篠原佐吉兵衛

篠原 佐吉兵衛(しのはら さきつべえ、さきつびょうえ)は、戦国時代阿波国武将夷山城主。篠原長房の弟。名は左吉兵衛[2]左橘兵衛[3]とも。

 
篠原 佐吉兵衛
時代戦国時代
生誕不明
死没永禄5年3月5日1562年4月18日
別名左吉兵衛、左橘兵衛
主君三好実休
氏族篠原氏
父母父:篠原長政
兄弟四宮某、長房佐吉兵衛、某(淡路のへき)[1]
伊沢頼俊の姉[2]
鶴石丸[2]
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生涯

弘治年間に夷山城主となる[4]

永禄5年(1562年)3月5日、和泉国で行われた久米田の戦いに兄・長房らと共に出陣した[5]。『三好記』には三好実休旗本として佐吉兵衛の名が記されている[6]。この戦いで三好勢は総大将の三好実休が討死するなど、畠山高政を相手に大敗を喫しており、佐吉兵衛もまた戦死したという[5]

子息

佐吉兵衛には、討死した年に誕生した子・鶴石丸がいる[2]。鶴石丸は伯父・長房に引き取られ[2]元亀4年(1573年)に長房の居城の上桜城三好長治細川真之に包囲された際に[7]、家臣・庄野和泉守に連れられて城から逃れたとされる[8]

従来の研究では、鶴石丸はこの後篠原右京進と称し、阿波三好家を継承した十河一存に仕えたとされてきたが[2][4]、近年では右京進は鶴石丸でなく長房の子の松満(松満丸)に比定されている[9][10]

脚注

参考文献