織田信成 (大名)

江戸時代後期の大名。大和柳本藩12代藩主。尚長流織田家12代。筑前守、正四位。織田信陽の九男

織田 信成(おだ のぶしげ)は、江戸時代後期の大名大和国柳本藩の第12代藩主。尚長流織田家12代。官位従五位下筑前守。後に正四位

 
織田信成
織田信成
時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保14年7月14日1843年8月9日
死没明治31年(1898年2月27日[1]
改名万寿九郎(幼名)→秀茂(初名)→信成
官位従五位下筑前守正四位
幕府江戸幕府
主君徳川家茂慶喜明治天皇
大和柳本藩
氏族織田氏(長益系尚長流)
父母父:織田信陽
兄弟小笠原信学[2]正室、信宝信成信及、己酉子、谷衛昉継室ら
正室:西村光和四女・よね
隆ら4男2女
養子:信及
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生涯

11代藩主・織田信陽の九男として柳本にて誕生。幼名は万寿九郎。初名は秀茂

安政3年(1856年)に父・信陽の嫡男であった三兄の信宝が死去したため、安政4年(1857年)9月13日に嫡子となる。同年12月16日、父・信陽の死去により家督を相続する。万延元年(1860年)10月15日、13代将軍・徳川家定御目見する。同年12月16日、従五位下筑前守に叙任する。文久2年(1862年)閏8月8日、駿府加番の廃止により、秋からの加番を免除される。元治元年(1864年)から慶応元年(1865年)にかけて、領内の崇神天皇陵の補修を行った。

明治維新に際しては小藩のために主体的な行動をとれず、病気を理由に再三にわたって上洛延期を申請した。鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗北やその後の情勢を見極めて、弟の信及を上洛させた。慶応4年(1868年)5月6日に隠居し、養子とした信及に家督を譲る。

明治維新後は一時的に京都で暮らしていたようである。明治7年(1874年)6月11日、京都から東京に転居した。明治9年(1876年)、宮中侍候となる。また、明治18年(1885年)3月には宮中祗候となり、明治天皇に仕えた。同年7月、宮中祗候の廃止により免職となる。明治31年(1898年)2月27日、死去。享年56。

系譜

子女は4男2女。

  • 父:織田信陽
  • 母;不詳
  • 正室:よね - 米子、西村光和の四女
  • 生母不明の子女
    • 男子:織田隆
  • 養子

脚注