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稲葉弘通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
稲葉弘通
稲葉弘通像(臼杵市・月桂寺所蔵)
時代江戸時代中期 - 後期
生誕宝暦2年7月19日1752年8月28日
死没文政元年10月28日1818年11月26日
改名熊次郎、弘通
戒名本有院殿一円宗成大居士
墓所東京都港区高輪東禅寺
官位従五位下能登守丹波守
幕府江戸幕府
主君徳川家治家斉
豊後臼杵藩
氏族稲葉氏
父母父:稲葉泰通、母:側室
公式上の母:清操院(牧野貞通の娘)
兄弟弘通、副通
正室:牧野貞長の娘・国清院
側室:津田氏
侯通雍通、通臧、通度、伊東祐鐘正室、新庄直計正室、堀直庸正室、一柳末昭正室、細川利国正室
特記
事項
異母弟の副通の死後に身代わりで家督相続し、公式には同一人物とされた。
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稲葉 弘通(いなば ひろみち)は、豊後国臼杵藩の第10代藩主。

略歴

弘通は長男であったが、母が側室であったため、父・泰通は正室の清操院との間にもうけた次男の副通を嫡子とした。明和5年(1768年)7月2日に泰通が死去した後、家督は副通が継ぐこととなったが、副通は将軍・徳川家治御目見することも、若年ゆえに継嗣を指定することもないまま、1年も経たない明和6年(1769年)6月に16歳で夭折した。この稲葉家改易の危機に藩の重役たちは慌て、泰通の跡をただちに弘通が継いだことにして御目見させることで乗り切った。このため、副通は臼杵藩の歴代藩主として数えられていない(『寛政重修諸家譜』巻第六百六では、弘通の初名が「副通」だとしており、実際の副通については記載が無い)。ちなみに、弘通が正室に迎えた国清院(牧野貞長の娘)は、清操院の姪にあたる。

藩政においては、藩財政窮乏化のために借上を行ない、さらに御用金を商人などに課すことで再建を図ったが、天明の大飢饉により藩内が大被害を受け、さらに幕命によって美濃伊勢の河川普請手伝いに駆り出されてその出費が著しかったため、効果はほとんどなかった。寛政12年(1800年)9月10日、家督を次男の雍通に譲って隠居する。文化8年(1811年)、剃髪して伊賀入道と号した。

文政元年(1818年)10月28日、67歳で死去した。

系譜

父母

正室

側室

  • 津田氏

子女

関連項目

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