小田和正

日本のシンガーソングライター (1947-)

小田 和正(おだ かずまさ、1947年〈昭和22年〉9月20日 - )は、日本ミュージシャン会社役員。元オフコースリーダーボーカリスト。株式会社ファー・イースト・クラブ(FAR EAST CLUB INC.)代表取締役社長。身長172cm血液型はA型。

小田 和正
出生名小田 和正
別名K.ODA
生誕 (1947-09-20) 1947年9月20日(76歳)
出身地日本の旗 日本 神奈川県横浜市金沢区
学歴
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間1970年 -
レーベル
事務所ファー・イースト・クラブ代表取締役社長 小田和正
共同作業者
公式サイトFar East Café - "Kazumasa Oda" official website
著名使用楽器

来歴

生い立ち

横浜市金沢区出身。金沢文庫すずらん通り商店街にある小田薬局で次男として生まれ育ち、兄が一人居る。兄の小田兵馬(1946年3月27日生まれ、栄光学園中学校・高等学校東京薬科大学薬学部[4])は家業を継ぎ薬剤師となり小田薬局の店長を務める傍ら、日本チェーンドラッグストア協会、横浜市金沢区薬剤師会などの要職を歴任している。幼少時代は横須賀中央のバイオリン教室に通っていた。実父は、東京都本郷の出身で、すずらん通り商店街の基礎を築き藍綬褒章を受章している。

趣味はゴルフ水彩画古今亭志ん生のファンである。

関東学院六浦小学校横浜市立八景小学校を経て、1960年聖光学院中学校・高等学校に進学[5]。小学3年生のとき中学受験のため通っていた進学塾への通学途中、京浜急行の車中で鈴木康博と運命の出会いを果たす。鈴木と小田はともに第1志望だった栄光学園中学の受験に失敗し、進んだ中高一貫校である聖光学院では中学・高校を通じて同級生だった。高校3年時、学園祭(「聖光祭」)にて小田、鈴木、地主道夫、須藤尊史の4人で演奏を披露した。オフコースとしてレコード・デビュー後も(5人構成となる前までは)小田と鈴木が母校を訪れ、聖光祭にて演奏を毎年披露していた(聖光学院には1,000名以上の観客を収容可能な大ホール(=ラ・ムネホール)がある)。これは、学園祭実行委員の後輩達より毎年のように出演依頼を受け、小田と鈴木が快諾したことにより実現したものであった。なお、1999年、聖光学院創立40周年記念行事にて、小田、地主、須藤の3人が再び集結、当時の演奏ナンバーを披露した。また、新校舎完成時にもホールで演奏を披露するコンサートに出演した。

オフコース

聖光学院高校を卒業後、須藤は横浜市立大学、小田は地主とともに東北大学に進学し、建築学専攻。同期には藤森照信がいる。聖光学院在学時に授業で建築模型を製作して以来建築に興味を抱いていた。また、千葉大学医学部を受験しようとも思ったが、大学見学の際に消毒臭・カーテンの汚さに嫌気がさし、東北大学を選んだという。鈴木は東京工業大学に進学し、離ればなれとなったが、仙台と横浜をお互いに頻繁に行き来し、音楽活動も続けていた。後にグループは「ジ・オフ・コース」(後にオフコースと改名)と名付けられた。1969年、アマチュア音楽活動にけじめをつけるために「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に東北地区より出場。東京でなく東北から出場したのは東京ではレベルが高く、東北のほうが勝ち抜きやすそうだからと考えたためだが、実際に出場してみると東北地区も大変レベルが高かったという。それでも東北地区を1位で通過、全国大会に進出した。全国大会は赤い鳥、フォー・シンガーズ(財津和夫のいたグループ)ら強敵がいたが、小田曰く「寝ててもできるくらい」猛練習を重ね、自信をもって臨んだにもかかわらず、1位は赤い鳥、オフコースは2位だった。小田らは優勝して音楽活動にけじめをつけるつもりだったが、2位になったことで「このまま終われない」とプロの道を歩むことを決める[6]

しかし、鈴木は音楽一本に決めたが、地主は小田と鈴木の音楽性についていけず、建築家に進路を定めた。小田は1971年早稲田大学大学院理工学研究科に進学。建築の研究を続ける一方で鈴木との音楽活動も続けていた。その後徐々に気持ちは音楽に傾き、1976年の修士課程修了時には完全に音楽の道を選択することを決めていた。修士論文のタイトルは「建築との訣別」(ただし、審査の担当教授の安東勝男に「私的建築論」と題名を変更させられている)。

オフコースは数度のメンバー変遷を経て1972年より小田、鈴木の2人構成、後に清水仁大間ジロー松尾一彦を加えた5人構成となる。数年間は売れない時代が続いたが、やがて、1970年代から1980年代にかけて次々とヒット曲を生み出し、時代を代表する人気グループとなった。オフコースが発表したシングルのA面のほとんどは小田の曲であり、そのシンプルで、ストレートに愛を歌う歌詞とハイトーンの澄んだボーカルはオフコースの大きな特色であった。オフコース時代のヒット曲には「さよなら」「Yes-No」「君が、嘘を、ついた」などがある。1982年にはオフコースのオリジナルメンバーである鈴木康博の脱退に伴い一度は解散も考えたが、約1年の活動休止を経て4人で活動再開、1989年まで活動した。オフコース時代の活動の詳細はオフコースの項参照。

ソロ以降

1986年に初めてのソロシングル「1985」、初のソロアルバム『K.ODA』を発表。オフコース時代からソロ活動を始めてはいたが、1989年のオフコース解散以後にソロ活動を本格化。

1991年フジテレビ月9ドラマ東京ラブストーリー』の主題歌として制作した楽曲「ラブ・ストーリーは突然に」が、オリコンシングルチャートで第1位を獲得し、258.8万枚の売上を記録。また自身初のミリオンセラーとなった[7]

その後は、ヒットメーカーとしての地位を確立し、楽曲はドラマ・CMなどに積極的に採用され、「たしかなこと」、「伝えたいことがあるんだ」、「キラキラ」、「まっ白」などのヒット曲を生み出している。また、オフコース時代を含む過去の楽曲を集め、新アレンジで再録音したセルフカヴァー・アルバム『LOOKING BACK』シリーズや『自己ベスト』は、幅広い年代に支持される大ヒットとなった。

1998年7月22日夜、愛車セルシオを自身で運転して事務所・関係者らとの恒例行事「DEATH MATCH」(ゴルフコンペ)開催のゴルフ場へ向かうため、栃木県都賀町東北自動車道下り線を走行中、自損事故を起こし全治4週間の重傷を負う。現場付近は雨が降っており、80キロの速度規制のところを、約20キロオーバーの100キロ前後で走行。スリップしてコントロールを失い、ガードロープに接触した。その衝撃で後部座席に飛ばされ、後部座席で横たわった形で救出される。同乗者は無し。幸いにも、後続車による追突や横転、反対車線への飛び出しなどがなかったため、一命を取りとめる。約2週間の入院後、奇跡的な回復を見せ、同年9月12日、福岡県にある「海の中道」で行われたスターダスト・レビューとのジョイントコンサートで、完治していない体だったが歌手活動に復帰した。

2005年にはオリジナルアルバム『そうかな』、2007年にはシングル「こころ」で、それぞれオリコンチャート週間1位を獲得。とかく過去の楽曲が注目・起用されがちな日本の同世代アーティストの中で、新曲で音楽シーンに存在感を示すことができる貴重な存在となっている。

CMとのタイアップや、他のアーティストへの楽曲提供や、コラボレーションも行うようになった。また、初めて持ったテレビのレギュラー番組は大変な反響を呼んだ。

また、音楽以外の分野では映画ドキュメンタリーの制作なども行った。

明治村が好きで、何度も足を運んでいる(特にフランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテル中央玄関ミニチュアがお気に入り)。それが縁となり、明治村を経営する名古屋鉄道の企業CMで小田の曲が使われている[8][9]

2007年、東北大学が創立100周年記念事業の一環として開催した「東北大学100周年記念式典」において、「東北大学100周年記念文化貢献賞」を芸術・文化部門において受賞する。さらに、聖光学院が開催した「聖光学院中学校・高等学校創立50周年祭」において、招待公演を横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)で行った。

2008年11月、地元に近い京急本線金沢文庫駅接近メロディに「my home town」が採用された。

2009年3月「ツアー2008 今日もどこかで」で文化庁第59回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。同年7月、知人の招きを受け、岩手県大船渡市民文化会館・リアスホールの落成記念公演を行った。

2010年10月20日発売の松尾一彦のミニ・アルバム『せつなくて』にピアノ&ピアノ・アレンジで参加。オフコース解散後、初の元メンバーとのコラボレーションとなる。

2011年から2012年にかけて、ソロ歌手として史上最年長となる自身初の5大ドーム公演を含む31会場全59公演の全国ツアー「どーもどーも その日が来るまで」を開催。約74万人を動員し、自己記録を超え、国内ソロアーティスト歴代最多動員数記録を更新[10]

2016年4月20日発売のベストアルバム『あの日 あの時』はオリコンで週間1位となり、「アルバム首位獲得最年長アーティスト(68歳7ヶ月)」として、矢沢永吉の記録(63歳8ヶ月)を更新[11]

2017年11月23日NHK-FM「今日は一日“小田和正”三昧」でメッセージの形でだが鈴木康博と35年ぶりに共演した[12]

2022年6月3日福島県ビッグパレットふくしまで、3年ぶりとなる全国アリーナツアー『Kazumasa Oda Tour 2022 「こんど、君と」』をスタート。74歳8ヶ月でのアリーナツアー開催は、国内アーティスト史上最年長記録[13]。なお、ツアー中、小田和正が新型コロナウィルスに感染したことから、 8月3日、4日の東京公演(代々木第1体育館)および8月13日、14日の沖縄アリーナ公演は、中止になった[14]。その後、8月21日に香川県内で行われた野外ロックフェスティバル「MONSTER baSH 2022」で復帰した[15]

映画制作

中学生時代に見た映画『ティファニーで朝食を』の主題歌「ムーン・リバー」に感動して初めてレコードを買い、「将来こんな素敵な仕事ができたら」と思っていた。

オフコース在籍時から、ステージで曲の演奏中にイメージフィルムを流したり、当時まだ珍しかったビデオクリップを制作するなど、音楽と映像の融合を積極的に行っていた。

1992年、第1回監督作品となる映画『いつか どこかで』が全国公開されたが、評判は芳しくなく、興行成績も成功とはいえなかった。

1997年、監督第2作目となる映画『緑の街』を制作、「歌手である主人公が映画を制作する」というストーリーが、1作目での制作体験を基に描かれた。この時は映画会社配給ではなく、ホールに機材を持ち込んで全国各地を廻る「シネマ・ツアー」という方式で上映された。

プロデュース / コラボレーション

ソロになった1989年以降、他のアーティストとの交流が急速に活発化。

ソングライターとして鈴木雅之中村雅俊島倉千代子松たか子らの楽曲を全面的にプロデュースする他、ASKA佐藤竹善スキマスイッチらとコラボレーションする。

また、チャリティのためのUSED TO BE A CHILD主催、泉谷しげるらとのチャリティライブ、スターダストレビューCHAGE and ASKAらとのジョイントライブや音楽イベントに積極的に参加するようになった。

小田自身のソロライブでも、コーラスに安部恭弘佐藤竹善山本潤子加藤いづみらを起用している。

2021年4月、福島県立喜多方高等学校喜多方東高等学校と統合し[16]単位制高校に改編した新たな喜多方高等学校[17]の校歌の作曲を担当[18][19]

作品

コンサート

ツアー

タイトル公演規模公演日程会場備考
1990年第一生命サウンドスペシャル
K.ODA TOUR 1990 Far East Club Band
全国40か所、56公演5月31日 - 11月7日
1991年 - 1992年第一生命サウンドスペシャル
Sometime Somewhere K.ODA TOUR FAR EAST CLUB BAND 1992
全国33か所、59公演12月1日 - 4月25日
1995年FUN MORE TIME! KAZUMASA ODA TOUR 1995全国36か所、60公演1月7日 - 5月23日以後「ご当地紀行」と呼ばれる、ツアー先の名所などを小田が訪れるVTR上映がスタート。
1997年 - 1998年日産エルグランドPresents
K.ODA TOUR 1997-1998 THRU THE WINDOW
全国50か所、65公演9月2日 - 2月3日日本武道館公演で、ステージ上に客席の設置が試みられ、以後オンステージ・シートとして定着していく。
2000年SAME MOON! KAZUMASA ODA TOUR 2000全国45か所、59公演5月11日 - 10月12日このツアーから加藤いづみがコーラスに参加(2002年のツアーまで)。
2002年ファミリーマート[注釈 18]Presents
K.ODA TOUR 2002 「Kira Kira」
全国25か所、39公演5月2日 - 8月18日このツアー以降、オンステージ・シートのほか、客席内への花道設置が恒例となった。
2005年明治安田生命Presents
KAZUMASA ODA TOUR 2005
"大好きな君に"
全国20か所、40公演6月3日 - 12月22日
2008年明治安田生命Presents
KAZUMASA ODA TOUR 2008
"今日も どこかで"
全国29か所、52公演4月5日 - 9月26日関東地区の公演(一部)の主催がTBSに変更[注釈 41]
2008年明治安田生命Presents
KAZUMASA ODA TOUR 2008
"きっと またいつか♪今日も どこかで FINAL♪"
全国3か所、4公演11月26日27日
12月6日20日
ドームツアー
2011年明治安田生命Presents
KAZUMASA ODA TOUR 2011
"どーも どーも その日が来るまで"
全国25か所、48公演[注釈 45]5月7日 - 10月26日[注釈 46]自身初の5大ドーム公演を含む。東京、神奈川を除き、日程の大半が週末に組み込まれた[注釈 64]が、
一部公演が東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響により、延期および見送り(公演中止)となった。
2012年明治安田生命Presents
KAZUMASA ODA TOUR 2012
"どーも どーも その日が来るまで"
東北地区、横浜市6か所、114月14日 - 5月26日東北ツアーは東日本大震災の影響により、中止となった宮城、岩手、秋田を含む5県[注釈 71]での開催。
横浜赤レンガパーク野外特設ステージは追加公演で、関東地区で唯一の週末開催となった。
このツアーに合わせて新曲『その日が来るまで』を制作、披露した。
2013年明治安田生命Presents
小田和正コンサート
"その日が来るまで"
東北地区3か所、6公演5月15日 - 5月31日東北さくらライブプロジェクト』の支援の一環として、東北3か所にて開催。また10月には沖縄公演を実施した。
2014年明治安田生命Presents
KAZUMASA ODA TOUR 2014
"本日 小田日和"
全国18か所、36公演6月28日 - 10月29日園山光博 (Sax) が不参加。
2015年明治安田生命Presents
KAZUMASA ODA TOUR 2014 - 2015
"本日 小田日和"
全国7か所、14公演1月29日 - 3月18日前年に実施したツアーの追加公演
2016年明治安田生命Presents
KAZUMASA ODA TOUR 2016
"君住む街へ"[20]
全国24か所、48公演4月30日 - 10月30日ツアー開始前に熊本地震が発生し、大分・別府公演の開催が危ぶまれたが、予定通り開催された。
2018年 - 2019年明治安田生命Presents
ENCORE!! Kazumasa Oda Tour 2018
全国21か所、48公演5月4日 - 1月9日当初6月20日、21日に開催予定の大阪城ホール公演は、6月18日に発生した大阪府北部地震の影響により2019年1月8日、9日に延期。また、熊本公演の収益を熊本地震の義援金として寄付した。
2019年明治安田生命Presents
Kazumasa Oda Tour 2019
ENCORE!! ENCORE!!
全国8か所、16公演5月14日 - 7月31日前年のツアーの追加公演
2022年明治安田生命Presents
Kazumasa Oda Tour 2022
こんど、君と
全国15か所、31公演6月3日 - 12月1日当初は2022年11月9日に終了予定だったが、バンドメンバーと小田自身の新型コロナウイルス感染により、開催見送りおよび振り替え公演が発生した。
2023年明治安田生命Presents
Kazumasa Oda Tour 2023
こんどこそ、君と!!
全国8か所、18公演5月3日 - 8月2日前年のツアーの追加公演。前回未開催だった東京公演が振り替え公演の国立代々木競技場第一体育館に加え、有明アリーナが組み込まれた。また、有賀啓雄が2月に前立腺がんで没後、吉池千秋がベーシストとして約30年ぶりにツアーに帯同した。

野外コンサート

形態タイトル公演規模公演日程会場ゲスト協賛
1992年スタジアムMY HOME TOWN
KAZUMASA ODA/FAR EAST CLUB BAND
全3公演8月25日8月29日 - 8月30日阪急西宮スタジアム
横浜スタジアム
鈴木雅之(8月29日)
徳永英明、富樫要(8月30日)
第一生命
三菱自動車
2000年 - 2001年カウントダウンちょっと寒いけどみんなでSAME MOON!全1公演12月31日 - 1月1日横浜・八景島シーパラダイス・マリーナヤード山本潤子
鈴木雅之
佐橋佳幸
明治生命
日本中央競馬会

ジョイント

チャリティコンサート

テレビメディアへの見方

オフコース時代よりテレビというメディアには不信感を抱いており、めったに出演しないことで有名であった[注釈 182]が、ソロ活動を始めて以降、ネスカフェCM出演を皮切りに、自身の露出にも関心を持つ。しかしいわゆる普通の音楽番組にはほとんど出演しないことからも分かるように、制作段階から自身の構想や意見を反映できることを条件にしている。[注釈 183]

2001年にはTBSからの熱心なオファーを受けて『クリスマスの約束』を企画、出演した。その成功により番組は毎年制作され、ファン層の広がりやCDの売り上げなど、テレビ出演が自身の音楽活動に強く影響することを実感したと思われる。2004年には『クリスマスの約束』の発展形である『風のようにうたが流れていた』を、3か月間毎週放送の自身初TVレギュラー番組として制作。制作に当たっては、時間的制約の中で選曲や練習、観衆の中での本番と、大変な奮闘だったが、ここでもまた達成感と共に意識変化があったと語り、「やるかやらないか」の選択時「やらなければ"ゼロ"、やれば"何か"が残る」と、積極的なコメントが聞かれるようになった。2005年には17年ぶりに企業CM出演の依頼も引き受けた。

2005年末に一部で、NHK紅白歌合戦への出演依頼を受けているとの噂が流れた[注釈 184]ものの、結局出演することはなかった。小田自身はその年のコンサート(2005年ツアー、日本武道館)で、同年の紅白歌合戦に選出されたスキマスイッチをゲストに迎えた際、この番組に対し「自分にとって紅白に出ることは偏見がある」と語っていた。

出演

ドキュメンタリー

特別番組

  • 追いかけて、追い続けて〜小田和正の世界(1992年1月24日、NHKBS2) - ファンを公言する小宮悦子によるロングインタビューがメイン。その他、映画「いつか どこかで」監督風景や、Far East Club Band リハーサル・ライブの映像(インタビュー以外は、後述の「音楽達人倶楽部」で放送されたものとほぼ同じ)。
  • 音楽達人倶楽部「小田和正」(1992年2月6日、NHK総合) - 映画「いつかどこかで」監督風景やFar East Club Band リハーサル・ライブ映像。
  • クリスマスの約束TBS) - 2001年より毎年12月25日(クリスマス)前後に放送。
  • 佐野元春のザ・ソングライターズ - (2009年7月4日・11日、NHK教育)
  • 情熱大陸700回記念特別企画井上真央が撮る小田和正』(2012年6月10日、6月17日、MBS
  • KAZUMASA ODA TOUR"どーもどーも その日が来るまで"(2012年6月24日、WOWOWライブ) - 2011年から2012年にかけて行われた全国ツアーから2011年9月28日、29日の東京ドーム公演の模様を放送。
  • 100年インタビュー「時は待ってくれない〜小田和正」(2017年3月20日、NHK BSプレミアム) - 聞き手はオフコース時代からの大ファンである阿部渉アナウンサー。同年3月15日の『NHKニュース おはよう日本』(NHK総合)でも10分間のダイジェスト版を放送。同年6月11日に60分の短縮版(同年8月10日未明(同年8月9日深夜)にもNHK総合で放送)、同年8月13日に未公開シーンとライブ映像、オフコース時代に出演した『若い広場』のダイジェストを織り込んだ3時間の完全版を放送。
  • 小田和正音楽特番『風のようにうたが流れていた』(2019年3月30日、TBS) - 2001年から2017年までクリスマスの時期に放送されていた小田出演の『クリスマスの約束』の制作チームが手がけた特別番組。小田の母校である神奈川県横浜市聖光学院中学校・高等学校で収録。
  • 小田和正 Tour 2018〜2019 ENCORE!! ENCORE!!(2019年10月19日、NHK BSプレミアム) - 全国24か所64公演、およそ55万人を動員した最新の全国ツアーの中から追加公演の模様を放送。さらにライブではおなじみとなっている名物企画「御当地紀行」を、阿部渉アナウンサーと一緒にめぐり、ライブにかける思いや心境が語られた。

CM

  • ネスカフェ ゴールドブレンド
    • goodtimes & badtimes(1988年)、Little Tokyo(1989年)
  • 第一生命
    • 君にMerry Xmas(1989年 クリスマス2日間限定)、Oh! Yeah!(1991年)、my home town(1992年)
  • アルバム『Oh! Yeah!』(1991年)
    • Oh! Yeah!
  • アルバム『自己ベスト』(2002年)
  • アルバム『そうかな』(2005年)
  • トヨタアリオン(2005年)
    • Re
  • シングル「こころ」(2007年)
  • アルバム『自己ベスト-2』(2007年)
  • 明治プロビオヨーグルトLG21[注釈 185]「希望の歌声」編(2009年)
    • 今日も どこかで

タイアップ(CM)

  • 第一生命
    • 野球編・ラグビー編 - 哀しみを、そのまま(1986年)※野球編は小田、ラグビー編は市川崑がそれぞれ演出。
    • 卒業編 - 僕の贈りもの(1988年)
    • Oh!Yeah編・仲直り編・床屋編 - 恋は大騒ぎ(1990年)[23]※仲直り編は小田の企画、演出。床屋編では自身も出演。
    • いつか どこかで(1991年)※映画『いつか どこかで』の撮影風景を使用
  • 三菱自動車工業 ミラージュ
    • 春風に乱れて (1990年)、風と君を待つだけ(1991年)、だからブルーにならないで(1993年)
  • シャープ 液晶ビューカム
    • 風の坂道(1993年)
  • 味の素 ほんだし
    • またたく星に願いを(1993年)
  • 日産自動車 エルグランド
    • 風のように(1997年)、こんな日だったね(1999年)
  • JRA ブランドCM
    • woh woh(2000年・2011年)、19の頃(2000年・2012年)、風の街(2001年)、彼方(2013年)
  • 明治生命 / 明治安田生命
    • 言葉にできない(2000年 - 2003年 ※一時期、小田のライブ映像を使用)、たしかなこと(2004年)、オリジナル曲(2010年)、愛になる(2014年)、風を待って(2020年7月 - )
  • ハウス食品 北海道シチュー
    • 大好きな君に(2003年)、
  • 日本コカ・コーラ 緑茶「一(はじめ)
    • オリジナル曲(2006年3月 - 6月)
  • 名古屋鉄道
    • 大好きな君に(2006年)、風の坂道(2008年)、緑の街(2011年)、Re(2013年)、この街(2014年- )、キラキラ(2018年 - )
  • マックスファクター
    • 若葉のひと(2009年3月)
  • ソニーBRAVIA 4K
    • 今のこと(2013年6月)
  • SUBARU
    • wonderful life(2015年5月 - )
  • NTT東日本
    • オリジナル曲(2017年3月- )
  • JAL×コカ・コーラ2020「Airport」篇
    • 会いに行く(2020年12月 - )

関連書籍

  • Time can't wait(小田和正 著、1990年初版、朝日新聞社
  • キャディ(小田和正 著、1994年初版、スタジオシップ
  • YES-NO小田和正ヒストリー(小貫信昭 著、1998年初版、角川書店
  • たしかなこと(インタビュアー/著 小貫信昭、2005年初版、ソニー・マガジンズ
  • 小田和正歌詞集 風うた〜恋〜(小田和正 著、2006年初版、主婦と生活社
  • 小田和正全詞集 大切なことば(小田和正 著、2007年初版、ジービー)
  • 小田和正という生き方(陥合真司 著、2009年初版、青弓社
  • 小田和正ドキュメント1998-2011(小貫信昭 著、2011年初版、幻冬舎
  • ダイジョウブ(小田和正 著、2011年初版、講談社
  • 空と風と時と 小田和正の世界(追分日出子 著、2023年11月、文藝春秋ISBN 978-4163917818

記録

  • 1985年 シングル「今だから」(松任谷由実・小田和正・財津和夫共作) - 「オリコン シングルチャート1位」獲得は、小田の音楽キャリア史上初。
  • 1991年 シングル 「Oh! Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に」 - 「オリコン シングルチャート週間1位」「年間シングルチャート1位」ソロで初の1位獲得、270万枚を売り上げ、ソロでの44歳3か月最年長記録によるダブルミリオンを獲得し、当時のシングルCD・レコード売上枚数記録史上、過去最高記録、達成。
  • 2001年 アルバム 『LOOKING BACK 2』 - ソロでの「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録」 53歳8か月(それまでの同記録は井上陽水GOLDEN BEST1999年7月 51歳0か月)
  • 2002年 アルバム 『自己ベスト』 - ソロでの「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録」 54歳8か月(自己記録更新、それまでの同記録は53歳8か月)
  • 2004年『自己ベスト』 - 「オリコン集計上でのアルバム売上200万枚突破 最年長記録」57歳3か月(それまでの同記録は松任谷由実『Neue Musik1998年11月 44歳10か月)、「オリコン集計上での男性ソロアーティスト アルバム200万枚突破 史上2人目達成」(同年12月、初記録は河村隆一Love1997年12月
  • 2005年6月 アルバム 『そうかな』 - ソロでの「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録」 57歳9か月(自己記録更新、それまでの同記録は54歳8か月)
  • 2007年8月 シングル 「こころ」 - ソロでの「オリコン シングルチャート週間1位獲得 最年長記録」59歳11か月(それまでの同記録は石原裕次郎北の旅人1987年8月 52歳7か月)
  • 2007年12月 アルバム 『自己ベスト-2』 - ソロでの「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録」60歳3か月(自己記録更新、それまでの同記録は57歳9か月)、60代でのオリコン1位獲得・30代から60代すべての年代でオリコンアルバムチャート1位獲得ともに史上初。
  • 2010年4月 アルバム 『自己ベスト|』 - 「オリコン アルバムランキングで通算400週目のランクイン(トップ300)」オリコンアルバムチャート史上初
  • 2010年11月 アルバム 『自己ベスト』 - 「オリコン集計上でのアルバム出荷枚数300万枚突破 最年長記録」63歳2か月[7]
  • 2011年4月 アルバム 『どーも
    • ソログループ含めての「オリコン アルバムチャート週間1位最年長記録」・「ソロ(シングルアルバム含めた)での1位獲得最年長記録」・「日本人でのアルバムチャート10位以内最年長記録」63歳7か月(アルバムチャート首位達成はソロでは自己記録を更新、それまでの同記録は60歳3か月。グループを含めても、それまでのアルバムチャート1位獲得最年長記録はザ・ビートルズのメンバーのリンゴ・スターザ・ビートルズ1』(2000年11月27日付 60歳4か月)。それまでのソロシングルアルバムを含めて1位獲得最年長記録は秋元順子の61歳7か月(2009年1月26日付でシングル『愛のままで…』)。それまでのアルバムチャート10位以内の日本人最年長記録は吉田拓郎の63歳0か月での6位獲得(2009年4月27日付『午前中に…』))。
    • 「デビューからの1位獲得最新達成の最長記録」 41年0か月 (それまでのデビューから1位獲得最新達成最長記録はマイケル・ジャクソンマイケル・ジャクソン THIS IS IT』(2009年11月9日付) デビューから最新1位獲得40年0か月)
  • 2011年5月 アルバム 『どーも』 - 「オリコンアルバムチャート週間8位で獲得 10位以内獲得日本人最年長記録」63歳8か月(自己記録更新、それまでの同記録は63歳7か月)
  • 2013年5月 アルバム 『自己ベスト』 - 「オリコン アルバムランキングで通算500週目のランクイン(トップ300)」オリコンアルバムチャート史上初
  • 2014年7月 アルバム 『小田日和』 - 「オリコンアルバムチャート週間3位で獲得 10位以内獲得日本人ソロ最年長記録」 66歳10か月(それまでのアルバムチャート10位以内の日本人ソロ最年長記録は髙橋真梨子の64歳4か月での4位獲得(2013年6月24日付『髙橋40年』))。
  • 2016年4月 アルバム 『あの日あの時』 - ソロでの「オリコンアルバムチャート週間1位獲得 最年長記録」68歳7か月(それまでの同記録は矢沢永吉の63歳8か月(2013年5月27日付『ALL TIME BEST ALBUM』))。
  • 2016年5月 アルバム 『あの日あの時』 - 返り咲きでの「オリコンアルバムチャート週間1位獲得 最年長記録」・ソロでの「オリコンアルバムチャート週間1位獲得 最年長記録」68歳8か月(それまでの返り咲きでのオリコンアルバムチャート1位獲得最年長は山下達郎の59歳8か月(2012年10月22日付『OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012〜』)。それまでのソロでのオリコンアルバムチャート1位獲得最年長は(自己記録更新、それまでの同記録は68歳7か月))。
  • 2016年6月 アルバム 『あの日あの時』 - 「2016年度上半期2位獲得 上半期10位以内獲得最年長記録」 68歳9か月(それまでの同記録は由紀さおりの63歳7か月での2012年度上半期10位獲得(『1969』))
  • 2016年12月 アルバム 『あの日あの時』 - 「2016年度年間4位獲得 年間10位以内獲得最年長記録」 69歳3か月(それまでの同記録は山下達郎の59歳10か月での2012年度年間10位獲得(『OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012〜』))

男性ながらファルセットを使わず女声域までの高音を素直に出せる歌声が大きな特徴である。オフコース初期には、バンドに女性ボーカルがいると間違われることもしばしばあったという。その少年のような歌声から変声期を経ずに成長したのではとの見方もあり、自身も音楽評論家の小貫信昭のインタビュー本『たしかなこと』で「変声期があった記憶がないので、声変わりしていないと思う」との旨を述べている。しかし、2005年のコンサート中のMCにて「医者に尋ねてみたが、声変わりしていないという事は有り得ないそうだ」と、その認識に変化があった様子を窺わせた(発声が生来しっかりしていたため、声変わりしても元の音域で話せたせいで、声変わりに気づかなかっただけという可能性が指摘されている)。また、ファンの中では話す声は比較的低く聞こえ、歌声とのギャップが大きいと感じる人が多く、「どうしたら高い声で歌えるのか」という質問をよくされるが、それに対しては「僕はただシャウトしているだけ」と答えていることが多い。

東北大学時代は混声合唱団でテノールを担当していた。

「声変わり」していないという俗説があるが、声変わりした男性の声は女声より確実に1オクターブ低くなる。ウィーン少年合唱団の声は女声と同じ音域であるが小田の話声は女声より1オクターブ低く声変わり後の男声である。ただ、小田の歌声の発声領域は、「ヘ音記号」楽譜の下のソ音(G2)付近から「ト音記号」楽譜の上のレ音(D6)付近までである。

ファンクラブ

オフィシャル・ファンクラブはないが、スタッフがパーティーやミーティングなどに活用しているプライベートスペースとして“Far East Café”が運営されている。通常は一般開放されていて営業時間内は飲み物のほか、オリジナル・グッズ(全商品限定生産)も取り扱っている。

また、Far East Caféではインフォメーションプレス『FAR EAST CAFÉ PRESS』がPRESS入会者に毎月25日に発行され、最新情報や活動内容の詳細やインタビュー、スタッフが連載する小田の日常、Far East Caféでの出来事やオリジナル・グッズの紹介が掲載されている。

そのほか1994年からは、小田の一年間の活動を編集した映像集『LIFE-SIZE』がPRESS会員限定で発売されている。

受賞歴

1997年

脚注

注釈

出典

外部リンク

SonyMusic

その他