紫式部

日本の平安時代の女性歌人、作家、女房

紫 式部(むらさき しきぶ)は、平安時代中期の歌人作家女房女官)。

紫 式部
(むらさき しきぶ)
紫式部(土佐光起画、石山寺蔵)
誕生天禄元年(970年
天元元年(978年)?[注釈 2]
死没長和3年(1014年
長元4年(1031年)?[注釈 1]
職業歌人作家女官
言語日本語
国籍日本の旗 日本
活動期間990年代 - 1000年代
ジャンル和歌物語日記文学
代表作
配偶者藤原宣孝
子供大弐三位
親族藤原為時(父)
藤原為信女(母)
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源氏物語』の作者とされ、この作品は生涯で唯一の物語作品となった。歌人としては、『百人一首』の和歌が知られており、『紫式部日記』(18首)、『紫式部集』、『後拾遺和歌集』などにも和歌を残し、和歌795首が詠み込まれた。『中古三十六歌仙』、『女房三十六歌仙』の一人でもある。また、娘の大弐三位も『百人一首』、『女房三十六歌仙』の歌人として知られる。

紫式部 百人一首 57番「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」
眠る紫式部(菊池容斎前賢故実江戸末期から明治初期の作)

概要

紫式部の実名や正確な生没年はわかっていない[注釈 3]。宮中での女房名藤式部(とう の しきぶ / ふじ しきぶ)で、後に「紫式部」と呼ばれたとされるが、いずれも通称である[3]

平安時代貴族階級の女性は当時の慣習で実名を公にしない場合が多く[4][5]、紫式部をはじめ清少納言和泉式部などの名称は通称であり、実名はいずれもわかっていない。明確な通称がない場合、例えば『更級日記』の作者名は「菅原孝標女」(菅原孝標の娘)と表記されている。

紫式部の生没年に関する近年の研究では、天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれ、少なくとも寛仁3年(1019年)までは存命したとされ、その後の没年は誕生年と同じく、研究者ごとに様々な説が出されるがどれも確証はなく不明である[1]。(各説は「生没年」参照)

父の藤原為時官位正五位下と下級貴族ながら[注釈 4][6]花山天皇漢学を教えた漢詩人歌人である[6]。紫式部は20代半ばすぎに藤原宣孝と結婚し一女(大弐三位)を産んだ。長保3年(1001年)、結婚から3年ほどで夫が死去し、長保4年(1002年)頃から『源氏物語』を書き始めた[注釈 5]

寛弘2年(1005年)頃に評判を聞いた藤原道長に召し出され、その娘で、一条天皇中宮彰子に仕える間に、藤原道長の支援のもと『源氏物語』を完成させた[7]。なお、『紫式部集』には夫の死に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている[注釈 6]

作品については、歌人として、『百人一首』に収められている和歌(57番)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」は広く知られており、平安時代末期に中古三十六歌仙鎌倉時代中期に女房三十六歌仙に、それぞれ選出された。また子供時代から晩年のほぼ一生涯にわたり自らが詠んだ和歌から選び収めた家集紫式部集』があり、実名や生没年が不明で資料が少ない紫式部の生活環境の変化や心の変化を知ることができ、平安文学や日本古代中世史などの研究者にとって貴重な資料でもある[8]。そして『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集には計51首の和歌が収められている[9]

物語作品では、54帖から成る『源氏物語』の作者とされ、和歌795首が詠み込まれ、400年にも及ぶ平安時代貴族階級が最も勢いのあった平安中期の貴族社会が描かれている。文章ではなく和歌で描く男女間の核心部分の描写力[注釈 7]をはじめ日本や中国の歴史書、漢籍漢詩への造詣の深さに裏付けされた記述も随所に見られる源氏物語は[11]一条天皇からも評価された[注釈 8]

日記作品では、藤原道長の要請で宮中に上がった際、宮中の様子をはじめ藤原道長邸の様子などを記した『紫式部日記』を残しており、これには和歌18首が詠み込まれている。この日記は寛弘5年(1008年)7月から約1年半にわたる日記で、随所に宮中行事の様子も記され、宮中内の者しか知り得ない現場の様子もよくわかり、行事の開催など事実だけを記載する公的歴史記録では知ることができないものである[13]。また紫式部が女性仲間と物語に関して批評し合い楽しんでいた様子なども書かれており[14]、この日記は源氏物語執筆のきっかけを知ることができる第一級の資料でもある[15]。源氏物語と紫式部日記の2作品は、150年ほど後の平安時代末期に『源氏物語絵巻』、200年ほど後の鎌倉時代初期に『紫式部日記絵巻』として、各々絵画化された。

略伝

17世紀江戸時代初期の作、紫式部を描いた金箔をはった扇子
二千円紙幣D券裏面に描かれている紫式部(右下)。

藤原北家良門流越後守藤原為時の娘で、母は摂津守藤原為信女であるが、幼少期に母を亡くしたとされる。同母の兄弟に藤原惟規がいる(同人の生年も不明であり、式部とどちらが年長かについては両説が存在する[16])ほか、がいたこともわかっている。三条右大臣藤原定方、堤中納言・藤原兼輔はともに父方の曽祖父で、一族には文辞を以って聞こえた人が多い。

幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫式部日記』を著したというのが通説で、和歌集『紫式部集』が伝わっている。

父・為時は30代に東宮の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人式部大丞と出世したが、花山天皇が出家すると散位となる(位禄はある)。10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国受領となる。紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。

長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差があり、又従兄妹でもある[注釈 9]山城守藤原宣孝と結婚して長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けた。この結婚生活は長く続かず、間もなく長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別した。

寛弘2年12月29日1006年1月31日)、もしくは寛弘3年の同日(1007年1月20日)より、一条天皇の中宮彰子藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼(現代でいえば)家庭教師役として仕え、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたようである。

なお、これに先立ち、近代以降の伝記では顧みられることになかった説として、永延元年(987年)の藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕した可能性が指摘されている。『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』や歴史書『今鏡』には紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。しかし、他にも『紫式部日記』からうかがえる、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮があること、永延元年当時は為時が散位であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たることなどが挙げられる。また女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、さらにその間に越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である[17]

また明確な記録は存在しないが、村上天皇の皇子である具平親王光源氏のモデルのひとりともされ、為時や紫式部、その兄の為頼と交流があった可能性がある。具平親王の母荘子女王と為頼・為時兄弟の母は従姉妹の関係であり、為時は「藩邸之旧僕」と題し詩に読み、古くからの親しい交流があったことを示している。また紫式部日記には道長が具平親王の息女隆姫女王を嫡男頼通へ降嫁させるための相談を、式部を具平親王家からの「心よせのある人」として持ちかけていることなどから、紫式部自身も具平親王と知古があったとする説である。[18]

詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠んだものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。

藤原実資の日記『小右記長和2年5月25日1014年6月25日)条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」旨の記述が紫式部で残された最後のものとし、よって三条天皇の長和年間(1012年 - 1016年)に没したとするのが昭和40年代までの通説だったが、現在では、『小右記』寛仁3年正月5日(1019年2月18日)条で、実資に応対した「女房」を紫式部本人と認め[19]、さらに、西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文に「おなじ宮の藤式部、…式部の君亡くなり…」とある詞書と和歌を、岡一男説[20]の『頼宗集』の逸文ではなく、『定頼集』の逸文と推定し、この詠歌以前には死亡していたとする萩谷朴説[21]、今井源衛説が存在する。さらに森本元子は、この逸名歌集の編纂者を藤原道綱の娘豊子・美作三位とし、没年時は萩谷説に矛盾はないとした[22]。これに対し、逸名歌集12首の詠作年次を治安元年(1021年)春、彰子後宮女房の歌稿集の編纂者として伊勢大輔とする上原作和説もある[23]

現在、日本銀行券D号券2000円札の裏には小さな肖像画と『源氏物語絵巻』の一部を使用している。

人物

『石山月』(月岡芳年『月百姿』)『源氏物語』を執筆する紫式部
「古今姫鑑」紫式部 月岡芳年/画(明治9)1876年

名称

宮中での女房名は「藤式部」。「式部」は父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞だったこと)に由来するとする説と、同母兄弟の惟規の官位によるとする説とがある[24]

現在一般的に使われている「紫式部」という呼称について、「」のような色名を冠した呼称はこの時代他に例が無く、このような名前で呼ばれるようになった理由については様々に推測されている。一般的には「紫」の称は『源氏物語』または特にその作中人物「紫の上」に由来すると考えられている[25]

幼名は、『紫式部集』の宣孝と思しき人物の詠歌に「ももといふ名のあるものを時の間に散る桜にも思ひおとさじ」から、「もも」を幼名と解釈する研究者もいる[26]

は、『御堂関白記』の寛弘4年1月29日1007年2月19日)の条で掌侍になったとされる記事にある「藤原香子」(かおるこ/たかこ/こうし)とする角田文衛(1963年)説がある[19][注釈 10]。ただし、推論の過程に誤りが含まれるとの批判があり[27]、また、もし紫式部が「掌侍」という律令制に基づく公的な地位を有していたのなら、「紫内侍」や「式部内侍」として勅撰集や系譜類に何らかの言及があると思えるがその痕跡が全く見えないとする批判もある[28]。その後、萩谷朴の香子説追認論文[29]も提出されているが、以降、積極的な検討は停滞している。

三枝和子『香子の恋 小説 紫式部』、帚木蓬生『香子 紫式部物語』全5巻のように、創作ではタイトルに香子が採用されている例もある。

婚姻関係

紫式部の夫としては藤原宣孝がよく知られており、これまで式部の結婚はこの一度だけであると考えられてきた。しかし、「紫式部=藤原香子」説との関係で、『権記』の長徳3年(997年)8月17日条に現れる「後家香子」なる女性が藤原香子=紫式部であり、紫式部の結婚は藤原宣孝との一回限りではなく、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したのではないかとする説が唱えられている[30]

道長妾

『紫式部日記』には、夜半に道長が彼女の局をたずねて来る一節があり、鎌倉時代公家系譜の集大成である『尊卑分脈』(『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』)になると、「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」と註記が付いている。これは『紫式部日記』に「紫式部が藤原道長からの誘いをうまくはぐらかした」旨の記述が存在することを根拠としているとされる。これに対し、「紫式部は二夫にまみえない貞婦である」(安藤為章『紫女七論』)とする江戸時代の儒教的倫理観による解釈もあった。ただし、『源氏物語』には、召人と呼ばれる女房の存在もあることから、現在の諸説を総覧した朧谷寿『藤原道長-男は妻がらなり』(ミネルヴァ書房、2007年)がある。

日本紀の御局

源氏の物語』を女房に読ませて聞いた一条天皇が作者を褒めてきっと日本紀(『日本書紀』のこと)をよく読み込んでいる人に違いないと言ったことから「日本紀の御局」とあだ名されたとの逸話があるが、これには女性が漢文を読むことへの揶揄があり本人には苦痛だったようであるとする説が通説である。

「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべるものなりけり」[31]

生没年

当時の受領階級の女性一般がそうであるように、紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しない。そのため紫式部の生没年については様々な状況を元に推測した複数の説が存在しており、定説が無い状態である。

生年については両親が婚姻関係になったのが父の為時が初めて国司となって播磨国へ赴く直前と考えられることからそれ以降であり、かつ同母の姉がいることから、そこからある程度経過した時期であろうと推測される。だが同母兄弟である藤原惟規とどちらが年長であるのかも不明であり、以下のような様々な説が混在する[32]

また、没年についても、紫式部と思われる「為時女なる女房」の記述が何度か現れる藤原実資の日記『小右記』において、長和2年5月25日1014年6月25日)の条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」旨の記述が紫式部について残された明確な記録のうち最後のものであるとする認識が有力なものであったが、これについても異論が存在し、これ以後の明確な記録がないこともあって、以下のような様々な説が存在している[41]

  • 長和3年(1014年)2月の没とする岡一男の説[42]。なお、岡説は前掲の西本願寺本『平兼盛集』の逸文に「おなじみやのとうしきぶ、おやのゐなかなりけるに、『いかに』などかきたりけるふみを、しきぶのきみなくなりて、そのむすめ見はべりて、ものおもひはべりけるころ、見てかきつけはべりける」とある詞書を、賢子と交際のあった藤原頼宗の『頼宗集』の残欠が混入したものと仮定している。
  • 長和5年(1016年)頃没とする与謝野晶子の説[43](『小右記』長和5年4月29日1016年6月6日)条にある父・為時の出家を近しい身内(式部)の死と結びつける説が有力であることによる)
  • 寛仁元年(1017年)以後の没とする山中裕による説(『源氏物語』の主人公である光源氏が「太上天皇になずらふ」存在となったのは、紫式部が同年の敦明親王皇太子辞退と准太上天皇の待遇授与の事実を知っていたからとする)[44]
  • 寛仁3年(1019年)『小右記』正月5日条に実資と相対した「女房」を紫式部と認め、かつ西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文を、娘・賢子の交友関係から『定頼集』の逸文と推定して寛仁3年内の没とする、萩谷朴[45]や今井源衛による説。
  • 治安元年(1021年)春を西本願寺本『平兼盛集』巻末逸名歌12首の詠作年次とし、疫病蔓延の前年(1020年)暮れまでに没したとする上原作和説[46]
  • 万寿2年(1025年)以後の没とする安藤為章による説(『栄花物語』「楚王の夢」の解釈を根拠として娘の大弐三位が後の後冷泉天皇乳母となった時点で式部も生存していたと考えられるとする)。
  • 小右記』に見える「女房」を紫式部とすれば、万寿、長元年間まで生存していたとする倉本一宏説[47]
  • 長元4年(1031年)没とする角田文衛による説(『続後撰集』に長元3年8月(1030年)に創建された東北院で詠まれた作品が確認出来ることなどを理由とする)[48]。ただし、この詠歌は『紫式部集』からの再録であり、本来の詞書「土御門院」を、再録に際して「東北院」と改めたに過ぎない。

墓所

紫式部のと伝えられる古蹟が京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残されており、小野篁の墓とされるものに隣接して建てられている(『河海抄』の記述に合致)。この場所は淳和天皇離宮があり、紫式部が晩年に住んだと言われ、後に大徳寺の別坊となった雲林院百毫院の南にあたる。京都市の建札によれば、この場所から東北の地域はかつては小野氏の領地だったが、後に藤原氏の所有となった。[49]この地に紫式部古くは14世紀中頃の『源氏物語』注釈書『河海抄』(四辻善成)に、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と明記されており、15世紀後半の注釈書『花鳥余情』(一条兼良)、江戸時代の書物『扶桑京華志』や『山城名跡巡行志』『山州名跡志』にも記されている。この情報が長い間にわたり、両家の墓所として保たれてきた理由を示している。1989年に社団法人紫式部顕彰会によって整備された。[50]この時、篤志家・近藤清一氏はこの計画に賛同、四国吉野川上流で産出した大きな花崗岩(高さ1950cm、幅120cm)を碑石として寄附した[51]京都市北区の観光名所の一つになっている。

その他

貴族では珍しくイワシが好物であったという説話があるが、元は『猿源氏草紙』での和泉式部の話であり、後世の作話と思われる。

紫式部日記

紫式部歌碑
「めぐりあひて 見しや
それとも わかぬ間に
雲がくれにし
夜半の月影(百人一首 57番)」
    京都市上京区廬山寺内[52]    
紫式部邸址(廬山寺「源氏庭」)

人物評

同僚女房たちの批評に同時期の有名女房たちの人物評が続く。歌人の和泉式部(「趣深い手紙のやり取りをした人だが素行はよくない。歌は口に任せて読んだ中に光るものがある作風であるが、他人の歌の批評などしているのを見ると歌学に造詣が深いわけでもなく、こちらが気後れするような歌人ではない」など)や赤染衛門(「家柄が良いというわけではないが歌はとても風格があり、むやみに読み散らしたりしないが世に知られている歌はどれも素晴らしくこちらが恥じ入ってしまうほどである」など)が知られている。とりわけ、最も有名なのが『枕草子』作者の清少納言に対する下りである(以下は意訳)。

  • 「得意げに真名(漢字)を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない」(「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」『紫日記』黒川本)、
  • 「こんな人の行く末にいいことがあるだろうか(いや、ない)」(「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」『紫日記』黒川本)

殆ど陰口ともいえる辛辣な批評である。これらの表記は近年に至るまで様々な憶測や、ある種野次馬的な興味(紫式部が清少納言の才能に嫉妬していたのだ、など)を持って語られている。本人同士は年齢や宮仕えの年代も10年近く異なるため、実際に面識は無かったとされることが多いが、面識の有無を証する文献はない。定子没後の清少納言の動静については、夫の藤原棟世と摂津に赴いたことが『清少納言集』から知られるが、同時に一条天皇からの使いが来たことも記されている。角田文衛は、定子の遺児・媄子内親王脩子内親王を養育するために再出仕し、そこで紫式部らとの接触があったと推定しているが根拠はない[53]。この清少納言評に関しては、『紫式部日記』の政治的性格を重視する視点から、清少納言の『枕草子』が故皇后・定子を追懐し、紫式部の主人である中宮・彰子の存在感を阻んでいることに苛立ったためとする解釈もある[54]

なお紫式部の娘の大弐三位の子の高階為家と、清少納言の娘の小馬命婦の娘と関係があったことを示す歌が『後拾遺集』908番に残されている。

為家朝臣、物言ひける女にかれがれに成りて後、みあれの日暮にはと言ひて、葵をおこせて侍ければ、娘に代はりて詠み侍りける 小馬命婦その色の 草ともみえず 枯れにしを いかに言ひてか 今日はかくべき — 『後拾遺集』908番

主な派生作品

紫式部学会

紫式部学会とは昭和7年(1932年6月4日東京帝国大学文学部国文学科主任教授であった藤村作(会長)、東京帝国大学文学部国文学科教授であった久松潜一(副会長)、東京帝国大学文学部国文学研究室副手であった池田亀鑑(理事長)らによって、『源氏物語』に代表される古典文学の啓蒙を目的として設立された学会である。昭和39年(1964年)1月より事務局が神奈川県横浜市鶴見区にある鶴見大学文学部日本文学科研究室に置かれていた。現在は武蔵野書院、会長は藤原克巳が務めている。

講演会を実施したり『源氏物語』を題材にした演劇の上演を後援したりしているほか、以下の出版物を刊行している。

  • 機関誌『むらさき』戦前(昭和9年(1934年)8月〜昭和19年(1944年)6月)は月刊、戦後版(昭和37年(1962年)〜)は年刊
  • 論文集『研究と資料 古代文学論叢』昭和44年(1969年)6月〜20輯 武蔵野書院刊

関連作品

小説
映画
テレビドラマ
漫画
バラエティ
音楽
CM

脚注

注釈

出典

参考文献

関連項目

外部リンク