ムルターン

パキスタンの都市

ムルターンMultanウルドゥー語: ملتان‎)は、パキスタンパンジャーブ州 ムルターン県の県都である。ムルタンと表記されることもある。人口380万人(1998年の国勢調査)でパキスタン第6の都市にあたる。インダス川支流のチェナーブ川の東に位置し、カラーチーから陸路で966 km,地理的にはだいたいパキスタンの中心部にあり,道路,鉄道,空路などの集まる交通の要衝である。

ムルターン
ملتان
Multan
位置
ムルターンの位置(パキスタン内)
ムルターン
ムルターン
ムルターン (パキスタン)
ムルターンの位置(西南アジア内)
ムルターン
ムルターン
ムルターン (西南アジア)
地図
座標 : 北緯30度11分24秒 東経71度28分16秒 / 北緯30.19000度 東経71.47111度 / 30.19000; 71.47111
行政
パキスタンの旗 パキスタン
 パンジャーブ州
 県ムルターン県
 市ムルターン
City NazimMian Faisal Mukhtar
地理
面積 
  市域3,721 km2 (1,437 mi2)
標高710 m (2,329 ft)
人口
人口(2015年現在)
  市域3,117,000人
  市街地2,050,000人
その他
等時帯パキスタン標準時 (UTC+5)
市外局番061

ムルターンは「ピール(スーフィーの聖者)と聖堂の街」として有名で,街にはバザール,モスク,聖堂や壮麗な墓廟がひしめいている。

歴史

古代

ムルターンは、南アジアの中でも最古の都市のひとつである。サンスクリットで、Mūlasthānという言葉が現在の都市の名前の由来である。これまでの考古学調査からムルターンは、モヘンジョ・ダロあるいはハラッパーなどと同時期に興った都市の1つであると考えられている。古代インドの叙事詩マハーバーラタ』では、Malāvaで登場した。

ムルターンを最初に征服した外国の勢力はアレクサンドロス3世であるといわれている。その後、ムルターンは、グプタ朝の領土の一部になった。

イスラーム襲来

712年、シンド人に引きつられる形でイスラーム勢力がムルターンに侵攻した。イスラーム勢力を率いたのは、ムハンマド・ビン・カースィム英語版en:Muhammad bin Qasim)であった。カースィムの侵攻により、ムルターンにもイスラームがもたらされることとなったが、ムルターンはそれでもなお、一独立勢力として維持してきた。しかし、1005年ガズナ朝マフムードMahmud of Ghazni)であった。マフムードは、ムルターンにあった太陽寺院や偶像の破壊を実施した。

マフムード1世。ムルターンを征服した。
1150年代に遡るシャー・ガルデズ墓廟

モンゴル襲来

ムルターンの中世は、スーフィズムの中心であったことが分かっている。その証は、現在のムルターンには数多くの聖者廟(ダルガー)が残されていることから明らかである。例えば、モンゴルの征服時代に、殺戮を止めるように説き伏せた聖者バハー・ウル・ハックのダルガー、「世界の柱」を意味するシャー・ルクネ・アーラム(建設は14世紀トゥグルク朝時代、もともとはトゥグルク朝の皇帝ギヤースッディーン・トゥグルクが自らの廟のために建設した)、1380年ごろに建設されたシャー・シャムス・タブレーズのダルガーなどである。

グジャラート・スルターン朝

グジャラート・スルターン朝のスルターン、マフムード・シャー1世(マフムード・ベガダ)の治世に、ムルターンからロマニ系のムルターニー英語版グジャラートパンジャーブへ移住した。

ムガル帝国

時代を経て、ムガル帝国の時代は200年間続いた。1735年には、当時、ムルターンを支配していたナワーブ・アブドゥル・サマド・ハーンの命令により、イドガー・モスクが建設された。

1735年創建のモスク

1757年には、アリー・ムハンマド・ハーンによって、アリー・ムハンマド・モスクが建設された。現在、ムルターンに残る建物の多くがこの時代に建設されたものである。当時のムルターンは農業生産が向上しており、このような建設事業が可能となった。

その後、しばらくの間、ムルターンは、アフシャール朝ナーディル・シャーの支配を受けたが、幸いにも破壊をまぬかれることができた。

ムルターンは、ムガル帝国の衰退を目撃することで、難しい時代を経験してきた。アフマド・シャー・ドゥッラーニーが創設したアフガン人王朝のドゥッラーニー朝が衰退すると、ムルターンはパシュトゥーン人の支配を受けた。

シク王国

シク教徒は、パシュトゥーン人が支配するムルターン地方を攻撃し、パシュトゥーン人はムルターンの周辺に住むことを余儀なくされ、ムルターンはシク教徒が治めることとなった。しかし、シク教徒の支配は長く続くことはなかった。徐々にパンジャーブ地方にはイギリスが勢力を拡大していったのである。イギリスとシク教徒の間で戦闘が行われた(シク戦争)。

イギリス領インド帝国

最終的にはイギリスが支配することとなった(British India)。

パキスタン

1947年にパキスタンが独立すると、ムルターンはパンジャーブ州に所属することとなったが、植民地時代にはわずかに鉄道が建設されただけであり、独立当時のムルターンは、産業、病院大学といった社会的なインフラストラクチャーの全てが欠如していた。これらのインフラストラクチャーは、独立後、徐々に整備され、経済的に発展を遂げるようになった。

住民

言語

サライキ語母語者が最も多いが、パンジャーブ語母語者も多く、また国語ウルドゥー語も広く使用される。

1998年(国勢調査)[1]
言語割合話者数
1サライキ語42.2%632,602人
2パンジャーブ語32.3%485,232人
3ウルドゥー語23.5%353,354人
4その他2.0%29,429人
合計1,500,617人

交通

施設・歴史的建造物

姉妹都市

脚注

関連項目

東経71度28分16秒 / 北緯30.19000度 東経71.47111度 / 30.19000; 71.47111

🔥 Top keywords: メインページ宮崎麗果特別:検索豊後水道松本忠久土居志央梨若葉竜也能登半島地震 (2024年)田中雄士長谷部誠井上道義The GazettE若林志穂服部百音黒木啓司REITA虎に翼平井理央出口夏希サーブ (盲導犬)三鷹事件セウォル号沈没事故白眞勲三淵嘉子高橋克也 (オウム真理教)ME:Iルーシー・ブラックマン事件佐藤ありさ杉咲花蜜谷浩弥水野真紀亀井亜紀子 (政治家)熊本地震 (2016年)水原一平井川意高中川安奈 (アナウンサー)内藤剛志いなば食品YOSHIKI