飯塚定雄

日本の光学合成技師 (1934-2023)


飯塚 定雄(いいづか さだお[1][2]1934年昭和9年〉[1]12月26日[3] - 2023年令和5年〉3月24日[4])は、日本映画光学合成技師、デン・フィルム・エフェクト代表取締役社長[5]

いいづか さだお
飯塚 定雄
生年月日 (1934-12-26) 1934年12月26日
没年月日 (2023-03-24) 2023年3月24日(88歳没)
出身地日本の旗 日本東京都新宿区
職業光学合成技師
配偶者飯塚江津子
テンプレートを表示

東京都[1][2]新宿出身[3]。愛称は「デンさん」[6][7]。妻は東宝で光学作画を務めた飯塚江津子(旧姓・茂田)[8]

経歴

1954年に高校に通いながら二科会美術研究所東郷青児に絵画を学び、19歳の時にアルバイトとして東宝撮影所に入所[1][2][9]。当初は美術助手として、ミニチュアの建物に「汚し」を付ける仕事などを担当していた[7][9]

1957年より円谷英二の奨めで室内合成の光学作画を担当[7][2][9]。『地球防衛軍』以降、東宝特撮独自の光線表現を確立[5]。『ウルトラマン』のスペシウム光線怪獣が吐く破壊光線や火炎、ロケットの噴射などの合成を多く手掛けた。キングギドラの引力光線では、太平洋戦争中に間近で目撃した米軍機の曳光弾射撃が参考になったという[9][10]。なお、『宇宙大戦争』ではロケット噴射を派手に描いたところ、円谷に「宇宙空間でそんなでかい噴射が出るか」と怒られたうえ、その後も何百枚も没にされてキレそうになったが、結局は納得してくれるまで粘ったという[9]

1959年に特殊技術課が設立され、東宝に社員登用される機会があったが、飯塚はこれを固辞して技能契約者として年間契約で参加するかたちとなった[7]。飯塚は辞退した理由として、大企業では学閥が優先されるという考えや、特撮の仕事がなくなった場合に事務職などは務まらないという考えであったことを挙げており、自身の技術で仕事をしなければならないという想いであったと述懐している[7]

円谷の死後、退職して中野稔と共にデン・フィルム・エフェクトを設立する[2]

2015年、文化庁映画賞の映画功労部門で受賞[11]

2023年3月24日、誤嚥性肺炎のため死去。88歳没[4]

人物

  • 「デンさん」という愛称は、飯塚が漫画『デンスケ』の主人公に似ていたことからつけられた[12][7][13]。この呼名が広く定着していたことから、自社にも「デン」を冠している[13]
  • 飯塚によれば、円谷からの発注は「感じを作れ」という一言のみで、自身の経験の引き出しから何を使うか考える必要があったと語っている[2]。また、円谷は仕上がったものに注文をつけることが多く、直接褒められることは一度もなかったという[2]。これまでで最も難しかった合成として、キングギドラの引力光線を挙げている[2]
  • 一方、円谷に従順であった先輩スタッフに代わり、飯塚は円谷に楯突くことも多かったという[7]。それに対し、円谷も怒って怒鳴ることが多かったが、翌日に飯塚はコーヒーを奢ってもらえたという[7]
  • 東宝の契約では他社での仕事は禁止されていたが、円谷の依頼で参加した円谷プロダクションの『ウルトラマン』をはじめ、第一次怪獣ブームのころは『宇宙大怪獣ギララ』(松竹)、『大巨獣ガッパ』(日活)、『宇宙怪獣ガメラ』(大映)などの他社作品の合成も多数手がけた[7]。飯塚によれば、当時は東宝側も円谷の威厳により何も言わなかったという[7]
  • 特技監督の中野昭慶は、飯塚は明るく茶目っ気があり、クランクアップ前の多忙な時期でも現場を明るくしていたと証言している[12]。一方、を患っていたため、一日中座りっぱなしの作画作業では顔をしかめていることもあったという[12]
  • 中野は、ファンタジックで夢のある幸隆生の動画に対し、飯塚は立体的で力量感があったと評している[12]。また、中野は飯塚の傑作として『三大怪獣 地球最大の決戦』でのキングギドラの誕生シーンを挙げている[14]

主な作品

映画

テレビ

オリジナルビデオ

その他

自伝

  • 飯塚定雄、松本肇『光線を描き続けてきた男 飯塚定雄』洋泉社、2016年1月8日。ISBN 978-4-8003-0851-1 

脚注

注釈

出典

参考文献

外部リンク