バリーモス

バリーモスBallymoss、1954年 - 1979年)はアイルランド生産、調教のサラブレッド競走馬種牡馬。 1956年から1958年11月に17戦8勝。1957年、181年の歴史上初めてアイルランド調教馬としてセントレジャーステークスに優勝した[1]。その翌年、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス凱旋門賞を制し、ヨーロッパ屈指のミドルディスタンスホースとなった。

バリーモス
品種サラブレッド
性別
毛色栗毛
生誕1954年
死没1979年????日(25歳没)
Mossborough (GB)
Indian Call (GB)
生国アイルランド
生産者Richard Ball
馬主John McShain英語版
調教師Vincent O'Brien
競走成績
生涯成績17戦8勝(17-8-5-1)
獲得賞金107,165ポンド
タイムフォーム136 (1958年)
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背景

バリーモスは、体高15ハンド3+12インチ(約161.3センチメートル)と小柄ながら素晴らしい四肢をした栗毛馬で、アイルランドのリチャード・ボールに生産された。父モスボロー Mossborough (GB) はイギリス産、エクリプスステークスで2着となった程度の平凡な競走馬だったが種牡馬としては大きな成功を収め、ベルモントステークス優勝馬キャバン英語版 Cavan (GB) やエプソムオークスノーブレス Noblesse (GB) らを輩出した。バリーモスの母インディアンコール Indian Call (GB) は良血だが競走馬としては使えず、1939年に15ギニーで売却されていた[2]

バリーモスは、ドンカスター1歳馬セールに送られ、ニュージャージーでバークレーステーブルを運営するアメリカ合衆国の実業家、ジョン・マクシャイン英語版の代理で、当時は主に障害競走調教師として知られていたヴィンセント・オブライエン[注釈 1]に4,500ギニーで購買された。マクシャインはアイルランド移民で大工だった父親の建築会社を引き継ぎ、ペンタゴンジェファーソン記念館ワシントン・ナショナル空港ホワイトハウス全面改修などの建設工事を請け負う大会社に発展させていた[4]主戦騎手オーストラリア人のスコービー・ブリースリー英語版が務めた。

競走経歴

2歳シーズン(1956年)

バリーモスの成長は遅く、2歳時4戦したが将来の偉大さの片鱗も見られなかった。レパーズタウンの1着賞金202ポンドのララーメイドンプレート(Laragh Maiden Plate)が唯一の勝利だった[2]

3歳シーズン(1957年)

バリーモスは3歳緒戦のマドリードフリーハンデキャップ(カラ7ハロン)で着外に敗れたが、距離が不足しているのは明らかだった。その後良化を示し、レパーズタウンで1+12マイルのトリゴーステークス(Trigo Stakes)に優勝した。この勝利はエプソムダービーでいくらかの支持を集め、バリーモスのオッズは100対1(101倍)から33対1(34倍)まで低下した[2]

ダービーの調整過程でバリーモスは脚に軽い怪我を負い、直前の調整は中断を余儀なくされた。オブライエンは本調子には無いと報告し、馬主のマクシャインはこのレースのための渡英を取り止めた[2]。レースは2,000ギニーを勝ち、6対4(2.5倍)と無敗で三冠を制したバーラム以来の人気を集めたレスター・ピゴット騎乗のクレペロ英語版 Crepello (GB) が好タイムで優勝した[5]。しかしバリーモス(33対1(34倍))も予想を覆し、クレペロに1馬身半差の2着に好走した[6]。3着にはパイプオブピース Pipe of Peace (GB) [注釈 2](100対8(13.5倍))が入り、2番人気のフランス調教馬プリンスタジ Prince Taj (FR) [注釈 3]は15馬身以上の出遅れがたたり着外に敗れた[5]

次のレースはカラのアイリッシュダービーで、2着ヒンドゥーフェスティヴァル Hindu Festival (IRE) [注釈 4]以下に楽勝した。その後は休養にあて、8月にヨークグレートヴォルティジュールステークスでオッズオン[注釈 5]の1番人気となったが、ブリオッシュ Brioche (IRE) [注釈 6]に簡単に敗れた。この敗戦の有り得る説明として、柔らかい馬場と調整不足に対処できないことが指摘された[2]

ドンカスターセントレジャーは、15頭の相手に対して8対1(9倍)のオッズでスタートした。豪雨で地面が柔らかくなり、バリーモスのオッズは5対1(6倍)から上昇していたが、コートハーウェル Court Harwell (GB) [注釈 7]から1馬身差で勝利し[2]、ブリオッシュは3着だった。騎乗していたトミー・バーンズ騎手は、「私の馬は前半キャンターで走っていただけで、非常に自由に走れた。5番手くらいで回って直線に入り―ゴールからおよそ5ハロン手前の―その瞬間から、結果については何の疑いも抱かなかった。2ハロン手前で先頭に立ったときには、レースはほとんど終わったことが分かった。」と語った[17]。オブライエン調教師はイギリスクラシック初勝利で[1]、クレペロは8月に故障を発生し既に引退していた[7]

このシーズン最後のレースは10月、ニューマーケットチャンピオンステークスとなったが、レース前パドックで激しく暴れ、柱にぶつかって怪我をしたようだった[2]。バリーモスは見せ場をつくれず、この年の1,000ギニームーラン・ド・ロンシャン賞を制していたフランス牝馬ロゼロワイヤル Rose Royale (GB) [注釈 8]の着外に敗れた。これによりワシントンDCインターナショナルへの出走計画は断念された[20]

4歳シーズン(1958年)

破竹の四連勝

シーズン緒戦、バリーモスはチェスターオーモンドステークス英語版でドウテル Doutelle (GB) [注釈 9]に2着に敗れたが、その後ヨーロッパにおける傑出した競走馬であることを自ら証明した。イギリスで、エプソムのコロネーションカップをフランス調教馬フリック Fric (FR) [注釈 10]サンダウンエクリプスステークスではレストレーション Restoration (FR) [注釈 11]、アークティックエクスプローラー Arctic Explorer (GB) [注釈 12]から6馬身差で勝利し、アスコットのイギリスで最も重要な馬齢重量戦、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに出走した。レース当日11対4(3.75倍)から7対4(2.75倍)の1番人気に支持を集めたバリーモスは、ゴール手前1ハロン半でリードを奪うとアルメリア Almeria (GB) [注釈 13]に3馬身差を付けて完勝した[3]。ドウテルが3着だった。

10月、ロンシャンの凱旋門賞のためにパリへ送られた。この年の凱旋門賞には17頭が出走し、地元フランスのフランソワ・デュプレ英語版生産、所有馬ベラパオラ英語版 Bella Paola (FR) とタネルコ Tanerko (FR) のカップリングが1番人気の支持を集めた。ベラパオラは、この年イギリスで1,000ギニー、オークスを制覇したほか、前年のグランクリテリウム(ジャン・リュック・ラガルデール賞)や前走ヴェルメイユ賞など、デビュー戦3着とジョッケクルブ賞で2着になった以外は負け知らずだった[32]。タネルコは前々年(1956年)の凱旋門賞ではリボー Ribot (GB) に3着に敗れたが、この年ガネー賞サンクルー大賞をそれぞれ連覇するなどしていた。前日早い時間の強い雨で馬場は悪化し、バリーモスは3.9対1(4.9倍)の2番人気だった。後年、種牡馬として日本に輸入される、この年のデルビーイタリアーノなど地元イタリアで多くの大レースを勝ってきた*セダン Sedan (FR) が3番人気。同じく後に輸入される、同年のロワイヤルオーク賞優勝馬*ワラビー Wallaby (FR) 、前年のロワイアルオーク賞、この年カドラン賞に勝利していた*スコット Scot (FR) [注釈 14]が、それぞれ4、5番人気となっていた[注釈 15]

当日、馬場は急速に乾きつつあったが、出走馬が下見所に出ると土砂降りになった。オブライエンは時間ぎりぎりにバリーモスを引き出すことを考えていると伝えられていたが、賢明にもこれを行い、彼の馬は下見所、スタンド前のパレードともに完全に落ち着いていた。レースでは、最後の直線に入るとブリースリー騎手はリードを奪い、強く追われることなくフリックに2馬身差を付けてバリーモスが楽勝した。前年のセントレジャー同様アイルランド調教馬の優勝は初めてで、レース中の不利の指摘もあるベラパオラは8着に敗れた[35]。3着には更に2馬身半遅れてケラスコ Cherasco (FR) が入り、タネルコは5着、スコット7着、セダン、ワラビーは着外(着順記録なし)だった。

波乱の第7回ワシントンDC

バリーモスは引退レースとして、アメリカ合衆国のローレル競馬場へ送られた。11月11日のワシントンDCインターナショナルには、鉄のカーテンを越えてソ連の馬が初参戦し注目を集めた[注釈 16]。競馬場との16か月に及ぶ交渉の末、ソ連農務省は2頭の馬と5名からなるソ連チームの派遣を申し出た[37]。この年のボリショイ・フシエソユツニー賞ロシア語版(ソビエトダービー)の1、2着馬ガルニル Garnir (RUS) [注釈 17]とザリャド Zaryad (RUS) の2頭出しで、ザリャドにレースを引っ張らせて資本主義馬に対抗する作戦だった[45]。加えてドイツからは前年のドイチェスダービーオルシニドイツ語版 Orsini (GER) 、オーストラリアからヴィクトリアダービーや前年のマッキノンステークスを制したセイラーズガイド英語版 Sailor's Guide (AUS) [注釈 18]ベネズエラ[注釈 19]から10月26日のシモン・ボリバル大賞スペイン語版の優勝馬エスクリバノ Escribano (ARG) [44][注釈 20]アルゼンチンからレヴォケ Revoque (ARG) [注釈 21]、アイルランドからアメリカ人馬主の2頭、サープ Tharp (GB) [注釈 22]、バリーモスが海外から招待された。地元からは4歳を迎えていたアメリカ競馬史上最強世代[注釈 23]の一頭クレム英語版 Clem (USA) [注釈 24]とイギリスからの移籍馬テューダーエラ Tudor Era (GB) [注釈 25]が迎え撃った。どちらかといえば、きついコーナーや短い直線は適さないというヴィンセント・オブライエンの懸念にもかかわらずバリーモスは1番人気となった。バリーモスのオッズは1.1対1(2.1倍)の支持を集め、ウィリー・シューメーカー騎乗のクレムが4.2対1(5.2倍)の2番人気、テューダーエラ6.5対1(7.5倍)、セイラーズガイド8.3対1(9.3倍)、レスター・ピゴット騎乗のオルシニが12.2対1(13.2倍)、エディ・アーキャロ騎乗のサープ15.3対1(16.3倍)、ソ連の2頭のカップリングが18.5対1(19.5倍)、エスクリバノ38.5対1(39.5倍)、イスマエル・ヴァレンズエラ騎乗のレヴォケ42対1(43倍)と続いた[48]

好天に恵まれた競馬場には40,276人の観衆が詰め掛けた[66]。これは1946年に三冠を達成したアソールト Assault (USA) が二冠目を制したプリークネスステークスを凌ぐメリーランド州レコード[67] となる盛り上がりぶりだった。しかしレースは混乱したものとなった。当時このレースはスターターの赤旗の合図による常歩発走が取られていた[注釈 26]。バックストレッチの発走地点では各馬を整列させようとしていたが、馬たちは走り回って尻っぱねし、勝手気ままに動き回った。スターターは黒いホンブルク帽を押さえ、オーバーコートの尾をパタパタさせながら駆け回って赤旗で指図を行なった[66][注釈 27]。17分ほど遅れてスタートが切られたが[66]、焦れ込みの激しいエスクリバノに煽られて半ダースもの馬がフライングし、残りがスタートしてもザリャドがひどく取り残された[68]。スタートするとウィリー・ハーマッツ英語版騎乗のテューダーエラが先頭を奪い、アーキャロのサープがセイラーズガイド、エスクリバノと共にすぐ後ろに続いた。バリーモスは馬群の中団付近を追走した。正面スタンド前を過ぎバックストレッチに入ってもテューダーエラが依然先頭、サープ、セイラーズガイド、ガルニルと続き、後方からバリーモスも追い上げ始めた。直線に入るとテューダーエラが後続を突き放し、バリーモスはテューダーエラに3馬身半、2着を争ったセイラーズガイドに頭差及ばず3着に敗れた[66]。更に4馬身半後れてサープ、以下オルシニ、ガルニル、エスクリバノ、クレム、レヴォケ、ザリャドの順に入線した[67]

引き上げてきたザリャドのヴィクトル・コヴァロフ騎手は怒りを露わにし、ロシア語と身振りでまくし立てた。通訳は、「我々は出て行こうとしたのだが、誰かが手綱を放さず引き止められた」と訳したが[注釈 28]、コヴァロフは明らかに常歩発走に不慣れだった[68]。セイラーズガイドのハワード・グラント英語版騎手は、ファーストターン[注釈 29] でテューダーエラが進路を妨害したとして異議を申し立てた。決裁委員はテューダーエラを2着に降着し、セイラーズガイドを1着に繰り上げる裁定を下した。場内は大混乱となり、盛大なブーイングが放たれた[68]。グラントは、「はい、そうです。彼(テューダーエラ)は道中ずっと妨害していた。特に2度目のホームストレッチ入り口に来たときですが。」と語り、アーキャロも同意した。「ああ、まったく。その通り、あの馬は反則した。ちょうど全員がクラブハウスターンに入り始める前に、テューダーエラが膨らんだんだ。他の馬(セイラーズガイド)と私は彼を避けようとした。すると彼(テューダーエラ)が戻り始めた。私が少し引っ張って避けたところへセイラーが来て、私は彼を柵のほうへ少しばかり押しやった。」[注釈 30]。一方ハーマッツは、検量室で他の騎手に語っているのが耳にされている。「いや、していない。できないよ。前の外側にいたんだ。」[48]。ブリースリーは、「このコースは少しターンがきつかったし、我々は何度か妨害にあった。しかし状況を考えればバリーモスはとてもに良く走った。」とコメントした[68][注釈 31]

英米の論争 - 第7回ワシントンDCその後

この知らせはイギリスでも大きな驚きを持って迎えられた。『デイリー・エクスプレス』紙の一面トップの見出しは「ビッグ・レース・センセーション」で、各紙にも同様の見出しが躍った。バリーモスの3着はブックメーカーを喜ばせたが[注釈 32]、イギリスのルールであればテューダーエラは最下位となり、バリーモスが2着に繰り上がっていた筈なのも波紋を呼んだ。同紙でクライヴ・グレアムは、「バリーモスのこのシーズンの他の唯一の敗戦は、似たような〔小回りの〕チェスターのオーバルトラックだった」と指摘した。影響力の大きい『ロンドン・タイムズ』は、「イギリスのレースファンは、テューダーエラがバリーモスに先着したというニュースに呆然とした。このアイルランド馬は、この20年で最も偉大な競走馬の一頭だったが、テューダーエラがこの国にいた頃はそうした存在ではなかった。」とし、その結果、「これが描くのは、海の向こうの国際競走の将来への障壁となることのように思われる」「バリーモスは走りで少々の運に恵まれなくても問題なく勝てる筈だった」「バリーモスが失敗することが有り得るならば、将来のすべてのチャンピオンの旅に、馬主が冒険を躊躇させるような次元のリスクがあることは間違いない」と論評した[70]

タイムズ』の懸念にかかわらず、ワシントンDCインターナショナルは1984年にブリーダーズカップが創設され衰退するまで国際競走として命脈を保ったが、イギリスのこの騒ぎの知らせはアメリカ合衆国にまでもたらされた。翌日、このレースのオーガナイザー、ジョン・D・シャピロは異例にもこれを取り上げ見解を述べた[71]

シャピロは、スタートの不手際と降着が混乱を招いたことを承知していたが[注釈 33]、海外からの参加を危うくする論調に対しては、「『ロンドン・タイムズ』の解説者は7回のワシントンDCインターナショナルで5回は外国からの登録馬が勝っているという事実を見過ごしているようだ。」と反論し、今回の優勝馬が15,000マイル離れたオーストラリアから船で来たことを強調した[注釈 34]。また、アメリカ合衆国の有力競馬紙『モーニング・テレグラフ (英語版』のパーマー・ヒーガーティの記事を引用した。「ブリースリーは私が言うところの消極的な騎乗で、どこでいつ仕掛けるか明らかに決めかねていた」「ターンを全て回り終える前に一気に巻き返していったときには、うまくレースしているように見えた。先の出来事を取り返し、優勝争いに残る勢いと能力を見せた。」「直線の初めで追われると、バリーモスには単に、騎手や支持者が期待したほどの走力がなかった」「我々の観戦記者の一部は短い直線を敗因とする見解だが、私はこの見方には同意できない」。競馬場の職員は、ヴィンセント・オブライエンもこのレースには特に不満は抱いていないとし、調教師が前日当地を去る際に彼らに言った発言を引用した。「来年別の馬で戻って来たい。このレースを是非勝ちたいんでね。」。レース直後にこう言っていたとも付け加えた。「まあ、これが競馬なんだ」[71]

ローレル競馬場の同僚の一人はシャピロより辛辣だった。「彼らが我々を失敗だ、おかしい、というのは馬鹿げているように見える」「人気馬や本命馬が負けるのは珍しいことではない。ネイティヴダンサーを聞いたことがないのか?」[71] と語った (ネイティヴダンサーは生涯22戦21勝、2着一回でその2着となったレースは1953年のアメリカ三冠初戦、ケンタッキーダービーだった。このレースにおけるネイティヴダンサーのオッズは0.7対1 (1.7倍) 。勝利を収めていればネイティヴダンサーはアメリカ競馬史上9頭目の三冠馬、かつ史上初の無敗の三冠馬となっていた可能性があった。) 。

顕彰、評価

バリーモスが1958年シーズン終わりに引退した際の獲得賞金114,150ポンドは、1952年にタルヤー Tulyar (IRE) が記録した76,577ポンドを上回り、イギリス、アイルランド調教馬のレコードだった。この記録は1963年にラグーサ英語版 Ragusa (GB) に破られるまで保持された。

栄誉を称えて名付けられたバリーモスステークスが、1962年から1984年までカラ競馬場で行われた。

機関車に競走馬の名を付けるロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道の伝統に則り[76]、1961年11月24日イギリス国鉄デルティック”ディーゼル機関車D9018 (英語版(後の55 018)がバリーモスと名付けられ[77] 1981年10月12日まで運行された[78]

バリーモスはタイムフォームにより136のレーティングを与えられ、1958年の最高レートの馬となった[79]

種牡馬記録

バリーモスは、フォーディングブリッジ(ハンプシャー)のホワイツベリーマナースタッド(Whitsbury Manor Stud)で種牡馬となった。種牡馬として成功し、1967年にリーディングサイアー2位、1968年には3位となった。とりわけバリーモスは、1967年のエプソムダービー、2,000ギニー優勝馬ロイヤルパレス英語版 Royal Palace (GB) を産出した。日本においては京都杯シンザンを破るなど重賞8勝を挙げたバリモスニセイが活躍した。

主な産駒

ブルードメアサイアーとしての主な産駒

バリーモスはイギリスの主要なブルードメアサイアーの一頭となり、以下の母の父となった:

血統

バリーモス血統[138]ネアルコ系Gainsborough4×3=18.75% Chaucer4×5=9.38%(父系) Canterbury Pilgrim5×5=6.25%)(血統表の出典)

Mossborough (GB) [† 1]
1947 栗毛
父の父
Nearco (ITY)
1935 黒鹿毛
Pharos (GB)Phalaris (GB)
Scapa Flow (GB)
Nogara (ITY)Havresac (FR)
Catnip (IRE)
父の母
All Moonshine (GB)
1941 栗毛
Bobsleigh (GB)Gainsborough (GB)
Toboggan (GB)
Selene (GB)Chaucer (GB)
Serenissima (GB)

Indian Call (GB) [† 2]
1936 栗毛
Singapore (GB)
1927 栗毛
Gainsborough (GB)Bayardo (GB)
Rosedrop (GB)
Tetrabbazia (GB)The Tetrarch (GB)
Abbazia (GB)
母の母
Flittemere (GB) [† 3]
1926 栗毛
Buchan (GB)Sunstar (GB)
Hamoaze (GB)
Keysoe (GB) [† 4]Swynford (GB)
Keystone (GB) [† 5] F-No.2-u [141]

脚注

注釈

出典

参考文献

  • Mortimer, Roger (英語版; Onslow, Richard; Willett, Peter (1978). Biographical Encyclopedia of British Flat Racing. London, UK: Macdonald and Jane's. ISBN 0-354-08536-0 
  • Nock, O. S. (英語版 (1985). British Locomotives of the 20th Century. 3. London, UK: Guild Publishing/Book Club Associates 
  • Morris, Tony; Randall, John (1990). Horse Racing: Records, Facts, Champions (3 ed.). London, UK: Guinness Publishing. ISBN 0-85112-902-1 
  • Barrett, Norman, ed (1995). The Daily Telegraph Chronicle of Horse Racing. London, UK: Guinness Publishing. ISBN 0-85112-649-9 
  • Барминцева, Ю. Н. (1972). Коннозаводство и конный спорт. Москва: Колос. http://konevodstvo.su/books/item/f00/s00/z0000006/st122.shtml 2014年12月21日閲覧。  - バルミンツェヴァ, Ю. Н. 『馬の育種と馬術』1972年。
  • Парфенова, С. (2002). “Обзор традиционных призов на ЦМИ”. Коневодство и конный спорт (Москва). http://www.kdvorik.ru/kks/index.php3?mag=87:2:2002&a=417 2014年12月21日閲覧。.  - パルフェノヴァ, С. 「CMIロシア語版のクラシック競走概要」『馬産と馬術』2002年2号。
  • “Рауфбольд. Нереализованный шанс”. Голд Мустанг (Москва: Голд Мустанг) (69). (2008). http://www.goldmustang.ru/magazine/heroes/horses/94.html 2014年12月21日閲覧。.  - 「名馬: ラウフボルト - 失われた機会」『ゴールドムスタング』2008年1号(通巻69号)。
  • 山野浩一、宇佐美恒雄、石崎欣一『サラブレッド血統事典』(第3版)二見書房、1980年。ISBN 4-576-85025-3 
  • 山野浩一『伝説の名馬 Part I』中央競馬ピーアール・センター、1993年。ISBN 4-924426-37-7 
  • 山野浩一『伝説の名馬 Part III』中央競馬ピーアール・センター、1996年。ISBN 4-924426-49-0 
  • 山野浩一『伝説の名馬 Part IV』中央競馬ピーアール・センター、1997年。ISBN 4-924426-55-5 

外部リンク