藤村修

日本の政治家

藤村 修(ふじむら おさむ、1949年昭和24年〉11月3日 - )は、日本政治家立憲民主党大阪府総支部連合会顧問。

藤村 修
ふじむら おさむ
内閣広報室より公表された肖像
生年月日 (1949-11-03) 1949年11月3日(74歳)
出生地日本の旗 日本 大阪府大阪市
出身校広島大学工学部経営工学科卒業
前職交通遺児育英会職員[1]
日本ブラジル青少年交流協会事務局長[2]
交通遺児を励ます会全国協議会事務局長[1]
あしなが育英会事務局顧問[2]
現職立憲民主党大阪府総支部連合会顧問
所属政党日本新党→)
新進党→)
国民の声→)
民政党→)
民主党野田グループ)→)
民進党→)
旧国民民主党→)
立憲民主党
称号工学士(広島大学、1973年

内閣野田第3次改造内閣
在任期間2012年10月24日[3] - 2012年12月26日[4]

内閣野田内閣
野田第1次改造内閣
野田第2次改造内閣
野田第3次改造内閣
在任期間2011年9月2日[5] - 2012年12月26日[4]

選挙区旧大阪3区→)
大阪7区→)
比例近畿ブロック→)
大阪7区
当選回数6回
在任期間1993年7月19日 - 2012年11月16日
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2011年9月2日、官房長官として野田内閣の閣僚名簿を発表する藤村

拉致問題担当大臣野田第3次改造内閣)、内閣官房長官第80代)、厚生労働副大臣菅直人第1次改造内閣)、外務副大臣菅直人内閣)、衆議院厚生労働委員長、同沖縄及び北方問題に関する特別委員長、同青少年問題に関する特別委員長衆議院議員(6期)、民主党幹事長代理、民政党経理局長、あしなが育英会副会長、同理事を歴任した[1][2][6]

来歴

大阪府大阪市生まれ。大阪府立豊中高等学校を経て広島大学工学部経営工学科卒業。大学在籍時に交通事故遺児の作文を読んだことをきっかけに交通遺児育英会の活動にボランティアで参加するようになった。大学卒業後、交通遺児育英会の職員を経てあしなが育英会顧問・評議員、社団法人日本ブラジル交流協会理事長を務めた。

1993年第40回衆議院議員総選挙旧大阪3区(定数5)から日本新党公認で出馬し、初出馬ながら新党ブームに乗ってトップ当選。翌1994年、日本新党の解党に伴い新進党結党に参加。1996年第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制導入に伴い大阪7区から出馬し、再選。

1997年末の新進党解党により、国民の声に参加。その後民政党を経て、1998年民主党結成に加わる。2000年第42回衆議院議員総選挙では民主党公認で出馬し、大阪7区で3選。2001年9月、党国会対策副委員長に就任。

2003年第43回衆議院議員総選挙でも大阪7区に出馬し4選したが、2005年第44回衆議院議員総選挙では、小泉旋風に乗る自由民主党渡嘉敷奈緒美に大阪7区で敗れた。しかし、重複立候補していた比例近畿ブロックで復活して5選。その後、党国会対策委員長代理に就任。民主党次の内閣では2006年にネクスト文部科学大臣2009年にネクスト厚生労働大臣にそれぞれ就任した。

2009年の第45回衆議院議員総選挙では大阪7区で前回敗れた渡嘉敷に勝利し、6選。同年9月、衆議院厚生労働委員長に就任(~2010年5月)。厚生労働委員長として、2010年3月には子ども手当法案、同年4月には国民健康保険法改正案の採決を行った。

2010年6月、菅直人内閣外務副大臣に就任。同年9月、菅直人第1次改造内閣厚生労働副大臣に任命された。2011年1月、民主党幹事長代理に就任し、厚生労働副大臣を退任(後任は大塚耕平)。

2011年9月2日野田内閣内閣官房長官に任命され、初入閣した。経済産業大臣鉢呂吉雄の辞任に伴い、同年9月11日から後任に枝野幸男が就任するまでの間、臨時代理を務める。

2011年11月14日拉致問題担当大臣を務める国家公安委員会委員長山岡賢次の補佐として、拉致問題に詳しい国土交通副大臣松原仁に拉致問題担当副大臣を兼任させた[7]ことに自民党が反発し混乱を招いたとして、首相の野田佳彦から厳重注意を受けた[8]

2012年2月21日島根県から招待されていた翌22日の「竹島の日」記念式典について、国会日程を理由に欠席する考えを示した[9]

2012年8月23日尖閣諸島沖縄県石垣市)の保有を巡る問題で、地権者からの購入に関し、同日の衆議院予算委員会における外交・安全保障に関する集中審議で「地権者に確認したところ『政府の責任で判断してほしい』という意向だった」と証言した。この件について地権者の同意を疑問視された東京都知事石原慎太郎は翌24日、「つい最近も地権者に会ったけど、そんなことは言ってない。ニュースソースはどこにあるんだ」と否定した[10]

2012年10月24日法務大臣拉致問題担当大臣田中慶秋の辞任に伴い、拉致問題担当相を兼務した(法相の後任は前任者だった滝実)。

2012年12月16日第46回衆議院議員総選挙では、民主党政権への強い逆風や自身の北朝鮮のミサイル発射に関する直前の失言(下記「発言」参照)もあって[11]、前回下した渡嘉敷に小選挙区で敗れた[12][13][14]。さらに、比例近畿ブロックからの比例復活もならず落選した[15]。現職の官房長官が落選するのは日本国憲法が施行されている現行の制度下で史上初めてのことである[15]

2013年10月2日、政界からの引退を表明した[16]。引退後はあしなが育英会に戻り、副会長に就任[17]

民進党の分裂後は旧国民民主党で大阪府連顧問を務め[18]2021年からは立憲民主党大阪府総支部連合会顧問を務める[19]

発言

2011年
  • 2012年2月22日、「南京事件」について「非戦闘員の殺害、略奪行為などがあったことは否定できない。村山談話以来、政府の姿勢は変わっていない」と記者会見で述べた[20]
  • 2012年3月11日東日本大震災追悼式で、台湾の代表者を各国や国際機関の代表と離れた2階席に案内したことについて、13日の記者会見で「伝統的な在日外交団の仕分けで問題ない」と語った。しかし、翌14日の参議院予算委員会における世耕弘成への答弁では「事務的にも問題があったことはきちんと認めおわびしたい」と陳謝した[21]
  • 2012年12月7日、記者から選挙期間中の再度の地元入りの可能性を聞かれ、北朝鮮が予告したミサイル発射に関し「さっさと月曜日(10日)に上げてくれるといい」と述べた。その後「舌足らずで誤解を生じたとすれば訂正、おわびしたい」と、発言を事実上撤回して陳謝した[22]

政策

所属していた団体・議員連盟

著作

  • 著:藤村修、インタビュー・構成:竹中治堅『民主党を見つめ直す 元官房長官・藤村修回想録』 毎日新聞出版 2014年11月15日

その他

脚注

公職
先代
枝野幸男
内閣官房長官
第80代:2011年 - 2012年
次代
菅義偉
先代
細川律夫
長浜博行
厚生労働副大臣
小宮山洋子と共同

2010年 - 2011年
次代
小宮山洋子
大塚耕平
先代
武正公一
福山哲郎
外務副大臣
武正公一と共同

2010年
次代
伴野豊
松本剛明
議会
先代
田村憲久
衆議院厚生労働委員長
2009年 - 2010年
次代
鉢呂吉雄
先代
安住淳
衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長
2007年 - 2009年
次代
山本公一

外部リンク