西岸寺 | |
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西岸寺山門 | |
所在地 | 熊本県熊本市中央区下通2-8-2 |
位置 | 北緯32度47分51.3秒 東経130度42分30.4秒 / 北緯32.797583度 東経130.708444度 / 32.797583; 130.708444 東経130度42分30.4秒 / 北緯32.797583度 東経130.708444度 / 32.797583; 130.708444 |
山号 | 祥雲山 大光山[1] |
院号 | 大光明院[2] |
宗旨 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 安貞2年(1228年)または慶長年間(1596 – 1615年) |
開山 | 弁長または寂誉 |
中興 | 泰岩 |
正式名 | 祥雲山 大光明院 西岸寺 |
法人番号 | 6330005000386 |
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西岸寺(さいがんじ)は、熊本県熊本市中央区下通にある浄土宗の寺院。
寺伝によれば、安貞2年(1228年)の開創で、開山は鎮西上人・聖光房弁長という。他方、『肥後国誌』によれば、大本山善導寺の末寺で、慶長年間、往生院三世・寂誉上人によって開かれたとされる。
寂誉の跡を継いだ泰岩が寺を中興。西岸寺の由来記によると、この泰岩は石田三成に仕えた戦国武将・島清興が、実は関ヶ原の戦いでは討死することなく鎌倉光明寺で出家した後身であるといわれる[3][4]。
泰岩こと島清興が西岸寺に入った経緯や、その後の活動は、概ね次のようなものであったという[3]。
関ヶ原の戦いから5年後の慶長10年(1605年)、細川忠興は江戸城天下普請のため、家臣に石垣普請に用いる石材を探索させていたが、そのうちの一人・葛西立行という臣が伊豆で泰岩と知己になり、泰岩を主君忠興に推挙した。これを機に泰岩は当時の細川家の領国小倉に赴き、忠興に仕えて、諸国行脚を装い各地の情報を収集、また、忠興の持仏堂の阿弥陀像を本尊として小倉に知足寺を建立した。
慶長16年(1611年)、泰岩は、浄土宗総本山知恩院の住職尊照満誉を介して後陽成天皇の皇位長久を祈祷し、帝より「天下上人」の号を受けた。このことから、西岸寺の裏門には「勅号天下上人遺跡」の額がかかる。
寛永9年(1632年)、肥後熊本藩第2代藩主の加藤忠広が改易され、忠興から家督を継いで小倉藩主となっていた細川忠利が熊本へ国替えとなるに際し、忠利の命を受けた泰岩こと左近は、忠利の肥後入部に先立って、熊本白川の近傍に知足寺の仮堂を建て[5]、内偵に当たった[6]。
翌年、泰岩は忠利の意によって西岸寺に入り、同寺の中興に努めた。この当時の西岸寺は、大伽藍を建て、枡形を設け、要害の地を占めるなどして、戦への備えをしたものであった。
白川の対岸にはかつて井出の口刑場があり、泰岩以来、明治維新に至るまで、寺の住職が川越しに引導を渡すのが恒例であったという。
後に、寺は名君との誉れ高い熊本藩主細川重賢の帰依を受け、宝暦の初め、現在の山号「祥雲山」を揮毫した扁額を賜った。また、かつてこの寺の境内には、島原の乱において天草四郎を討ち取った熊本藩士・陣佐左衛門の墓があったが、昭和22年(1947年)の墓地改葬の際に所在不明となった。
この寺付近で「西岸寺河原仇討」と呼ばれる敵討事件があったという来歴でも知られる。敵討は寛永17年(1640年)10月9日に行われたとされ[9]、講談などの作品にもなった[10][11][12]。概要は次のようなものである[9]。
稲葉家江戸屋敷の朋輩・岩井善右衛門と赤松久之允は共に浪人した。早く出世した方が他方を取り立てると約し、岩井が福岡へ、赤松が浜松へと散る。その後、剣の達人・岩井は福岡で仕官し、浜松で芽の出ない赤松は、一子・赤松源次郎の養育を岩井に頼む。岩井も、源次郎をわが子・岩井半之允同様に育てる。
源次郎は小姓として召し出されるが、城中で口論し他人に試合を挑もうとしたため、不届きと暇を出され、岩井善右衛門からも叱責される。源次郎は逆恨みして善右衛門を殺害し逐電。善右衛門の長子・岩井半之允が仇討ちに出る。
半之允は江戸でかつて下男だった万助と出くわし、万助は助力を誓う。3年経ち、半之允は源次郎の父・赤松久之允がいる浜松に行く。久之允は半之允より源次郎の不始末を聞き自害。その後、浜松の父宛に源次郎より、森山弾正と改名し細川家に仕官したとの書状が届く。仇の所在を知った半之允は、一旦江戸へ出て万助と語らい、まず半之允が肥後熊本へ向かい、万助も後を追うこととなる。
熊本で源次郎を狙う半之允だったが、遠国でもあり零落し、西岸寺の前で行き倒れたところを、内山という侍に殺され刀や金を奪われる。しかし内山の罪も知れ、内山は斬首される。
熊本に着き顛末を知った万助は、半之允の弟・善次郎13歳を連れ、熊本藩に事の次第を申告する。藩では、素性を偽った罪で森山こと源次郎を二百たたきとし、西岸寺河原にて仇討ちの対決をさせる。二百たたきされたばかりの源次郎は善次郎・万助に容易に討たれ、主従は本懐を遂げる。