パウロ・フットレ

ポルトガルのサッカー選手

パウロ・ジョルジュ・ドス・サントス・フットレポルトガル語: Paulo Jorge dos Santos Futre, 1966年2月28日 - )は、ポルトガル・モンティージョ出身の元サッカー選手。ポジションはFW(ウイング[1])、MF(攻撃的MF)。鋭いドリブルを武器とした[2][3] 。左利きだが、両足が使え、優れたパスを供給するチャンスメーカーとしても知られ、甘いマスクで女性ファンの人気も集めた[4]

パウロ・フットレ
1992年、コパデルレイ優勝時のフットレ
名前
本名パウロ・ジョルジュ・ドス・サントス・フットレ
Paulo Jorge dos Santos Futre
ラテン文字Paulo Futre
基本情報
国籍ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 (1966-02-28) 1966年2月28日(58歳)
出身地モンティジョポルトガル語版
身長175cm
体重72kg
選手情報
ポジションFW / MF
ユース
1974-1975ポルトガルの旗 モンティジョ英語版
1975-1983ポルトガルの旗 スポルティングCP
クラブ1
クラブ出場(得点)
1983-1984ポルトガルの旗 スポルティングCP 21 (3)
1984-1987ポルトガルの旗 ポルト 81 (25)
1987-1993スペインの旗 アトレティコ・マドリード 163 (38)
1993ポルトガルの旗 ベンフィカ 11 (3)
1993フランスの旗 マルセイユ 8 (2)
1993-1995イタリアの旗 レッジャーナ 13 (5)
1995-1996イタリアの旗 ミラン 1 (0)
1996-1997イングランドの旗 ウェストハム・U 9 (0)
1997-1998スペインの旗 アトレティコ・マドリード 10 (0)
1998日本の旗 横浜フリューゲルス 13 (3)
通算320 (79)
代表歴2
1983-1995ポルトガルの旗 ポルトガル41 (6)
1. 国内リーグ戦に限る。
2. 2017年6月29日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴

1983年スポルティングCPの下部組織を経て、17歳で1部リーグにデビュー、すぐにポルトガル代表にも選出された[4]。ポルトガル代表では、1983年9月22日のフィンランド戦でデビュー[4]。41試合で6ゴールを記録、1986 FIFAワールドカップにも出場し、1995年まで代表でプレーした。

1984年にFCポルトへ移籍、鋭いドリブルをみせるなど能力を発揮し、1984-85、1985-86シーズンのリーグ連覇、1986-87シーズンのチャンピオンズカップでは、準決勝のディナモ・キエフ戦1stレグでゴールを決め[5]、決勝進出に貢献、決勝でバイエルン・ミュンヘンを2-1と破り優勝を果たした[6]。1987年のUEFA欧州最優秀選手賞の投票では、ルート・フリットに次ぐ2位に選出された[7]。本人は受賞を確信していたが、フリット106票、フットレは91票、シルヴィオ・ベルルスコーニが自分のチームのフリットに受賞させるため、票を買収するなどの不正を行ったのではないかという報道もあり、論争や非難が起きた[4]

1987-88シーズンからはアトレティコ・マドリードへ移籍。ここではキャプテンを務めた。1987-88シーズン終了後、ASローマへの移籍で個人合意したものの、クラブ間合意に至らず、移籍は破談となった[4]。1990-91シーズンにコパ・デル・レイを制し、1991-92の同大会決勝のレアル・マドリード戦ではゴールを決め、優勝に貢献[8]、また、同シーズンのリーガ得点王になったマノロ・サンチェスに沢山のアシストを決めた[9]。しかし、この頃、度重なる悪質なファールを受けてきたことから、膝の調子が思わしくない状態となりつつあり、1992-93シーズン途中にベンフィカへ移籍[4]。ファンから熱狂的な歓迎を受けた[4]タッサ・デ・ポルトガル決勝のボアヴィスタ戦で2ゴールを決め[10]、同大会の優勝をもたらした。

1993-94シーズン、マルセイユに移籍するも、怪我に悩まされただけでなく、ドラガン・ストイコビッチとのポジション争いもあった[4]。更にシーズン中に前年度の八百長問題が発覚したことで、ボクシッチデサイーらの主力選手たちがチームを去る中、フットレにはACミランが獲得に興味を示していたが、レッジャーナに移籍、移籍後初出場のクレモネーゼ戦で決勝ゴールを決め、チーム史上セリエAでの初勝利を呼び込むも、その試合でラフプレーを受け負傷し、シーズンを終えた[11][12]。翌1994-95シーズンも怪我で多くの試合を欠場し、12試合で4得点に終わった。また、チームはセリエBへの降格が決定した[4]

1994-95シーズン終了後すぐにACミランに移籍、プレシーズンのアジアツアーからチームに帯同し、清水エスパルス戦で移籍後初ゴールを決めるなどの活躍を見せた。しかし、加入から6週間後、右膝を負傷して手術を受け、1995-96シーズンをほぼ棒に振った[4]。チームは優勝を果たすも、セリエA最終節のクレモネーゼ戦に出場[13]。この試合では、ボールを受けるごとにファンからは暖かい拍手を送られた[4]

1996年にウェストハムに移籍したが、10番以外の番号でのプレーを拒否した[14]、怪我もあって9試合のみの出場に終わる。アトレティコ・マドリードへの復帰を経て、1998年カルロス・レシャックが監督を務めていた、横浜フリューゲルスに加入[1]レディアコフらと攻撃陣をリードした[15]。Jリーグデビュー2戦目の5月5日のサンフレッチェ広島戦で初ゴールを決め[16]、5月9日のアビスパ福岡戦、再開後の7月25日のコンサドーレ札幌戦と3試合連続ゴールを決めたが、セカンドステージ9月26日のベルマーレ平塚戦の後、9月28日にレシャックが成績不振で監督を退任すると、以降出場することはなく[17]、32歳で引退した。Jリーグでは13試合3ゴールに終わった[16]

エピソード

2014年11月、ポルトガルの新聞『レコルトポルトガル語版』においてアトレティコ・マドリード時代に八百長を当時のアトレティコ会長ヘスス・ヒルより持ち掛けられたことを告白した[18]

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点出場得点出場得点 出場得点
ポルトガルリーグ戦 リーグ杯ポルトガル杯期間通算
1983-84スポルティングCPリーガ213
1984-85ポルト306
1985-86267
1986-872512
スペインリーグ戦 国王杯オープン杯期間通算
1987-88A・マドリードプリメーラ35831
1988-8928570
1989-90261020
1990-9126361
1991-9231665
1992-9316520
ポルトガルリーグ戦 リーグ杯ポルトガル杯期間通算
1993ベンフィカリーガ11322
フランスリーグ戦 F・リーグ杯フランス杯期間通算
1993マルセイユアン82
イタリアリーグ戦 イタリア杯オープン杯期間通算
1993-94レッジャーナセリエA11
1994-95124
1995-96ミラン10
イングランドリーグ戦 FLカップFAカップ期間通算
1996-97ウェストハムプレミア90
スペインリーグ戦 国王杯オープン杯期間通算
1997-98A・マドリードプリメーラ10000
日本リーグ戦 リーグ杯天皇杯期間通算
1998横浜F31J1333000163
通算ポルトガルリーガ11331
スペインプリメーラ17237
フランスアン82
イタリアセリエA145
イングランドプレミア90
日本J1333000163
総通算32978

代表での成績

出典[19]


ポルトガル代表国際Aマッチ
出場得点
198310
198440
198541
198640
198720
198810
198941
199010
199182
199230
199382
199400
199510
通算416

代表での得点

#開催日開催地対戦国結果大会
11983年3月26日ポルトガルリスボン ルーマニア2-3親善試合
21983年3月26日スイスヌーシャテル チェチェン2-11990 FIFAワールドカップ・予選
31983年3月26日ギリシャアテネ ギリシャ3-2UEFA EURO '92予選
41983年3月26日マルタタ・アーリ英語版 マルタ1-0UEFA EURO '92予選
51983年3月26日ポルトガル、リスボン スコットランド5-01994 FIFAワールドカップ・予選
61983年3月26日ポルトガル、リスボン エストニア3-01994 FIFAワールドカップ・予選

個人タイトル

脚注

関連項目

外部リンク