1915年、トンプソンはブリッシュに接触し、創業する予定だった銃器メーカーの株式と引き換えにブリッシュ・ロックを自らの設計に取り入れられるように手配した。1916年、タバコ産業で名を挙げた著名な実業家トーマス・フォーチュン・ライアン(英語版)からの財政的な支援を取り付け、オート・オードナンス(英語版)が創業された。当時の従業員は、武器省時代の元部下で主任技師のセオドア・H・エイコフ(Theodore H. Eickhoff)とジョージ・E・ゴル(George E. Goll)の2人だけだった。ゴルは元火夫で、失業中のところをトンプソンの運転手として雇われていたのだが、その知性と機械工としての適正を見込まれ、エイコフの助手に選ばれたのである。後にトミーガンとして知られる銃の基本的な設計は主にこの2人が手掛け、また後に入社したオスカー・ペイン技師(Oscar Payne)は、自動塗油システムや大容量ドラム弾倉など、トミーガンを特徴づけた多くの革新的な機構の設計に携わることとなる[3]。
当初設計されていたのは小銃弾を用いる自動小銃だった(トンプソン自動小銃(英語版))。しかし、1917年夏までに行われた試験では、ブリッシュ・ロックの動作不良や破損、摩耗、塗油不足による給弾不良といった問題が多数指摘され、同年9月までの検討を経て、ブリッシュ・ロックを用いて確実に発射可能な軍用弾は拳銃用の.45ACP弾のみであると結論付けられた。エイコフからこの報告を受けたトンプソンは、「よろしい。ライフルを一旦脇に置いて、小さな機関銃を作ろうじゃないか。1人で持ち運べる機関銃だ。つまり、塹壕箒だ!」(Very well. We shall put aside the rifle for now and instead build a little machine gun. A one-man, hand held machine gun. A trench broom!)と述べたという[3]。
1918年の夏までに、主要な設計上の問題を解決した試作銃、アナイアレーター I(Annihilator I, 「絶滅者」、「敵を打ち負かすもの」の意)が作られた[3]。発射速度は1,500発/分と依然として極めて高く、最初の試作銃は改造したM1911拳銃用の7連発弾倉を使用していた。次に作られた2丁は、50連発ドラム弾倉(後に100連発ドラム弾倉、20連発箱型弾倉も設計された)が取り付けられるようになったほか、銃身には放熱フィンが設けられ、着脱可能なフォアグリップも追加された。ただし、最後まで銃床は設けられなかった。その後も順次改良と試作が繰り返され、1918年末までに24丁のアナイアレーターが製造されていた[5]。これらはヨーロッパへ出荷するべくニューヨークに送られたものの、ニューヨークに到着した11月11日にはちょうど休戦協定が結ばれて世界大戦が終結していた[2]。
M1921はトミーガンとして最初に量産が行われたモデルである[6]。銃身覆い(バレルジャケット)が廃止された点がM1919と比較した時の外見上の特徴で、以後のモデルはほとんどM1921のデザインを継承している。富裕層向けの高級玩具としての色彩が強い製品であり、木部は美しく仕上げられ、各部品は高精度な切削加工で製造されていた。弾倉は20発/30発箱形弾倉のほかに50発用ドラム弾倉が用意され、連射レートは800発/分程度まで落とされていた。1926年にはカッツ・コンペンセイター(Cutts Compensator)と呼ばれるマズルブレーキの一種が発明され、フルオート射撃時のコントロールはより安定した[9]。リチャード・W・カッツ(Richard W. Cutts)が考案し、オート・オードナンス社に提案した。射撃時にガスの一部を上方へと逃がすことで、銃口の跳ね上がりを抑制できるとされ、これに感銘を受けた開発者トンプソンは、1927年にカッツとロイヤリティ契約を結んでいる。区別のため、以後はコンペンセイター付きのモデルにはAC、無しのモデルにはAという文字が製品名の末尾に加えられた。別売りのオプションとしての価格は25ドルだった[10]。1921年当時の販売価格は20発箱型弾倉付きで$225(現在の価格に換算[11]して$2,600程度)であり、製造はコルト社が担当し、15,000挺ほどが生産された[7]。オート・オードナンス社が想定したよりも売れ行きは緩やかで、この時コルト社が製造したトミーガンの在庫は第二次世界大戦直前まで残されていた。ベルギーとイギリスでは軍用銃としてテストが行われたが、採用には至らなかった[6]。陸軍および海兵隊ではM1921の性能試験が行われ、良好な結果を残していたものの、第一次世界大戦後の軍縮の中で制式採用は見送られることとなる。売れ行きは緩やかなものであったが、商業的には成功を収めた[8]。なお、最初にM1921の大口顧客となったのは、米国のアイルランド系移民の独立運動支持者達と考えられており、製造番号が1,000番未満の初期生産品が英領アイルランドで発見されている。これらのM1921はIrish Swordと呼ばれ、後のアイルランド内戦では主に反条約派によって使用された[12]。アイルランドのトミーガンはやがて象徴的な銃の1つとなり、反英闘争歌『Off To Dublin In The Green』の歌詞でも言及された[13]。制式採用ではなかったものの、海兵隊では数百丁のM1921を購入してニカラグア方面での作戦に投入したほか、郵便強盗対策に従事する海兵隊員によっても使用された。海軍でも揚子江における哨戒任務(英語版)などに従事する船舶の船員用火器として購入している[8]。米国郵便公社の郵便監察局(英語版)でも武装職員向けの装備として購入している。アメリカにおいて、郵便監察局はトミーガンを本格的に導入した最初の法執行機関である[14]。トミーガンがギャングなどの間で普及して「犯罪者の武器」と認識され始めたのもこの時期である。連邦捜査局(FBI)や各地方の治安当局でも、こうした犯罪者に対抗するべくトミーガンの配備を進めた[8]。当時のM1921は民間人(この中にはトミーガンを有名にしたマフィア達も含まれていた)を主な購入者としており、1934年に規制されるまで購入に何らの制約も無く通信販売でも購入できたため、バナナ戦争における交戦相手のサンディーノ軍(ニカラグア)も、海兵隊と同様にM1921を装備していた。
1928年、アメリカ海軍ではトミーガンの採用を計画するにあたり、M1921に何点かの改良を加えるように求めた。これに従い、発射速度を600発/分以下まで抑え、水平フォアグリップとカッツ・コンペンセイターを標準的に取り付けたモデルが設計された。このモデルが海軍M1928(U.S. Navy, Model of 1928)として採用された。オート・オードナンス社では、合計して500丁(うち340丁は以前販売したM1921)のトミーガンを海軍および海兵隊に納入した。M1928はかつてコルト社が製造したM1921を改修する形で製造された。「M1921」の刻印の末尾の「1」は上から「8」と打ち直されており、発射速度が落とされ、水平フォアグリップとカッツ・コンペンセイターが取り付けられている点を除けば、市販されていた製品と同等のものだった[8]。オート・オードナンス社のカタログには、ネイビー・モデル(Navy Model)の商品名で掲載されていた[6]。一方、陸軍では依然としてトミーガンに強い関心を示していなかった。1920年代後半のアメリカ陸軍において、トミーガンは騎兵科の偵察車両や戦車の乗員向けに限定調達されているに過ぎなかった。当時、陸軍では騎兵・歩兵共用銃としての新型自動小銃(後のM1ガーランド)の開発が進められており、それを待たずにトミーガンを採用する必要性を認めていなかったのである[8]。第二次世界大戦の勃発後、M1928はフランス軍・イギリス軍・スウェーデン軍に採用された。フランス軍は3,750挺のM1928と3,000万発の弾薬を発注した。イギリス軍ではコマンド部隊などがこれを使用した。M1928の納入価格は1939年頃で$209(現在の価格で$3,100程度[11]・希少品となった現在では$20,000前後で取り引きされている)だったとされ、オート・オードナンス社の経営状態は好転した。
M1ガーランドの採用後、陸軍騎兵科ではM1ガーランドよりも軽量かつ高火力で車両乗員向け装備に相応しいとしてトミーガンの再評価が成された。1938年9月、陸軍ではトミーガンの調達区分を限定調達から標準調達へ切り替え、M1928A1(Submachine Gun, Caliber .45, Model of 1928A1)の制式名称を与えた。M1928A1向けには20発/50発弾倉のみが支給され、オプションとして市販されていた100発弾倉は重くかさばるとして採用が見送られた。1939年6月、陸軍はオート・オードナンス社とトミーガン950丁の調達契約を結んだ。この頃にはM1921としてコルト社が製造したトミーガンが枯渇し、サベージ・アームズ(英語版)社による新規ライセンス生産が始まった。また、アメリカ政府への供給に加えて諸外国での需要も増加しつつあった為、オート・オードナンス社はいくつかの自社工場を設置している。陸軍および海兵隊は新型自動小銃M1カービンが短機関銃を置き換えることを想定して調達数を調整していたが、真珠湾攻撃を受け第二次世界大戦への参戦が決定するとM1928A1の需要は一層と膨らみ、調達数は増加していった[8]。実戦の中でその有用性が証明されたこともあり、M1カービンが短機関銃を完全に更新することはなかった。M1928A1はアメリカ軍が採用したほか、レンドリース法の元で連合各国へ広く供給された[8]。総計562,511挺が生産され、量産効果により1942年春には$70(現在の価格で$880程度[11])まで調達コストは下がった。1940年、サベージ・アームズにて軽量化と生産効率の向上を目的とするアルミニウム製レシーバーの実験が行われた。この際に試作されたアルミ・トミーガンでは木製部品もイーストマン・ケミカルが製造したテナイト(Tenite, セルロース系熱可塑性樹脂)製に改められていた。しかし、アルミ製レシーバの強度不足を解決することができず、最終的にプロジェクトは放棄された。その後、M1の採用を受け、1942年4月25日からM1928A1は「準制式装備」(Limited Standard)と位置づけられた。調達自体は同年秋に終了し、正式な退役手続きは1944年3月16日に行われた[16]。
1939年9月に第二次世界大戦が始まると、ネヴィル・チェンバレン内閣の中にもこの戦争が長期化するものと予想する人々がいた。いわゆるまやかし戦争の期間、イギリス軍は本格的な参戦に備えて銃火器の備蓄と新規購入に着手したものの、資金不足などから軽量な自動火器の調達に失敗していた。こうして当時「みすぼらしいアメリカのギャングの銃」と見なされていたトミーガンの再評価が行われ、兵站委員会(Board of Ordnance)では政府に対しトミーガンの本格的な調達を求めたのである。1940年、ウィンストン・チャーチルが首相に就任する。チャーチルは雑誌『TIME』誌上でトミーガンを賞賛し、間もなくM1928の調達を認めた。英国購買委員会(英語版)は1940年2月に最初の注文を行った。最初にトミーガンの供給を受けたのは、正規軍ではなくホーム・ガードの補助隊(英語版)(英本土侵略に備えた秘密抵抗組織)であった。1941年初頭には陸軍での調達が始まったが、当初は特殊部隊ブリティッシュ・コマンドスのみに支給されていた。レンドリース法の下で供給が始まると、イギリスはアメリカに対して514,000丁のトミーガンを要求した。しかし、大西洋ではドイツ海軍のUボートによる通商破壊が激化しており、1942年4月までにイギリスへ届けられたトミーガンはわずか100,000丁に過ぎず、結局は需要の一部をステン短機関銃で代替することとなった。以後はステン短機関銃が優先して支給され、トミーガンはコマンドスなど一部の部隊にのみ与えられた。ホーム・ガードでも引き続き使用された[26]。