織田信任

江戸時代後期の旗本。

織田 信任(おだ のぶただ)は、江戸時代後期の旗本通称は主計。

 
織田信任
時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保5年(1834年
死没明治4年5月3日1871年6月20日
改名信任→弘
別名通称:主計
幕府江戸幕府旗本
主君徳川家定家茂慶喜
氏族高家織田氏
父母父:織田信恭
兄弟信任、主膳
信継(嘉平、水上嘉平次)
養子:信吉(栄太郎)
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生涯

高家旗本・織田信恭の子として誕生した。安政2年(1855年8月5日、家督を相続する。高家職に就くことなく、表高家衆として過ごした。

慶応4年(1868年2月12日明治新政府に対して領内の近江国神崎郡河合寺村移住を願う。同年4月、上洛する。同年7月、明治新政府の許可を受けて、河合寺村に移住する。同年11月、中大夫(旧高家衆)の東京在住命令に対し、病気を理由に延期を願う。明治2年(1869年)1月、病気を理由に信任本人に代わり、養子栄太郎の東京移住を願うものの不許可となり、同年2月、領内の治安維持などを理由に京都における奉仕を願うものの、同様に不許可となる。

明治3年(1870年)9月、名前を(ひろむ)と改める願書を提出した。同年、東京への移住願いを提出する。明治4年(1871年)5月3日、元家臣の逆恨みに遭い、妻子(栄太郎を除く)ともに殺害された。同年5月7日、元家臣は捕えられて、死罪を命じられる。

系譜

  • 父:織田信恭
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 男子:織田信継 - 嘉平、旗本水上二兵衛の養子となり、嘉平次に改名。
  • 養子
    • 男子:織田信吉 - 栄太郎、明治21年(1888年)5月、東本願寺で得度・出家し、明澄と号した。東京に戻り、浅草・宗恩寺の住職となった。

参考文献

  • 国立公文書館蔵公文書
  • 国立公文書館蔵内閣文庫蔵多門櫓文書
  • 東京都公文書館蔵公文書