T型貨物船

T型貨物船とは、日本郵船が運航した貨物船のクラスの一つで、1913年(大正2年)から1921年(大正10年)の間にイギリス・ラッセル造船所、三菱長崎造船所川崎造船所および横浜船渠で四次にわたって建造および購入された。日本における事実上最初の本格的な大型貨物船として就航し、高速ディーゼル船が就航するまで日本郵船の貨物船隊の主力を担った。

T型貨物船
(L型貨物船)
(M型貨物船)
第二與禰丸型貨物船
高岡丸(1929年以前)
基本情報
船種貨物船
船籍大日本帝国の旗 大日本帝国
中華民国の旗 中華民国
イタリアの旗 イタリア
 ノルウェー
イギリスの旗 イギリス
所有者日本郵船
鏑木汽船
南洋海運
その他(「略歴」を参照)
運用者 日本郵船
鏑木汽船
南洋海運
その他(「略歴」を参照)
建造所ラッセル造船所
三菱長崎造船所
川崎造船所
横浜船渠
母港東京港/東京都
基隆港/基隆市
ハートルプール港/ダラム カウンティ
サウサンプトン港/ハンプシャー カウンティ
グラスゴー港/グラスゴー カウンティ
ロンドン港/グレーター・ロンドン
ベルゲン港/ホルダラン県
ジェノヴァ港/ジェノヴァ
建造費徳島丸:74,230ポンド
富山丸:117万9000円
但馬丸:100万円
りま丸:314万2800円
武豊丸:307万5000円
航行区域遠洋
建造期間1912年 – 1921年
就航期間1913年 – 1958年または1962年
計画数28隻
建造数28隻
前級彼南丸・蘭貢丸
次級D型貨物船
要目
総トン数7,000トン
全長135.64m
型幅17.68m
型深さ10.36m
高さ29.56m(水面からマスト最上端まで)
15.54m(水面から煙突最上端まで)
ボイラー石炭専燃缶
主機関レシプロ機関 2基
タービン機関 2基
推進器2軸
最大速力14.0ノット
航続距離11ノットで18,000海里
積載能力2,500トン
高さは米海軍識別表[1]より(フィート表記)。
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本項では、主に建造までの背景や特徴、技術的な面などについて説明し、船歴については略歴の形で一覧としてまとめている。単独項目として作成されている船に関しては、そちらも参照されたい。また、形式名称については1988年(昭和63年)刊行の『日本郵船株式会社百年史』に拠って「T型貨物船」に統一し、プロトタイプとなった貨物船や準同型船の第二與禰丸型貨物船も含めて解説する。

建造までの背景

明治の後半期における日本の近代海運は、政府の政策もあって貨客船の整備に重きが置かれており、貨物船部門は外国船の傭船あるいは中古船の購入でまかなっている状況だった[2]。船価の点で折り合いがつかなかったのが貨物船整備に消極的だった理由の一つではあったが、近い将来に海外の海運業者との競争で不利になるのは目に見えていた[2]

日本郵船もまた貨客船整備に大わらわだったが、それと並行して貨物船整備にも取り組むこととなった[2][3]。整備の背景には、近く来るパナマ運河開通などによる需要増加への対応、また欧州航路使用船への航海奨励法による奨励金の受給資格喪失への備えがあった[4]。しかし、整備と言ったところでいきなり造船所に貨物船建造を発注したわけではなく、手始めに1911年(明治44年)にイギリスの海運会社であるデン・ラインから当時の新鋭貨物船「デン・オブ・クロンビー」(4,947トン)を傭船し、性能、運営方法から乗員の食事にいたるまで徹底的に調査した[4]。調査の末に、「デン・オブ・クロンビー」を建造したグラスゴーのラッセル造船所で建造中の6,000トン級貨物船2隻を購入し、これに改良を加えた7,000トンから7,500トン級貨物船をラッセル造船所、三菱長崎造船所、川崎造船所に2隻ずつ発注することとなった。これが、T型貨物船のプロトタイプと第一期船である[4]。T型貨物船は以後、大正10年まで四度にわたって建造され、また鈴木商店でも系列会社を使って同型船を整備するにいたった[5]。他にも、川崎造船所がストックボートとして2隻を建造している。

一覧と特徴

第二與禰丸型貨物船以外の各形式の名称は、便宜上でつけたものである。

プロトタイプ

船名建造所起工進水竣工備考・出典
徳島丸ラッセル造船所1913年7月1913年12月27日[6][7]
鳥取丸ラッセル造船所1913年8月1914年1月19日[6][8]

T型貨物船のプロトタイプに位置づけられ、第一期船以降の船と比べて一回り小さい。船価は「徳島丸」が7万4230ポンド、「鳥取丸」が7万3600ポンドであった[4]

第一期船

船名建造所起工進水竣工備考・出典
対馬丸ラッセル造船所1914年9月8日1915年2月22日[9][10]
高田丸ラッセル造船所1915年1915年3月18日[9][11]
豊岡丸三菱長崎造船所1913年8月4日1914年10月29日1915年3月6日[12][10]
富山丸三菱長崎造船所1913年8月4日1915年3月20日1915年6月3日[12][13]
豊橋丸川崎造船所1914年1月19日1914年9月22日1915年4月30日[14][15]
徳山丸川崎造船所1914年3月22日1914年10月29日1915年5月25日[14][13]

欧州航路用臨時船として建造[3][16]。第一期船のうち、「豊岡丸」と「富山丸」は、日本の貨物船として初めて減速装置付きタービン機関を搭載した船である[17]。ラッセル造船所建造分の「対馬丸」および「高田丸」と「豊橋丸」および「徳山丸」に搭載されている三連成レシプロエンジンは形式が異なるのか、出力の面で差異がある。また、「対馬丸」および「高田丸」の総トン数は7,000トンを大きく割り込んでいる。船価は、ラッセル建造分が9万4500ポンド、三菱長崎建造分が117万9000円、川崎建造分が116万円であった[4]

第二期船

船名建造所起工進水竣工備考・出典
但馬丸川崎造船所1915年8月6日1916年2月7日1916年4月15日[14][13]
龍野丸川崎造船所1915年9月17日1916年3月21日1916年5月20日[14][18]
鳥羽丸川崎造船所1915年11月17日1916年7月1日1916年8月10日[14][19]
常磐丸三菱長崎造船所1915年2月25日1916年1月9日1916年8月12日[12][20]
敦賀丸三菱長崎造船所1915年4月28日1916年3月8日1916年6月15日[12][21]
津山丸三菱長崎造船所1915年2月9日1916年7月11日1916年9月28日[12][20]

第一期船と合わせて、12隻体制で東洋とヨーロッパ間の定期運航を行うことを主眼として、1915年(大正4年)2月3日の取締役会で建造が決定された[22]。第一期船の「豊岡丸」公試運転の際、煙突からの火熱により無線アンテナの接続部のはんだが溶けてアンテナが落下するという事故が起こったため、同様の事故を避けるためマストの高さが改正された[23]。「常磐丸」のみタービン機関搭載。船価は第一期船より下がって一隻あたり100万円であった[24]

第三期船

船名建造所起工進水竣工備考・出典
りま丸三菱長崎造船所1919年10月24日1920年3月25日1920年4月25日[25][26]
りおん丸横浜船渠1919年8月15日1920年3月3日1920年5月6日[27][26]
りすぼん丸横浜船渠1919年10月15日1920年5月31日1920年7月8日[27][28]

「戦時減少船腹補充ノ為メ」、1919年(大正8年)4月10日の取締役会で建造承認[29]。日本郵船が自腹で必要資材を購入して三菱長崎造船所と横浜船渠に提供した[30]。頭文字の「L」から、「L型貨物船」とも呼ばれる[16]。船価は一気に跳ね上がり、一隻あたり314万2800円となった[30]

第四期船

船名建造所起工進水竣工備考・出典
武豊丸横浜船渠1920年5月1日1920年9月23日1920年10月25日[27][31]
高岡丸横浜船渠1920年7月7日1920年11月21日1920年12月16日[27][31]
水戸丸横浜船渠1920年8月2日1921年1月5日1921年2月21日[27][32]
松江丸横浜船渠1920年9月23日1921年3月6日1921年4月5日[27][33]

1919年(大正8年)10月3日の取締役会で建造承認し、横浜船渠が鋼材を輸入して建造した[30]。船価は一隻あたり307万5000円となっている[30]

鈴木商店からの購入船

船名建造所起工進水竣工備考・出典
松本丸横浜船渠1920年10月28日1921年4月6日1921年5月5日[27][34]
前橋丸横浜船渠1921年1月5日1921年7月2日1921年8月2日[27][35]

1920年(大正9年)2月18日の取締役会で、同型船のほうが船繰りの都合上有利であるとの理由により購入を承認[36]。なお、「りおん丸」から「前橋丸」までの8隻は、1930年(昭和5年)に「秩父丸」(17,498トン)が竣工するまで、横浜船渠で建造されたもっとも大型の船舶であった[37]。また、「水戸丸」から「前橋丸」までの頭文字が「M」の船は、「M型貨物船」と呼ばれることもある[16][38]。購入価格は1重量トンあたり320円であった[36]

第二與禰丸型貨物船

船名建造所起工進水竣工備考・出典
與禰よね三菱長崎造船所1915年11月15日1916年8月16日1916年11月8日南満汽船所属・[12]
第二與禰丸三菱長崎造船所1916年5月20日1917年10月15日1917年11月10日帝国汽船所属・[12]
鞍馬山丸三菱長崎造船所1916年7月5日1917年12月22日1918年1月19日橋本商会所属・[12]

他の同型船と違って主機関が1基1軸であり、「與禰丸」のみタービン機関を装備し、他の2隻はレシプロエンジンを搭載していた[39]。なお、ここでの「與禰丸」は国際汽船への提供船とは別の船である。3隻ともまもなく海外に売却された[40]

ストックボート

船名建造所起工進水竣工備考・出典
第五大福丸川崎造船所1917年1月25日1917年5月23日1917年6月25日[41]
第七大福丸川崎造船所1917年2月10日1917年6月23日1917年7月23日[41]

川崎造船所で建造されたストックボート。両者とも1917年(大正6年)にイギリスのFurness Withy & Co. Ltd.に売却された。

就役

T型貨物船のうち、プロトタイプの2隻は第一次世界大戦前夜、第一期船は大戦勃発後に就航した。大戦ではドイツUボートによって連合国側の輸送船の被害が多かったことで船腹が逼迫し、主要戦場から遠かった日本の海運業界に好景気がもたらされた[42]。その最中、日本郵船は新しい航路を次々と開設し、新航路のいくつかはT型貨物船でスタートが切られた。「徳島丸」は1914年(大正3年)開設の世界一周線に就航し、日本船として初めてパナマ運河を通過した船として記録された[42]。次いで1916年(大正5年)6月21日開設の東航ニューヨーク線に「対馬丸」、1919年(大正8年)1月10日開設のカルカッタ南アメリカ線には「豊岡丸」、1920年(大正9年)5月16日開設の西航ニューヨーク線には「りおん丸」がそれぞれ第一船として配され、日本郵船の航路拡大策に呼応した[43]。その他のT型貨物船も連合国側の物資輸送に任じた[42]。しかし、大戦中に「高田丸」が事故で、「徳山丸」がUボートの攻撃でそれぞれ沈没し、日本郵船が考えていた「徳島丸」と「鳥取丸」を除いたT型貨物船12隻体制での定期航路就航は早くも崩れることとなった。この喪失分は第三期船、第四期船および鈴木商店からの購入船で補われ、大戦終了後は日本郵船の貨物船隊の主力としてニューヨーク線を中心に勢力を張った。1927年(昭和2年)3月4日に横浜港を出港した「龍野丸」は、初めてニューヨーク方面への生糸の直送を行い、従前の西海岸から鉄道に積み替えて行う輸送からの転換を図った[44]

しかしながら、1920年代後半から高速ディーゼル船が相次いで就航し、ライバルの大阪商船畿内丸型貨物船で生糸の高速輸送を開始、国際汽船や三井物産も高速ディーゼル船を投入してこれに追随すると、T型貨物船は陳腐な存在となっていく。速力の面では全く勝負にならず、横浜積み出しの生糸輸送は1932年(昭和7年)度の時点で大阪商船や国際汽船などのディーゼル船に9割9分[注釈 1]持っていかれる有様であった[45]。こうした動きに対し、日本郵船は次のような理由から貨物船部門に関しては手も足も出なかった。1920年代後半から1930年代前半にかけて、日本郵船は東洋汽船から取得した分も含めて貨客船が就航する遠洋航路を命令航路として抱えていたが、その就航船の更新時期と重なったのである[46]。「浅間丸」(16,947トン)や「氷川丸」(11,622トン)、「照国丸」(11,931トン)などの新鋭船で貨客船部門の刷新に8000万円もの巨費を投じた結果、貨物船部門に手を廻すには資金が不足[46]。これに加えて、日本郵船内部で貨客船優位論が支配的だったこともあって貨物船整備はなかなか行われなかったが、壊滅的な現実の前にようやく方針を修正し、第一次船舶改善助成施設N型貨物船を建造することとなった[47]

N型貨物船とA型貨物船が整備されると、T型貨物船は入れ替わるようにメインルートからは撤退し、新たに開設された中央アメリカメキシコ湾岸方面への新航路などに転じていった[48]。1930年代後半から世界情勢が緊迫化すると、優秀船を保護するためにT型貨物船など旧型船に差し替え、思わぬ形で表舞台に返り咲くこととなった[49]。間もなく第二次世界大戦の勃発、日米関係の悪化などによって遠洋航路は縮小し、1941年(昭和16年)半ばには定期の遠洋航路は事実上途絶した[49]太平洋戦争突入後は陸海軍徴傭船や船舶運営会使用船として行動し、「龍野丸」、「武豊丸」および「松本丸」はタンカー不足を補うため応急タンカーに改造された。1942年(昭和17年)1月24日のバリクパパン沖海戦で「敦賀丸」が沈没したのを手始めにT型貨物船の諸船も被害が続出し、多数の疎開児童が遭難した「対馬丸」、大量の兵員が遭難した「富山丸」および「りま丸」、輸送中の捕虜に多大な犠牲者が出た「りすぼん丸」のような悲劇の主役も現れた。戦争が終わった時点で、日本に残ったT型貨物船は基隆で航行不能だった「鳥羽丸」ただ一隻が残存し、中華民国に接収された上で修理再就役し、1958年あるいは1962年に解体された。海外に移ったT型貨物船の消長については、「鞍馬山丸」が竣工後すぐにイギリスに売却された "War Nymph" が2回の転売を経てイギリス船として終戦を迎え、戦後にイタリア船籍 "Delia" となり、2回の転売を経て1958年に解体された。

"War Nymph"と「鳥羽丸」の2隻のみが第二次世界大戦を乗り越えたT型貨物船である。

行動略歴

船名行動略歴
日付概要
徳島丸1914年12月10日パナマ運河通過(日本船第一号)[42]
1937年7月15日から1938年3月26日日本陸軍に徴傭[50]
1940年8月3日日本陸軍に徴傭[50]
1942年3月蘭印作戦[51]
1942年3月1日空襲を受け座礁(バタビア沖海戦[52]
1943年6月離礁、昭南(シンガポール)に回航[53]
1943年10月15日宇品着、三菱神戸造船所で修理[53]
1944年3月1日サンジャック沖で海防艦対馬と衝突[54]
1944年9月19日北緯21度27分 東経121度35分 / 北緯21.450度 東経121.583度 / 21.450; 121.583の地点でアメリカ潜水艦「ピクーダ」の雷撃により沈没[7]
鳥取丸1918年6月から1919年アメリカ合衆国に貸与[55]
1937年8月21日から12月15日日本陸軍に徴傭[56]
1938年カルカッタ線[57]
1938年6月25日から1939年5月23日日本陸軍に徴傭[56]
1941年5月31日から9月7日マドラス線最終就航(5月31日横浜発、7月18日ヴィシャーカパトナム着/7月21日発、9月7日関門着)[58]
1941年9月13日日本陸軍に徴傭[56]
1942年5月19日潜水艦の雷撃により損傷[56]
1944年1月15日解傭および日本海軍に徴傭[56]
1944年11月14日マニラでアメリカ第38任務部隊機の空襲により大破[56]
1945年5月15日北緯09度58分 東経101度05分 / 北緯9.967度 東経101.083度 / 9.967; 101.083の地点でアメリカ潜水艦「ハンマーヘッド」の雷撃により沈没[8][59]
対馬丸1916年6月21日東航ニューヨーク線
1938年カルカッタ線[57]
1941年9月21日から1942年5月5日日本陸軍に徴傭[60]
1941年12月21日リンガエン湾上陸戦[61]
1942年2月18日パレンバン攻略戦[51]
1942年6月12日から1943年10月28日船舶運営会使用船[60]
1943年10月28日日本陸軍に徴傭[60]
1944年8月22日北緯29度33分 東経129度30分 / 北緯29.550度 東経129.500度 / 29.550; 129.500の地点でアメリカ潜水艦「ボーフィン」の雷撃により沈没
高田丸1916年2月2日アメリカ船「シルバー・シェル」と衝突し、翌日沈没[11]
豊岡丸1919年1月10日カルカッタ・南アメリカ線
1938年ボンベイ[57]
1940年3月15日鏑木汽船に売却[10]
1942年3月蘭印作戦[51]
1944年9月9日北緯19度45分 東経120度53分 / 北緯19.750度 東経120.883度 / 19.750; 120.883の地点でアメリカ潜水艦「クイーンフィッシュ」の雷撃により沈没[10]
富山丸1935年7月3日南洋海運に移籍[13]
1937年1月小野合名に移籍[13]
1938年ボンベイ線[57]
1941年12月24日ラモン湾上陸戦[61]
1943年8月太洋興業に移籍[13]
1944年6月29日北緯27度43分 東経129度06分 / 北緯27.717度 東経129.100度 / 27.717; 129.100の地点でアメリカ潜水艦「スタージョン」の雷撃により沈没[13]
豊橋丸1938年ハンブルク[62]
1940年3月3日から8月25日リバプール線最終就航(3月3日横浜発、5月20日リバプール着/5月28日発、パナマ運河経由8月25日横浜着)[63]
1941年11月18日日本陸軍に徴傭[64]
1941年12月24日ラモン湾上陸戦[61]
1942年6月4日北緯07度14分 東経98度06分 / 北緯7.233度 東経98.100度 / 7.233; 98.100の地点でイギリス潜水艦「トラスティ英語版」の雷撃により沈没[15][65]
徳山丸1918年8月2日北緯39度12分 西経70度23分 / 北緯39.200度 西経70.383度 / 39.200; -70.383の地点でドイツ潜水艦U-140の雷撃により沈没[15][66]
但馬丸1938年ハンブルク線[62]
1941年9月23日日本陸軍に徴傭[67]
1941年12月21日リンガエン湾上陸戦[61]
1942年2月14日バンカ島ムントク攻略戦[51]
1944年5月6日竹一船団加入中、北緯02度42分 東経124度07分 / 北緯2.700度 東経124.117度 / 2.700; 124.117の地点でアメリカ潜水艦「ガーナード」の雷撃により沈没
龍野丸1934年10月中南米ガルフ線[68]
1941年9月11日日本陸軍に徴傭[69]
1942年3月蘭印作戦[51]
1942年3月1日バタビア沖海戦で損傷[70]
1943年1月4日から2月19日大阪鉄工所桜島工場で応急タンカーに改装[71]
1943年1月4日解傭、日本海軍に徴傭[69]
1943年8月13日バリクパパンで爆撃を受け損傷[72]
1943年9月12日から11月30日スラバヤで修理[72]
1943年12月7日から1944年1月7日スラバヤ出港、バリクパパン、タラカン島(12月22日)、サンボアンガ(12月27日)、セブを経てマニラ[72]
1944年1月16日北緯27度43分 東経129度06分 / 北緯27.717度 東経129.100度 / 27.717; 129.100の地点でアメリカ潜水艦「スレッシャー」の雷撃により沈没[18]
鳥羽丸1920年8月重油専焼船に改修[73]
1938年カルカッタ線[57]
1938年7月11日から1939年1月4日日本陸軍に徴傭[74]
1941年7月15日日本陸軍に徴傭[74]
1942年4月25日アメリカ潜水艦「スピアフィッシュ」の雷撃により損傷[65][74]
1945年6月16日基隆で爆撃を受け損傷[19]
1945年7月11日解傭[74]
1945年8月15日以降中華民国に接収[19]
1946年9月修理完了。航業公司の所有となり「台南」と改名[19][74]
時期不詳益祥船業公司に移籍、「福祥」と改名[19][74]
1958年あるいは1962年売却の上、高雄で解体[19][74]
常磐丸1938年ボンベイ線[57]
1939年10月15日鏑木汽船に移籍[20]
1941年12月21日リンガエン湾上陸戦[61]
1942年3月蘭印作戦[51]
1943年6月19日北緯32度31分 東経126度17分 / 北緯32.517度 東経126.283度 / 32.517; 126.283の地点でアメリカ潜水艦「ギターロ」の雷撃により沈没[20]
敦賀丸1938年ハンブルク線[62]
1937年8月25日から1938年3月30日日本陸軍に徴傭[75]
1940年6月20日から10月1日近東・イタリア線最終就航(6月20日横浜発、8月9日アデン着/8月10日発、10月1日横浜着)[63]
1941年7月21日日本陸軍に徴傭[75]
1941年12月19日ダバオ攻略戦[76]
1942年1月10日から13日タラカン島攻略戦[77]
1942年1月24日バリクパパン沖でオランダ潜水艦「K XVIII」の雷撃により沈没(バリクパパン沖海戦)
津山丸1934年10月18日中南米ガルフ線[68][78]
1941年10月4日日本陸軍に徴傭[78]
1941年12月21日リンガエン湾上陸戦[61]
1942年3月蘭印作戦[51]
1943年9月11日アメリカ潜水艦「スピアフィッシュ」の雷撃により損傷[79][78]
1944年10月2日バシー海峡北緯20度50分 東経121度31分 / 北緯20.833度 東経121.517度 / 20.833; 121.517の地点)でアメリカ潜水艦「ポンフレット」の雷撃により沈没[20]
りま丸1937年9月1日から1938年3月30日日本陸軍に徴傭[80]
1938年6月24日から1939年1月16日日本陸軍に徴傭[80]
1941年9月13日日本陸軍に徴傭[80]
1941年12月21日リンガエン湾上陸戦[61][81]
1942年2月18日パレンバン攻略戦[51]
1942年5月開戦劈頭に損傷した陸軍輸送船阿蘇山丸(三井物産、8,811トン)を香港まで曳航[81]
1944年2月8日北緯31度05分 東経127度17分 / 北緯31.083度 東経127.283度 / 31.083; 127.283の地点でアメリカ潜水艦「スヌーク」の雷撃により沈没[26]
りおん丸1923年9月関東大震災被災者輸送
1937年8月5日から1941年1月13日日本陸軍に徴傭[82]
1941年1月13日日本海軍に徴傭[82][83]
1941年1月15日から4月3日浦賀船渠で艤装工事[83]
1941年3月1日特設航空機運搬艦[84][83]
1941年1月1日特設運送船[82][83]
1944年1月17日ラバウルで爆撃を受けて損傷[26]
1944年1月24日ラバウルで爆撃を受けて大破、被害拡大により放棄[26]
1945年11月30日除籍[83]
1946年9月30日解傭[83]
りすぼん丸1938年カルカッタ線[57]
1941年11月1日日本陸軍に徴傭[85]
1941年12月24日ラモン湾上陸戦[61]
1942年2月2日馬公港外で防御機雷に触雷して座礁[85]
1942年10月1日北緯30度17分 東経123度15分 / 北緯30.283度 東経123.250度 / 30.283; 123.250の地点でアメリカ潜水艦「グルーパー」の雷撃により損傷し、翌10月2日沈没[28]
武豊丸1934年10月中南米ガルフ線[68]
1938年8月9日から1939年1月19日日本陸軍に徴傭[86]
1941年9月13日から1942年4月27日日本陸軍に徴傭[86]
1941年12月21日リンガエン湾上陸戦[61]
1942年3月蘭印作戦[51]
1942年5月28日から1942年12月3日船舶運営会使用船[86]
1942年12月3日から1943年9月12日日本海軍に徴傭[87]
1942年12月4日から1943年1月15日三菱横浜造船所で応急タンカーに改装[71]
1943年9月12日船舶運営会使用船[87]
1943年9月20日第197船団加入中、名瀬港台風避泊中に座礁、のちに離礁[88]
1944年8月21日北緯13度23分 東経120度19分 / 北緯13.383度 東経120.317度 / 13.383; 120.317の地点でアメリカ潜水艦「レイ」の雷撃により沈没[31]
高岡丸1934年10月中南米ガルフ線[68]
1938年南米西岸線[89]
1938年8月24日から1939年1月7日日本陸軍に徴傭[90]
1940年4月10日から10月5日東航世界一周線最終就航(4月10日大阪発・ロサンゼルス、パナマ運河経由6月9日ロンドン着/6月20日リバプール発、アメリカ東海岸およびパナマ運河経由10月5日横浜着)[63]
1941年6月ペルー・モエンド沖で座礁した日本郵船「有馬丸」(7,389トン)の救援作業[91]
1941年9月10日日本陸軍に徴傭[90]
1941年12月21日リンガエン湾上陸戦[61]
1942年3月蘭印作戦[51]
1944年6月5日第3530船団加入中、北緯18度40分 東経140度35分 / 北緯18.667度 東経140.583度 / 18.667; 140.583の地点でアメリカ潜水艦「シャーク」の雷撃により沈没[31]
水戸丸1935年12月1日駆逐艦ダッチェス乗員の治療[92]
1938年ハンブルク線[62]
1941年1月19日日本陸軍に徴傭[93]
1942年1月23日ラバウル攻略戦[61]
1942年1月24日ラバウル沖で爆撃を受け損傷[93]
1942年5月ポートモレスビー作戦[94]
1943年8月25日ラバウル沖で爆撃を受け損傷[93]
1944年4月16日南緯02度25分 東経127度24分 / 南緯2.417度 東経127.400度 / -2.417; 127.400の地点でアメリカ潜水艦「パドル」の雷撃により沈没[32]
松江丸1938年ハンブルク線[62]
1937年10月28日から1938年1月10日日本陸軍に徴傭[95]
1938年7月20日から1939年5月22日日本陸軍に徴傭[95]
1941年7月11日日本陸軍に徴傭[95]
1941年12月グアムの戦い[96][97]
1942年5月ポートモレスビー作戦[94]
1942年8月ニューギニア島バサブア攻略戦[94]
1944年3月から4月松輸送[98]
1944年4月17日北緯09度30分 東経142度35分 / 北緯9.500度 東経142.583度 / 9.500; 142.583の地点でアメリカ潜水艦「ハーダー」の雷撃により沈没[33][59]
松本丸1929年3月台州列島でイタリア駆逐艦「ムジャ」救助[99]
1938年ハンブルク線[62]
1938年8月20日から1939年1月20日日本陸軍に徴傭[100]
1939年5月15日から9月11日日本海軍に徴傭[100]
1940年3月6日から8月7日日本海軍に徴傭[100]
1941年6月25日から10月14日カルカッタ線最終就航(6月25日横浜発・8月15日カルカッタ着/9月7日発・10月14日横浜着)[58]
1941年10月26日から1943年10月31日日本海軍に徴傭[100]
1943年2月3日から3月10日呉海軍工廠で応急タンカーに改装[71]
1943年10月31日船舶運営会使用船[100]
1944年10月25日北緯25度04分 東経119度35分 / 北緯25.067度 東経119.583度 / 25.067; 119.583の地点でアメリカ潜水艦「タング」の雷撃により座礁、翌日沈没[34][100]
前橋丸1935年7月3日南洋海運に移籍[35]
1938年カルカッタ線[57]
1942年3月蘭印作戦[51]
1943年9月30日北緯06度01分 東経139度08分 / 北緯6.017度 東経139.133度 / 6.017; 139.133の地点でアメリカ潜水艦「ポーギー」の雷撃により沈没[35]
與禰丸1916年A/S Gilberts Rederi II(ノルウェー)に売却され、"Lovli"に改名[101]
1916年H. Westfal-Larsen(ノルウェー)に売却[101]
1917年Soc. Nazionale di Nav.(イタリア)に売却[101]
1917年10月11日北緯44度14分 東経8度03分 / 北緯44.233度 東経8.050度 / 44.233; 8.050の地点でドイツ潜水艦UC-35英語版の雷撃により沈没[102]
第二與禰丸1917年11月竣工直前にWar Shipping Controller(イギリス)に売却され、"War Dame"に改名[103]
1919年9月Liverpool, Brazil & River Plate Steam Nav. Co., Ltd.(イギリス)に売却され、"Delambra"に改名[103]
1934年Lamport & Holt Ltd.(イギリス)に売却[103]
1940年7月7日南緯04度00分 西経26度00分 / 南緯4.000度 西経26.000度 / -4.000; -26.000の地点でドイツ仮装巡洋艦「トール」の攻撃を受けて沈没[103][104]
鞍馬山丸1918年The Shipping Controller(イギリス)に売却され、"War Nymph"に改名[105]
1919年Miguelde Larrinaga SS. Co., Ltd.(イギリス)に売却され、"Pilarde Larrinaga"に改名[105]
1931年Larrinaga S. S. Co. Ltd.(イギリス)に移籍[105]
1949年'I.N.S.A.' Soc. di Nav.(イタリア)に売却され、"Delia"に改名[105]
1952年"Ausonia" del Fratelli Ravano di Alberto(イタリア)に売却され、"Honestas"に改名[105]
1956年"Soarma" Soc. Armamento Marittimo N.C. & Cia. de Nav. "Stella del Nord" S. P. A.(イタリア)に売却され、"Russula"に改名[105]
1957年12月7日解体のため売却[105]
1958年ラ・スペツィアで解体[105]
第五大福丸1917年Furness, Withy & Co.(イギリス)に移籍し、"War Soldier"に改名[106]
1919年Union-Castle Mail SS. Co.(イギリス)に売却され、"Ripley Castle"に改名[106]
1931年解体[106]
第七大福丸1917年Furness, Withy & Co.(イギリス)に移籍し、"War Sailor"に改名[107]
1919年British India Steam Nav. Co. Ltd.(イギリス)に売却され、"Hatarana"に改名[107]
1942年8月18日SL118船団に参加中、U-214英語版の雷撃により沈没[108]

要目一覧

船名総トン数/ (載貨重量トン数)全長/垂線間長型幅型深主機/馬力(最大)最大速力出典
徳島丸6,055 トン/(1942年)5,975 トン
(9,802トン)
129.08 m Lpp16.95 m9.54 m三連成レシプロエンジン1基1軸
3,246 馬力
10.6 ノット[6][7][109]
鳥取丸6,057 トン/(1942年)5,973 トン
(9,802トン)
128.78 m Lpp16.95 m9.54 m三連成レシプロエンジン1基1軸
3,203 馬力
12.7 ノット[6][7][110]
対馬丸6,724 トン/(1942年)6,754 トン
(10,615トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
4,396 馬力
14.0 ノット[10][9][111]
高田丸6,728 トン135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
4,396 馬力
12.0 ノット[11][9]
豊岡丸7,375 トン/(1942年)7,097 トン
(10,748トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三菱パーソンズ タービン機関2基2軸
5,700 馬力
14.5 ノット[12][10][112]
富山丸7,266 トン/(1942年)7,089 トン
(10,795トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三菱パーソンズ タービン機関2基2軸
5,700 馬力
14.5 ノット[12][13][113]
豊橋丸7,298 トン/(1942年)7,031 トン
(10,504トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
5,929 馬力
14.6 ノット[14][15][114]
徳山丸7,322 トン
(10,477トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
5,868 馬力
14.6 ノット[14][13]
但馬丸7,295 トン/(1942年)6,995 トン
(10,314トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
6,100 馬力
14.9 ノット[14][13][115]
龍野丸7,295トン/(1942年)6,960 トン
(10,314トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
6,228 馬力
14.8 ノット[14][18][116]
鳥羽丸7,266 トン/(1942年)6,995 トン
(10,293トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
6,343 馬力
15.0 ノット[14][19][117]
常磐丸7,262 トン/(1942年)6,971 トン
(10,827トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三菱パーソンズ タービン機関2基2軸
5,500 馬力
14.7 ノット[12][20][118]
敦賀丸7,289 トン/(1942年)6,987 トン
(10,792トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
5,300 馬力
14.7 ノット[12][21][119]
津山丸7,289 トン/(1942年)6,962 トン
(10,559トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
5,332 馬力
14.8 ノット[12][20][120]
りま丸7,250 トン/(1942年)6,989 トン
(10,744トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
5,304 馬力
14.6 ノット[25][26][121]
りおん丸7,018 トン
(10,625トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
5,256 馬力
14.5 ノット[27][26][122]
りすぼん丸7,038 トン
(10,547トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
4,684 馬力
14.5 ノット[27][28][123]
武豊丸7,028 トン/(1942年)6,964 トン
(10,645トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
4,483 馬力
12.0 ノット[27][31][124]
高岡丸7,047 トン/(1942年)7,006 トン
(10,655トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
4,866 馬力
12.0 ノット[27][31][125]
水戸丸7,061 トン
(10,571トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
5,300 馬力
12.0 ノット[27][32][126]
松江丸7,061 トン
(10,564トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
5,584 馬力
13.0 ノット[27][33][127]
松本丸7,025 トン
(10,603トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
5,752 馬力
13.0 ノット[27][34][128]
前橋丸7,005 トン
(10,402トン)
135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
5,256 馬力
14.5 ノット[27][35][129]
與禰丸7,340 トン135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三菱パーソンズ タービン機関1基1軸
3,740 馬力
14.5 ノット[12]
第二與禰丸7,351 トン135.64 m Lpp17.68 m10.36 mレシプロエンジン1基1軸
4,081 馬力
14.5 ノット[12]
鞍馬山丸7,352 トン135.64 m Lpp17.68 m10.36 mレシプロエンジン1基1軸
4,213 馬力
14.5 ノット[12]
第五大福丸7,522 トン135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
6,029 馬力
15.2 ノット[106]
第七大福丸7,522 トン135.64 m Lpp17.68 m10.36 m三連成レシプロエンジン2基2軸
6,029 馬力
15.2 ノット[107]

脚注

注釈

出典

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、31頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、32頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、38頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、39頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、40頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、41頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、42頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、43頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、44頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、45頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、46頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、47頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、48頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、49頁。 
    • Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、50頁。 
    • Ref.C08050081400『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、1頁。 
    • Ref.C08050081400『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、2頁。 
    • Ref.C08050081400『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、3頁。 
    • Ref.C08050081400『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、35頁。 
    • Ref.C08050081600『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、13頁。 
    • Ref.C08050081600『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、14頁。 
  • James P. Duffy, Hitler's Secret Pirate Fleet: The Deadliest Ships Of World War II, University of Nebraska Press, 2005, ISBN 0-8032-6652-9
  • Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3 
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  • 日本郵船戦時船史編纂委員会『日本郵船戦時船史』 下、日本郵船、1971年。 
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。 
  • 海防艦顕彰会(編)『海防艦戦記』海防艦顕彰会/原書房、1982年。 
  • 木津重俊(編)『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年。ISBN 4-905551-19-6 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 財団法人日本経営史研究所(編)『日本郵船株式会社百年史』日本郵船、1988年。 
  • 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年。ISBN 4-425-31271-6 
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』野間恒(私家版)、2004年。 
  • 正岡勝直「日本海軍特設艦船正史」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、6-91頁。 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、92-240頁。 
  • 松井邦夫『日本商船・船名考』海文堂出版、2006年。ISBN 4-303-12330-7 

関連項目

外部リンク