広澤克実

日本の元プロ野球選手
広沢克実から転送)

広澤 克実(ひろさわ かつみ、1962年4月10日 - )は、茨城県下妻市生まれ、同結城市出身[1]の元プロ野球選手内野手外野手、右投右打)、指導者、野球解説者登録名は、1995年までは「広沢 克己」、1996年から1998年までは「広沢克」、1999年以降は「広澤 克実」(全て読み同じ)。愛称は「トラ」など。

広澤 克実(広沢 克己)
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地茨城県結城市[1](茨城県下妻市生まれ)
生年月日 (1962-04-10) 1962年4月10日(62歳)
身長
体重
185 cm
99 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手外野手三塁手
プロ入り1984年 ドラフト1位
初出場1985年4月13日
最終出場2003年10月27日(日本シリーズ第7戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
オリンピック
男子 野球
1984野球

ヤクルトスワローズ時代は、池山隆寛との「イケトラコンビ」として、主砲として活躍した[2]読売ジャイアンツ阪神タイガースの両球団で4番打者を務めた唯一の選手でもある[3]ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。

経歴

プロ入りまで

学生時代は、野球だけでなく柔道も経験しており、中学時代には柔道部で北関東準優勝をしており[4]、有段者であるとのこと[5][6]。柔道の腕前は古田敦也によると、パウンド・フォー・パウンドなら小川直也にも勝つレベルであったかもしれないという。相撲にも造詣があり、ヤクルト時代はキャンプ中に若手と相撲を取って子供のように投げ飛ばしたという。広澤は野球以外も経験した上でプロ野球選手になったことから、幼少期には様々なスポーツをやるべきだ、将来複数のプロスポーツを掛け持ちする選手が日本にも出て来てほしいと主張している[7]。高校は小山高校に進学し1980年夏の栃木大会決勝に進出するが、黒磯高に完封を喫し甲子園出場を逸する[8]。高校3年時のドラフトにはかからなかったが、巨人とロッテからドラフト外での入団を打診されたことを明かしている[9]

卒業後は明治大学文学部に進学。同期に竹田光訓善波達也東京ガス - 明大監督)がいる。下級生時代は練習の辛さや人間関係から、何度も辞めようと思ったことがあるというが、先輩の平田勝男が悩んでいる広澤を部屋に呼び、蕎麦などをごちそうし、「食べたら街にでも遊びに行って来い、夜まで帰ってこなくていいぞ」と気を遣ってくれて、広澤は涙が止まらなかったという。大活躍へのスタートを切ったきっかけは、紺白戦(明大では紅白戦のことをこう呼ぶ)のメンバーに入れなかった広澤が、島岡吉郎監督の横で監督用の焚き火と焼き芋の番をしていたところ、島岡から「お前打ってみろ」といきなり代打に指名されたことであった。ここで快打を飛ばし、即ベンチ入りが決まった。

東京六大学リーグでは1983年春季リーグで2年ぶりの優勝に貢献し、同年は史上2人目の2シーズン連続首位打者を獲得した他、4試合連続本塁打のリーグ新記録を達成した。翌1984年にはロサンゼルスオリンピック野球日本代表チームの一員として出場した[注 1]。決勝戦で本塁打を打ち、金メダル獲得に貢献[10]。また、同年の秋季リーグでも在学中3度目の優勝を飾っている。

リーグ通算69試合に出場し248打数87安打、打率.351、18本塁打、47打点。ベストナイン3回。1983年、1984年には、日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。

ヤクルト時代

1984年ドラフト1位で日本ハムファイターズ西武ライオンズ、ヤクルトスワローズが競合し、抽選の結果ヤクルトに入団した[11][12]。契約金7,000万円[13]

ヤクルトでは大杉勝男の引退後、有望な選手が入団するまで保留欠番となっていた背番号8を与えられた[注 2]

ルーキーイヤーの1985年は、4月13日の中日戦でプロ初出場し[14]、6月から一塁手レギュラーとなった。打率.250、本塁打18本、打点52と、ルーキーイヤーから中心打者として活躍した。

若手時代のヤクルトは弱小球団で本人が「5月から消化試合(正式な消化試合ではない)」と表現するほどであり、アマチュア時代はある程度強い学校にいた広澤は「野球ってこんなに負けるんだな」とショックを受けた[15]

1986年土橋正幸監督は広澤を我慢して使い[16]、シーズンを通して一塁手レギュラーとして起用され、打率.253、本塁打16本、打点45と、出場機会を増やして規定打席に到達した[17]

1987年関根潤三が監督に就任し、一塁手にレオン・リーボブ・ホーナーが起用され、広澤は右翼手にコンバートされた。広澤は関根に「全試合に出ろ」と言われ、紅白戦を含めて休みなく、公式戦移動日も猛練習を課された[18]。打率.284、本塁打19本、打点60と結果を残した。

1988年の開幕は6番右翼手だったが、8月以降は4番に据えられた。このシーズン以降、池山隆寛と共に「イケトラコンビ」、または「HI砲」(H=広沢、I=池山)と呼ばれ、ヤクルトの主軸を形成した。打率.288、本塁打30本(キャリアハイ)、打点80と4番に相応しい成績を残し、自身初となるベストナインに選ばれた(外野手選出)。

1989年、シーズンを通してほぼ5番右翼手で起用されたが、打撃成績は打率.270、本塁打17本、打点59と、前年より落としている。池山、ラリー・パリッシュと共に三振を量産し、100三振トリオと呼ばれた。

1990年広沢好輝が入団したため、1994年まではスコアボード・新聞上の表記が「広沢克」に変更。後年、これが登録名となる。

1990年のシーズンから野村克也が監督に就任。5月からは不動の4番として出場し、以降ヤクルト時代はほぼ4番打者として固定された。中軸打者を務めた時期の間、打順が変わることはあったものの、連続試合出場をし続けた(広沢は1986年10月12日から1995年10月8日まで1180試合連続出場の記録を作っている)。なお、野村の自宅を訪ねた時、広澤が打点王タイトル獲得記念でプレゼントした空気清浄機が古くなっても活用されているのを見てとても嬉しかったとのエピソードを、後年にスポーツニッポンの引退記念コラムで語っている。

開幕は3番三塁手、5月から4番一塁手、6月末から4番右翼手でシーズンを通して起用された。5月30日時点で打率4割を記録しているなど、首位打者を独走していたが、後半失速した。しかし、打率.317、本塁打25本、打点72の成績で、2度目のベストナインに選出された。

1991年はシーズンを通して4番一塁手で固定され、打率.278、本塁打27本、打点はキャリアハイの99となり、自身初のタイトルとなる打点王を獲得している。外野手としては20試合にしか出場していないが、この年も外野手としてベストナインに選ばれた。

1992年は、打率.276、本塁打25本、打点85を記録した。広澤は入団からこの年までシーズン100三振以上を繰り返したが、打率は.250以上を維持している。この年チームはリーグ優勝を果たし、広澤は初めて日本シリーズに出場した[19]。この西武ライオンズとの日本シリーズ第7戦では広澤の本塁スライディングが流れを変えたとされ、今なお様々な意見がある[20][21][22][19]

1993年は打率.288、25本塁打、94打点で、2度目の打点王を獲得した。日本シリーズで前年に引き続き西武と対戦し、初の日本一を達成した。一塁手としてベストナインに選ばれた。

1994年も打率.271、本塁打26本、打点73と、安定した成績を残した。一方でヤクルト球団社長と待遇を巡って対立があり、オフの移籍に繋がった[23]

巨人時代

1994年オフにFA宣言し、同年12月5日に5年契約で読売ジャイアンツに移籍[24]。野村は、この移籍には巨人の体質ゆえに反対しており、広澤が巨人を戦力外後に阪神に移籍した時には、広澤は野村が正しかったと認めたことを野村が後のインタビューで明かしている[25]

巨人初年度となる1995年は、落合博満が不動の4番一塁手だったため、広澤は5番左翼手で起用された[26]。本塁打20本、打点72と長打力は健在だったが、打率を.240に落としている。広澤が打率.250を割ったのはプロ入り以来初めてのことであった。開幕から極度の不振も、連続試合出場のため全試合出場した。

1996年のオープン戦で西武の石井丈裕から死球を受けて骨折したため、開幕に間に合わず、連続試合出場は止まった[27]。この年は、回復後も出場機会が少なく、スタメン復帰は7月以降で、日本シリーズでもベンチ入りできなかった。シーズンオフに広澤自ら自由契約を申し入れたが、フロントに説得されて残留した[28]

1997年松井秀喜中堅手にコンバートされたことから、広澤は左翼から右翼手にコンバートされ、一塁はFA移籍の清原和博が起用された。9月26日の中日ドラゴンズ戦でサイクル安打を達成。打率.280、22本塁打、67打点と、ヤクルト時代の安定した打撃が復活した。翌年からレギュラーを失ったため、シーズン100試合出場はこの年が最後になった。

1998年、外野は左翼に清水隆行、中堅に松井、右翼に大型新人の高橋由伸がレギュラー起用され、広澤はポジションが固定されなかった。少ない出番の中で打率.301、9本塁打、25打点と控え選手として存在感を示した。

1999年、4月29日のヤクルト戦(大阪ドーム)で元同僚の川崎憲次郎から中前安打で出塁したが、二塁への盗塁を試みて右肩を脱臼。これがきっかけでシーズンを棒に振り、同年のスタメン出場は無かった。

広澤は後年巨人での5年間を、マスコミの批判記事が気になり自分を見失っていたと振り返っている[29]

阪神時代

1999年11月5日に巨人を自由契約となり、同年12月3日に阪神タイガースへ移籍することが発表され、2000年から、かつての恩師である野村の下で再びプレーすることとなった。

野村は大豊泰昭と揉めていたこともあり、前年の肩脱臼が完治していない影響で送球に支障があった広澤を4番、一塁手で起用したこともあった[30]。入団後初のお立ち台で「早く六甲おぼし…おろしを覚えますんで、よろしくお願いします」とコメントした。2000年序盤は大豊と一塁争いを続けたが、広澤の調子が悪かったこともあって6月半ば以降は代打中心の起用になった。打率.217、本塁打5本、打点16と、シーズン終了まで復調出来ずに終わった。

2001年、序盤戦の一塁手に主にイバン・クルーズが起用され、広澤は左投手先発の試合で一塁手、右翼手で起用された。6月21日、阪神甲子園球場で行われた巨人戦で代打サヨナラ適時打を打った後、お立ち台で「次サヨナラ打ったら、ここで『六甲おろし』歌いますんで」と公約し、井川慶が完封勝利を挙げた8月29日の巨人戦で6回裏に高橋尚成から唯一の得点となるソロ本塁打を打ち、お立ち台で『六甲おろし』を歌ってその公約を達成した[31]。クルーズが負傷離脱した7月28日以降は一塁のレギュラーとして起用され、打率.284、本塁打12本、打点46と安定した打撃が復活した。

2002年、大学の先輩でもある星野仙一監督が就任した。一塁手はジョージ・アリアスでほぼ固定され、シーズンを通して代打が中心だったが、少ない出場機会で打率.288、1本塁打、11打点を記録した。

2003年もほぼ代打中心の起用だったが、チームが不振に陥った8月16日以降に先発出場している。阪神はこの年1985年以来のリーグ優勝を果たし、打率.306、4本塁打、15打点と優勝に貢献した。この年限りでの現役引退を決意していた広澤は、福岡ダイエーホークスとの日本シリーズで、5打席連続三振というシリーズタイ記録を作ったが、第7戦、9回表二死から矢野輝弘の代打で登場し、当時新人だった和田毅から左翼席へ本塁打を打ち[注 3]、日本シリーズ歴代最年長(当時41歳6か月)の本塁打を記録(日本シリーズでは1992年と1993年に1本ずつ記録しているので、自身通算3本目である。しかし試合に負けたことで、この打席が現役としての最終打席になった)[2]。日本シリーズ終了後、正式に現役引退を表明[32]

ヤクルト時代の1992年1993年、巨人時代の1996年、そして阪神時代の2003年と、巨人では日本シリーズに出場していないが、属した全3球団で優勝を経験した。現役19年間で退場処分を受けたことは一度もない。

日本シリーズの代打本塁打は、2022年時点では阪神の選手が日本シリーズで打った最後の本塁打となっていた[注 4]

引退後

引退後はNHKスポーツニッポンの野球解説者に就任した。関西では朝日放送虎バン』(毎月1回程度)と関西テレビ放送ぶったま!』(レギュラー)にもコメンテーターとして出演した。

2006年10月17日に阪神の一軍打撃コーチ就任が発表され、4年ぶりの現場復帰を果たした。2007年はチーム打率・得点・打点・安打・本塁打がリーグ最下位に低迷し、2008年は13ゲーム差をつけながら巨人に追い抜かれるという記録的なV逸の責任を取り、監督の岡田彰布、チーフ野手コーチの吉竹春樹と共に辞任した。

2009年からは再びスポーツニッポンの評論家を務めているが、前回と違い放送局との専属での契約は行わず、フリーの立場(主にサンテレビなど関西の放送局でのゲスト解説が多かったが、2012年からサンテレビ・仙台放送解説者となった)での本数契約で出演している。

2011年11月に野球カンボジア代表のコーチに就任した[33][34]

2014年に自身のブログで引退後にメニエール病を患っていることが明かされた。2015年に、その詳細を語っている[35][36]

所属事務所は株式会社ビッグベンを経て[37]2019年現在はジャパン・スポーツ・マーケティングがマネージメントを請け負っている[38]。2018年よりABEMA東京六大学野球中継」解説者を務める[39]

2018年3月、日本ポニーベースボール協会理事長に就任[40]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1985ヤクルト11036833636841111815152101126241029.250.311.449.760
1986116414379389614116160455051242510312.253.306.422.728
19871305124616113121319215609214411510516.284.346.466.813
198813054449671143260302598013713432111112.288.344.522.867
198913052947063127160171945911512491712511.270.347.413.759
19901305664968115723125257724103643312811.317.396.518.914
19911325504927113724227246998302535312911.278.351.500.851
19921315775038413918025232853012700113016.276.365.461.826
1993132584524871512202524894710555209617.288.353.473.826
1994130552501631362732624773610545317821.271.330.493.823
1995巨人131512446551071832019172610458148814.240.330.428.758
19963810391918304331300011100294.198.282.363.644
19971264774285612013122201672112432311519.280.349.470.818
1998731921632549719852512122511481.301.393.521.914
19991616142200151010020061.143.250.357.607
2000阪神481251151025105411610001000372.217.280.357.637
200195296268217672121234610132301668.284.339.459.798
2002588066219101231101011201154.288.400.348.748
200337686281930434150000600183.306.368.548.916
通算:19年18937065631184317362551830629459857826134166025401529192.275.345.467.812
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1989年9月27日、対中日ドラゴンズ22回戦(明治神宮野球場)、7回裏に鹿島忠からソロ ※史上156人目
  • 150本塁打:1991年9月12日、対横浜大洋ホエールズ26回戦(明治神宮野球場)、1回裏に石井忠徳から左越3ラン ※史上93人目
  • 1000安打:1992年9月22日、対広島東洋カープ20回戦(明治神宮野球場)、4回裏に長冨浩志から ※史上168人目
  • 1000試合出場:1992年9月27日、対阪神タイガース23回戦(明治神宮野球場)、4番・一塁手で先発出場 ※史上308人目
  • 1000三振:1993年8月22日、対阪神タイガース18回戦(明治神宮野球場)、1回裏に中西清起から ※史上16人目
  • 200本塁打:1993年9月25日、対中日ドラゴンズ24回戦(明治神宮野球場)、10回裏に郭源治からサヨナラソロ ※史上64人目
  • 250本塁打:1996年7月17日、対中日ドラゴンズ12回戦(東京ドーム)、6回裏に平沼定晴から2ラン ※史上36人目
  • 1500試合出場:1997年6月28日、対中日ドラゴンズ13回戦(ナゴヤドーム)、5番・右翼手で先発出場 ※史上119人目
  • 1500安打:1997年8月10日、対中日ドラゴンズ21回戦(東京ドーム)、4回裏に山本昌から中前安打 ※史上72人目
  • 300本塁打:2001年9月12日、対ヤクルトスワローズ24回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に入来智から左中間越2ラン ※史上26人目
  • 1500三振:2002年7月31日、対横浜ベイスターズ20回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に吉見祐治から ※史上5人目
その他の記録

背番号

  • 8(1985年 - 1994年)
  • 80(1995年 - 1996年)
  • 10(1997年 - 1999年)
  • 31(2000年 - 2003年)
  • 85(2007年 - 2008年)

登録名

  • 広沢 克己(ひろさわ かつみ、1985年 - 1995年)
  • 広沢 克(ひろさわ かつみ、1996年 - 1998年)
  • 広澤 克実(ひろさわ かつみ、1999年 - )

登場曲

関連情報

出演

現在の出演番組
過去の出演番組

書籍

DVD

  • 広澤克実のフォーカスゾーン打撃理論」(2014年12月、ベースボールドットコム)

脚注

注釈

出典

関連項目

外部リンク