納土俵入り(2017年1月27日撮影)
  • 一場所15日制が定着した1949年(昭和24年)以降。
  • 大:大関、関:関脇
  • ◎は優勝、◯は優勝同点、△は優勝次点、四股名は昇進時
昇進場所四股名3場所前2場所前直前場所3場所合計勝率優勝
1951年(昭和26年)9月千代ノ山雅信大・11勝4敗大・8勝7敗大・14勝1敗◎33勝12敗.7333回
1953年(昭和28年)3月鏡里喜代治大・11勝4敗大・12勝3敗△大・14勝1敗◎37勝8敗.8221回
1954年(昭和29年)3月吉葉山潤之輔大・14勝1敗△大・11勝4敗大・15戦全勝◎40勝5敗.8891回
1955年(昭和30年)1月栃錦清隆大・9勝6敗大・14勝1敗◎大・14勝1敗◎37勝8敗.8224回
1958年(昭和33年)3月若乃花勝治大・11勝4敗大・12勝3敗△大・13勝2敗◎36勝9敗.8002回
1959年(昭和34年)5月朝汐太郎大・14勝1敗◎大・11勝4敗△大・13勝2敗△38勝7敗.8444回
1961年(昭和36年)11月柏戸剛大・10勝5敗大・11勝4敗大・12勝3敗◯33勝12敗.7331回
大鵬幸喜大・11勝4敗△大・13勝2敗◎大・12勝3敗◎36勝9敗.8003回
1964年(昭和39年)3月栃ノ海晃嘉大・11勝4敗大・14勝1敗◎大・13勝2敗38勝7敗.8442回
1965年(昭和40年)3月佐田の山晋松大・13勝2敗△大・13勝2敗△大・13勝2敗◎39勝6敗.8673回
1970年(昭和45年)3月玉の海正洋大・13勝2敗◎大・10勝5敗大・13勝2敗◯36勝9敗.8002回
北の富士勝昭大・12勝3敗△大・13勝2敗◎大・13勝2敗◎38勝7敗.8443回
1973年(昭和48年)3月琴櫻傑將大・9勝6敗大・14勝1敗◎大・14勝1敗◎37勝8敗.8224回
1973年(昭和48年)7月輪島大士大・11勝4敗△大・13勝2敗△大・15戦全勝◎39勝6敗.8672回
1974年(昭和49年)9月北の湖敏満大・10勝5敗大・13勝2敗◎大・13勝2敗◯36勝9敗.8002回
1978年(昭和53年)7月若乃花幹士大・13勝2敗△大・13勝2敗◯大・14勝1敗◯40勝5敗.8891回
1979年(昭和54年)9月三重ノ海剛司大・10勝5敗大・13勝2敗△大・14勝1敗◯37勝8敗.8221回
1981年(昭和56年)9月千代の富士貢大・11勝4敗△大・13勝2敗△大・14勝1敗◎38勝7敗.8442回
1983年(昭和58年)9月隆の里俊英大・12勝3敗△大・13勝2敗△大・14勝1敗◎39勝6敗.8672回
1986年(昭和61年)9月双羽黒光司大・10勝5敗大・12勝3敗△大・14勝1敗◯36勝9敗.800なし
1987年(昭和62年)7月北勝海信芳大・11勝4敗大・12勝3敗◎大・13勝2敗△36勝9敗.8002回
1987年(昭和62年)11月大乃国康大・15戦全勝◎大・12勝3敗△大・13勝2敗△40勝5敗.8891回
1990年(平成2年)9月旭富士正也大・8勝7敗大・14勝1敗◎大・14勝1敗◎36勝9敗.8003回
1993年(平成5年)3月曙太郎大・9勝6敗大・14勝1敗◎大・13勝2敗◎36勝9敗.8003回
1995年(平成7年)1月貴乃花光司大・11勝4敗大・15戦全勝◎大・15戦全勝◎41勝4敗.9117回
1998年(平成10年)7月若乃花勝大・10勝5敗大・14勝1敗◎大・12勝3敗◎36勝9敗.8005回
1999年(平成11年)7月武蔵丸光洋大・8勝7敗大・13勝2敗◎大・13勝2敗◎34勝11敗.7565回
2003年(平成15年)3月朝青龍明徳大・10勝5敗大・14勝1敗◎大・14勝1敗◎38勝7敗.8442回
2007年(平成19年)7月白鵬翔大・10勝5敗大・13勝2敗◎大・15戦全勝◎38勝7敗.8443回
2012年(平成24年)11月日馬富士公平大・8勝7敗大・15戦全勝◎大・15戦全勝◎38勝7敗.8444回
2014年(平成26年)5月鶴竜力三郎大・9勝6敗大・14勝1敗○大・14勝1敗◎37勝8敗.8221回
2017年(平成29年)3月稀勢の里寛大・10勝5敗大・12勝3敗△大・14勝1敗◎36勝9敗.8001回
2021年(令和3年)9月照ノ富士春雄関・12勝3敗◎大・12勝3敗◎大・14勝1敗△38勝7敗.8444回
  • 太字2023年令和5年)現在で現役中。
  • 玉の海は当時玉乃島、2代目若乃花は当時若三杉。昇進場所から改名したため推挙状は玉乃島正夫および若三杉壽人名義だった。双羽黒も当時北尾だったが推挙状は既に双羽黒名義だった。
  • 優勝は昇進時での通算。

昇進基準を巡る議論

横綱昇進の内規としては、1958年(昭和33年)1月6日に制定された「大関で2場所連続優勝した力士を推薦することを原則とする。」というものがある。実際、この内規が成立して以降、大関で2場所連続優勝して昇進を見送られた力士は存在しない(横審発足前では、第32代・玉錦三右エ門が3連覇、第41代・千代の山雅信が2連覇を達成したが昇進を見送られていた)。

また、連覇を達成していない力士でも、「2場所連続優勝に准ずる」ということで昇進を果たしていた例は多かったが、優勝経験がないまま横綱昇進した第60代横綱・双羽黒光司が、1987年(昭和62年)12月に、師匠(立浪親方・元関脇・安念山)らとのトラブルが原因で、一度も優勝しないまま廃業するという事件が起きると、以降は横綱昇進の基準が厳格化し、2014年3月場所後に第71代横綱・鶴竜力三郎の昇進まで26年余りにわたり、2場所連続優勝未達成の力士の横綱昇進は認められなかった。

記録

備考
  • 2024年3月場所終了時点。
  • 太字の力士は現役。
  • 場所数に関する記録では、中止された2011年(平成23年)3月場所と2020年(令和2年)5月場所を数えず、本場所ではないが公式記録が残る2011年(平成23年)5月の技量審査場所を数える。

在位場所数

長期
順位四股名場所数期間備考
1位白鵬翔84場所2007年7月-2021年9月
2位北の湖敏満63場所1974年9月-1985年1月
3位千代の富士貢59場所1981年9月-1991年5月
4位大鵬幸喜58場所1961年11月-1971年5月
5位貴乃花光司49場所1995年1月-2003年1月
6位曙太郎48場所1993年3月-2001年1月
7位柏戸剛47場所1961年11月-1969年7月
輪島大士1973年7月-1981年3月
9位朝青龍明徳42場所2003年3月-2010年1月
10位鶴竜力三郎41場所2014年5月-2021年3月
短命横綱
順位四股名場所数期間備考
1位前田山英五郎6場所1947年11月-1949年10月年6場所定着以前。
2位琴櫻傑將8場所1973年3月-1974年5月番付上は9場所在位。
三重ノ海剛司1979年9月-1980年11月
双羽黒光司1986年9月-1987年11月番付上は9場所在位。
5位旭富士正也9場所1990年9月-1992年1月
6位玉の海正洋10場所1970年3月-1971年9月現役中に死去。
7位若乃花勝11場所1998年7月-2000年3月
8位稀勢の里寛12場所2017年3月-2019年1月
9位隆の里俊英15場所1983年9月-1986年1月
10位朝潮太郎 (3代)16場所1959年5月-1961年11月
  • 太平洋戦争終了後の1945年(昭和20年)11月場所以降の記録。

在位中の成績

出場回数

皆勤場所数
順位四股名場所数
1位白鵬翔65場所
2位北の湖敏満51場所
3位千代の富士貢46場所
4位大鵬幸喜45場所
5位輪島大士38場所
6位曙太郎35場所
朝青龍明徳
8位柏戸剛34場所
9位貴乃花光司32場所
10位日馬富士公平25場所
連続皆勤場所数
順位四股名場所数期間
1位白鵬翔48場所2007年7月場所 − 2015年7月場所
2位北の湖敏満43場所1974年9月場所 − 1981年9月場所
3位大鵬幸喜16場所1961年11月場所 − 1964年5月場所
若乃花幹士 (2代)1978年7月場所 − 1981年1月場所
朝青龍明徳2003年9月場所 − 2006年3月場所
6位輪島大士15場所1975年9月場所 − 1978年1月場所
7位柏戸剛14場所1966年1月場所 − 1968年3月場所
北勝海信芳1989年1月場所 − 1991年3月場所
9位若乃花幹士 (初代)11場所1958年3月場所 − 1959年11月場所
貴乃花光司1995年1月場所 − 1996年9月場所

優勝回数

多数順
順位四股名回数参考
横綱昇進前
優勝回数
備考
1位白鵬翔42回3回
2位大鵬幸喜29回3回
千代の富士貢29回2回
4位朝青龍明徳23回2回
5位北の湖敏満22回2回
6位貴乃花光司15回7回
7位輪島大士12回2回
8位双葉山定次9回3回年2場所制の記録
9位常ノ花寛市8回2回
若乃花幹士8回2回
曙太郎8回3回
横綱在位中に優勝経験なしの横綱

昭和以後、横綱昇進後に一度も幕内最高優勝の経験が無かった横綱は武藏山武男女ノ川登三安藝ノ海節男前田山英五郎吉葉山潤之輔双羽黒光司若乃花勝の7人[注釈 1]

勝利数

連勝記録

分・預・休を含める・含めないにかかわらず、横綱が正式な地位として扱われてからは、平成22年(2010年)中に達成した白鵬翔の63連勝が最多である。その前回の記録としては、昭和63年(1988年)の千代の富士の53連勝だった。双葉山定次の69連勝は、平幕から横綱にかけてのものであり、横綱としての最多記録は36連勝である。逆に横綱としての連勝の最少記録は武藏山武の4。

昇進・降格に関わる記録

初土俵からのスピード記録

順位四股名所要場所内訳備考
前相撲序ノ口序二段三段目幕下十両平幕(前頭)小結関脇大関
1位輪島大士21場所----2場所4場所6場所1場所4場所4場所幕下60枚目付け出し
2位朝青龍明徳25場所1場所1場所1場所1場所6場所2場所3場所3場所4場所3場所前相撲を経た力士としては最短。
3位大鵬幸喜29場所1場所1場所2場所4場所6場所4場所3場所1場所2場所5場所年6場所制以前の初土俵
4位曙太郎30場所1場所1場所3場所2場所5場所3場所5場所3場所3場所4場所
5位白鵬翔38場所1場所2場所3場所6場所5場所2場所5場所2場所5場所7場所
6位貴乃花光司41場所1場所1場所2場所3場所3場所5場所8場所3場所4場所11場所
7位双羽黒光司45場所1場所1場所2場所7場所18場所4場所3場所2場所3場所4場所
8位北の湖敏満46場所1場所1場所5場所6場所13場所5場所8場所2場所2場所3場所
9位北勝海信芳50場所1場所1場所3場所8場所11場所3場所5場所4場所9場所5場所

大関スピード通過記録

  • 昭和以降
大関場所数四股名新大関場所新横綱場所大関での成績
2場所双葉山定次1937年(昭和12年)1月1938年(昭和13年)1月11戦全勝◎
13戦全勝◎
(24戦全勝)
照國萬藏1942年(昭和17年)1月1943年(昭和18年)1月12勝3敗
13勝2敗○
(25勝5敗)
照ノ富士春雄2021年(令和3年)5月2021年(令和3年)9月12勝3敗◎
14勝1敗
(26勝4敗)
3場所北の湖敏満1974年(昭和49年)3月1974年(昭和49年)9月10勝5敗
13勝2敗◎
13勝2敗○
(36勝9敗)
千代の富士貢1981年(昭和56年)3月1981年(昭和56年)9月11勝4敗
13勝2敗
14勝1敗◎
(38勝7敗)
朝青龍明徳2002年(平成14年)9月2003年(平成15年)3月10勝5敗
14勝1敗◎
14勝1敗◎
(38勝7敗)
4場所男女ノ川登三1934年(昭和9年)5月1936年(昭和11年)5月5勝6敗
9勝2敗
8勝3敗
9勝2敗
(31勝13敗)
羽黒山政司1940年(昭和15年)1月1942年(昭和17年)1月11勝4敗
7勝5敗3休
14勝1敗
14勝1敗◎
(46勝11敗3休)
安藝ノ海節男1941年(昭和16年)1月1943年(昭和18年)1月12勝3敗
9勝6敗
13勝2敗
13勝2敗
(47勝13敗)
輪島大士1972年(昭和47年)11月1973年(昭和48年)7月11勝4敗
11勝4敗
13勝2敗
15戦全勝◎
(50勝10敗)
双羽黒光司1986年(昭和61年)1月1986年(昭和61年)9月10勝5敗
10勝5敗
12勝3敗
14勝1敗○
(46勝14敗)
曙太郎1992年(平成4年)7月1993年(平成5年)3月0勝0敗15休
9勝6敗
14勝1敗◎
13勝2敗◎
(36勝9敗15休)
  • ☆は年6場所制以前の力士。
  • ※照ノ富士は大関再昇進場所からの記録。大関通算在位は16場所(大関陥落期間も含めると、通算36場所となる)。
  • ◎は優勝、○は優勝同点、()内は大関通算成績。
  • 大正以前では、東西合併による「横綱付出し」の例もあって比較が難しいが、栃木山守也の大関2場所(9勝1預-10戦全勝)、大錦卯一郎の3場所(8勝2敗-7勝3敗-10戦全勝)、太刀山峯右エ門の4場所等が特筆される。

大関スロー通過記録

大関場所数四股名新大関場所新横綱場所大関での成績
32場所琴櫻傑將1967年11月1973年3月287勝159敗34休 優勝4回
武蔵丸光洋1994年3月1999年7月353勝127敗 優勝5回
31場所稀勢の里寛2012年1月2017年3月332勝133敗 優勝1回
29場所若乃花勝1993年9月1998年7月274勝101敗60休 優勝4回
22場所日馬富士公平2009年1月2012年11月214勝105敗11休 優勝4回
21場所北の富士勝昭1966年9月1970年3月208勝107敗 優勝3回
三重ノ海剛司1976年1月1979年9月180勝123敗12休
20場所玉の海正洋1966年11月1970年3月206勝94敗 優勝2回
18場所前田山英五郎1938年5月1947年11月155勝67敗14休 優勝1回
17場所佐田の山晋松1962年5月1965年3月176勝66敗13休 優勝1回
旭富士正也1987年11月1990年9月194勝61敗 優勝3回
  • ※の三重ノ海は1976年(昭和51年)7月場所の関脇1場所を挟む。新大関から陥落直後の関脇の地位(のち大関特例復帰)も含めた合計で数えると、日馬富士と並んで22場所となる。なお、大関から陥落した関脇以下の地位も含めた合計で数えると、照ノ富士春雄が36場所(大関場所数は16場所。大関での成績 122勝91敗27休 優勝1回)で最長となる。
  • ☆の前田山は年6場所制定着以前の力士。

その他記録

一人横綱

横綱が一人だけ在位し、東西に揃わない状態だった例はこれまでに11例ある。

開始場所開始場所前の動向一人横綱最終場所場所数終了理由
11930年(昭和5年)10月場所常ノ花が引退宮城山福松1931年(昭和6年)3月場所3宮城山が引退
(横綱空位)
21933年(昭和8年)1月場所(横綱空位)
玉錦が昇進
玉錦三右エ門1935年(昭和10年)5月場所5武蔵山が昇進
31969年(昭和44年)9月場所柏戸が引退大鵬幸喜1970年(昭和45年)1月場所3玉乃島改め玉の海
北の富士が同時昇進
41971年(昭和46年)11月場所玉の海が9月場所後に死亡北の富士勝昭1973年(昭和48年)1月場所8琴櫻が昇進
51986年(昭和61年)3月場所隆の里が引退千代の富士貢1986年(昭和61年)7月場所3北尾改め双羽黒が昇進
61992年(平成4年)3月場所旭富士が引退北勝海信芳1992年(平成4年)5月場所
(番付上)
1(2)北勝海が5月場所前に引退
(横綱空位)
71993年(平成5年)3月場所(横綱空位)
曙が昇進
曙太郎1994年(平成6年)11月場所11貴乃花が昇進
82004年(平成16年)1月場所武蔵丸が引退朝青龍明徳2007年(平成19年)5月場所21白鵬が昇進
92010年(平成22年)3月場所朝青龍が1月場所後に引退白鵬翔2012年(平成24年)9月場所15日馬富士が昇進
102021年(令和3年)5月場所鶴竜が引退2021年(令和3年)7月場所2照ノ富士が昇進
112021年(令和3年)11月場所白鵬が9月場所後に引退
照ノ富士春雄現在継続中15

複数(二人以上)在位している横綱が本場所の休場・引退などにより、一人のみの横綱が出場する場合を「一人横綱」と呼ぶことも有る。

横綱空位・横綱不在

1909年(明治42年)2月の相撲規約改正に伴い「横綱」の称号が地位として定められて以降、番付上において横綱の地位に一人も存在しない時期、すなわち「横綱空位」と言われた時期が2例ある。

開始場所開始場所前の動向最終場所場所数終了理由
11931年(昭和6年)5月場所宮城山が引退1932年(昭和7年)10月場所6玉錦が横綱昇進
21992年(平成4年)7月場所
(番付上)
北勝海が5月場所前に引退1993年(平成5年)1月場所5(4)曙が横綱昇進

また、横綱の全員休場や引退などで「横綱不在」と言うこともある。

出身地別横綱数

8人北海道千代の山雅信吉葉山潤之輔大鵬幸喜北の富士勝昭北の湖敏満千代の富士貢北勝海信芳大乃国康
6人青森県鏡里喜代治若乃花幹士 (初代)栃ノ海晃嘉若乃花幹士 (2代)隆の里俊英旭富士正也
5人モンゴル国朝青龍明徳白鵬翔日馬富士公平鶴竜力三郎照ノ富士春雄
4人宮城県丸山権太左エ門☆、谷風梶之助 (2代)秀の山雷五郎大砲万右エ門
千葉県境川浪右エ門小錦八十吉 (初代)若島権四郎鳳谷五郎
鹿児島県西ノ海嘉治郎 (初代)西ノ海嘉治郎 (2代)西ノ海嘉治郎 (3代)朝潮太郎 (3代)
東京都東富士欽壹栃錦清隆貴乃花光司若乃花勝
茨城県稲妻雷五郎常陸山谷右エ門男女ノ川登三稀勢の里寛
3人栃木県明石志賀之助☆、綾川五郎次 (初代)☆、栃木山守也
2人石川県阿武松緑之助輪島大士
熊本県不知火諾右衛門不知火光右衛門
福岡県雲龍久吉梅ヶ谷藤太郎 (初代)
富山県梅ヶ谷藤太郎 (2代)太刀山峯右エ門
愛知県大錦大五郎玉の海正洋
三重県三重ノ海剛司双羽黒光司
アメリカ合衆国ハワイ州曙太郎武蔵丸光洋
1人滋賀県小野川喜三郎)、島根県陣幕久五郎)、岐阜県鬼面山谷五郎)、兵庫県大木戸森右エ門
大阪府大錦卯一郎)、岩手県宮城山福松)、岡山県常ノ花寛市)、高知県玉錦三右エ門
神奈川県武藏山武)、大分県双葉山定次)、新潟県羽黒山政司)、広島県安藝ノ海節男
秋田県照國萬藏)、愛媛県前田山英五郎)、山形県柏戸剛)、長崎県佐田の山晋松)、鳥取県琴櫻傑將
  • ☆は伝承上の横綱。明石と綾川には茨城出身説もある。
  • 実際の出身地と番付上の出身地が異なる場合もある。本稿では番付表記や土俵入りなどで用いられる公称を優先している。

横綱同時昇進(免許)

昇進場所代位四股名最終場所代位四股名最終場所
1789年11月場所4代谷風梶之助1794年1月5代小野川喜三郎1798年10月
1903年6月場所19代常陸山谷右エ門1914年5月20代梅ヶ谷藤太郎 (2代)1915年6月
1943年1月場所37代安藝ノ海節男1946年11月38代照國萬藏1953年11月
1961年11月場所47代柏戸剛1969年7月48代大鵬幸喜1971年5月
1970年3月場所51代玉の海正洋1971年9月52代北の富士勝昭1974年7月
他に栃木山守也大錦大五郎が、ともに「1918年5月場所」が新横綱であるが、それぞれ東京相撲と大坂相撲の力士で、厳密には免許の時期も異なり、一般に同時横綱の例には数えられていない。横綱一覧表などでも、大錦の引退が早かったが栃木山が先代の扱いとなっている。
常陸山と2代梅ヶ谷が同時に横綱に昇進した時には、常陸山を先代とすることにしたが、最終的には先代の常陸山が先に引退した。それ以来、2人の力士が同時に横綱に昇進した場合には、先に引退(または現役中に死去)した者を先代の横綱とすることになった。そのため、同時昇進した2人の横綱が現役の間は「第○代横綱」とは呼ばれず、どちらか一方が引退してから正式に「第○代横綱・(四股名)」と呼ばれることになる。ただし柏戸と大鵬の場合は、彼らの現役中に栃ノ海と佐田の山が相次いで横綱に昇進したため、正式な47代横綱と48代横綱がまだ決まらないうちに49代横綱と50代横綱が誕生するという不合理が生じたことがある。なおかつ、柏戸と大鵬が現役中に栃ノ海も佐田の山も引退したため、1968年5月場所から1969年7月場所途中に柏戸が引退するまでは、現役横綱の代数が決まらないまま、あとの代数の横綱が元横綱になる状態であった。
複数の力士が同時に横綱昇進して全く同時に引退した例は未だ無い。

同期生横綱

梅ヶ谷藤太郎 (2代)、(1903年頃)
初土俵場所代位四股名昇進場所 最終場所代位四股名昇進場所最終場所代位四股名昇進場所最終場所
1891年1月場所19代常陸山谷右エ門1903年6月1914年5月20代梅ヶ谷藤太郎 (2代)1903年6月1915年6月
1910年1月場所26代大錦卯一郎1916年5月1922年1月30代西ノ海嘉治郎 (3代)1922年5月1928年10月31代常ノ花寛市1924年1月1930年10月
1968年7月場所56代若乃花幹士 (2代)1978年7月1983年1月59代隆の里俊英1983年9月1986年1月
1979年3月場所60代双羽黒光司1986年7月1987年11月61代北勝海信芳1987年7月1992年3月
1988年3月場所64代曙太郎1993年1月2001年1月65代貴乃花光司1995年1月2003年1月66代若乃花勝1998年7月2000年3月
常陸山と2代梅ヶ谷は、共に横綱昇進も同時。
2代若乃花と隆の里、貴乃花と3代若乃花は、共に同日同部屋入門。

横綱在位中に降格を経験している横綱

番付上に横綱が明記された明治23年(1890年)5月場所以降に横綱から降格した力士はいない。明治23年(1890年)5月場所より前の横綱免許制度時代でも横綱免許を取り消された横綱はいない。そのため、横綱の地位から降格した力士は現在まで一人もいない

しかし、明治23年(1890年)5月場所より前の横綱免許制度時代で第8代横綱・不知火諾右衛門が大関から張出(三役格)への降格を経験した(当時は最高位が大関だった為)。明治23年(1890年)5月場所より前の横綱免許制度時代でもこのような降格経験者は不知火諾右衛門のみ。不知火諾右衛門は天保11年(1840年)11月に横綱免許を受けながら、翌12年正月場所では番付から消え、天保12年(1841年)11月場所で西張出(三役格)として復帰した。その直後の天保13年(1842年)2月場所で西関脇に昇進し、同年10月場所で西大関に復帰。不知火諾右衛門の降格は相撲会所や、彼を抱える熊本藩、さらにはその熊本細川家の家臣である吉田司家の間で、様々な紛糾、妥協のあった末とも言われるが詳細は不明。

上記の例は横綱制度が成熟していなかった時代で、かつ上記のように現代では考えられない極めて特殊な場合である。現在では、理論上は横綱の降格が起こり得る唯一のケースとして、日本相撲協会寄附行為施行細則に定める協会所属員への懲罰としての番付降下処分が行われる場合が挙げられるが、横綱の立場上、現実的にはまず考えられないといってよい(これに相当する場合には横綱審議委員会が「引退勧告」を行うことができる)。

なお戦後、実際に横綱の降格・返上には至らなかったものの、それに関連する出来事の例として、次のようなものが挙げられる。

  • 1950年1月場所で、羽黒山、照国、東富士の3横綱が途中休場。土俵入りが無くなり観客を落胆させた。これを受けて場所中の1月20日[4]、日本相撲協会は「2場所連続休場、負越しの場合は大関に転落」と決定したが、粗製濫造した協会が悪いと世間の反発をくらい、決定を取り消すことになった。これが横綱審議委員会の設置に繋がるきっかけの一つとなっている。
  • 1953年1月場所、第41代横綱・千代の山雅信は成績不振を理由に、降格ではなく「横綱返上」を申し出たが、却下されている。これは歴代横綱で横綱返上を申し出た唯一の例である。

大関陥落後復帰・大関角番を経験している横綱

大関陥落を経験している横綱は、「2場所連続負け越しで大関陥落、翌場所関脇で10勝以上挙げれば大関特例復帰」の現行制度(昭和44年(1969年)7月場所から)の整った昭和以降、三重ノ海剛司照ノ富士春雄の2人である。特例復帰によらず大関再昇進を果たして横綱になった力士は、照ノ富士が該当する。

「2場所連続負越で大関陥落」になった現行制度以降、大関角番を最も多く経験した横綱は照ノ富士で、5回角番を経験している。次いで、琴櫻、三重ノ海、3代若乃花の3人が、それぞれ3回経験している。照ノ富士は上述の通り一度実際に大関を陥落しており、大関での負け越し自体は6回で、この記録は昭和以降に昇進した横綱の中では最多である。なお3代若乃花には他に大関として公傷休場2場所がある。

他にも、曙、貴乃花、白鵬、日馬富士、稀勢の里がそれぞれ1回ずつ経験している。また、現行制度以前(昭和33年(1958年)1月場所から昭和44年5月場所まで)の「3場所連続負け越しで大関陥落」だった時代、北の富士が「大関で2場所連続負け越し」での角番を1度経験しているほか、3代朝潮、佐田の山、玉乃島(のち玉の海)らも大関での負け越しがある。

江戸時代には谷風梶之助は横綱免許前に興行上の理由から看板大関に上位を譲って関脇への降格を経験している。

横綱在位中に皆勤しての負け越しを経験している横綱

東正位横綱経験なしの横綱

横綱が正式な地位として扱われてから、東正位の地位で横綱経験無しだった横綱は西ノ海嘉治郎 (2代)武藏山武前田山英五郎双羽黒光司大乃国康の5人。

この中で大乃国だけが、横綱在位中に幕内最高優勝(1988年3月場所)を経験している。同場所の大乃国は東張出横綱で、西正位横綱の北勝海と13勝2敗同士の優勝決定戦で勝利したが、当時決定戦の勝敗は番付に影響しない慣例だった。その理由により翌5月場所では、優勝同点の北勝海が東正位横綱、優勝の大乃国が西正位横綱という番付だった。その後1997年9月に相撲協会の理事会において「同地位で優勝決定戦を行った場合、優勝者を上位とし、優勝同点者は下位に廻す」という規定に変更。その為現在であれば翌場所の番付は、優勝した大乃国が東正位横綱、優勝同点の北勝海は西正位横綱と、地位が逆転する形式となっている[5]

また2代目西ノ海は新横綱だった1916年6月場所で東張出横綱だったが、同場所の番付で正横綱は西の太刀山ひとりで、東正横綱ではないものの東方の最高位にはなっている。当時は東西制の時代で、個人の成績ではなく方屋ごとの総勝ち星によって東西が入れ替わったため、このような現在では有り得ない番付編成もあった。

なお、現行制度では新横綱は横綱の中で最下位に番付されるが、時代によって制度は異なっている。

アマチュア相撲の横綱

アマチュア横綱全日本相撲選手権大会の優勝者)、学生横綱全国学生相撲選手権大会の優勝者)、実業団横綱全日本実業団相撲選手権大会の優勝者)、高校横綱全国高等学校相撲選手権大会の優勝者)、中学生横綱全国中学校相撲選手権大会の優勝者)など、年代ごとの主要大会での優勝者を通称として「横綱」と呼ぶことも多い。特に、わんぱく横綱(小学生を対象にしたわんぱく相撲全国大会の優勝者)は、翌年の大会で大相撲の横綱とほぼ同じ横綱土俵入りを披露することが出来る。貴乃花光司が小学生時代にわんぱく横綱として土俵入りを行っている。

備考

  • 横綱の別称として、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。
  • 大相撲の番付の規則では、横綱はいなくても構わないが、大関は必ず最低2名(東西1名ずつ)は存在していなければならないため、大関が不在の時は2名(東西両方)、1名の時は1名(東と西のどちらか一方、大関のいない方)、横綱が番付上「横綱大関」として大関の地位を兼ねる(該当横綱に対する待遇上の変化はなし)。
  • 現役の横綱及び横綱経験者が参加できる横綱会と呼ばれる親睦組織があり、毎年11月場所前に会合を開くのが恒例となっている[6][7][8]
  • 大関が横綱の地位を狙うことを綱取りと呼ぶ。
  • 横綱としての責任という意味では、成績・星数の面では少なくともおよそ12~13勝以上を挙げ、ほぼ毎場所千秋楽まで優勝争いに絡むぐらいでないと一般的には責任を果たしたとは言えないとされるが、実際にはこのほか相撲内容やその他の状況で一概には言えない面もある。横綱はいくら休場しても、また負け越しても大関以下に陥落することはないが、横綱としての皆勤負け越しは非常に不名誉なこととされ、それだけで非常に批判されて引退が近づくことになり、勝ち越しても8勝7敗や9勝6敗などでは大関にもまして厳しい批判を浴びることになる。またケガなどでその場所で横綱らしい成績を挙げられる自信がない場合は、引退する前に一旦休場する場合が多いが、これについても休場があまりにも多いと引退が近づくことになる。横綱としてどの程度の成績不振で引退を迫られるかは、明確な規定はないが、成績不振の横綱に対しては、横審の決議により「激励」「注意」「引退勧告」等がなされる。相撲内容の面に関しては、立ち合い変化などのような本来下位力士が上位力士に対して奇襲で仕掛けるような技で横綱が勝つなどすると、協会内外から厳しい批判に晒されることになる。

脚注

注釈

出典

関連項目

外部リンク