ミス・ユニバース・ジャパン

ミス・ユニバース・ジャパン英語: Miss Universe Japan)とは、ミス・ユニバース世界大会に出場する日本代表を選ぶ日本国内で開催されるミスコンテストである。

ミス・ユニバース・ジャパン
Miss Universe Japan
1953年のミス・ユニバース・ジャパンとしての伊藤絹子。東京都千代田区帝国劇場にて。1953年6月。
1953年のミス・ユニバース・ジャパンとしての伊藤絹子。東京都千代田区帝国劇場にて。1953年6月。
イベントの種類コンテスト
正式名称ミス・ユニバース・ジャパン
開催時期2020年10月29日
初回開催1952年
会場主に東京都内
運営株式会社MY group
公式サイト
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日本代表選出大会としての「ミス・ユニバース・ジャパン」の運営ライセンス権

2011年度日本大会の会場・東京ドームシティホール(ミーツポート内)[1]
2012年度日本大会の会場・大阪府立国際会議場[2]
2013年度日本大会の会場・東京国際フォーラム[3]
2019年度日本大会の会場・山野ホールが入るMYタワー

朝日放送時代まで

ミス・ユニバース世界大会の国別予選であるミス・ユニバース日本大会自体は、第1回世界大会の開催に伴って1952年昭和27年)の第1回から、ほぼ毎年行われており、当初は産業経済新聞社、次いで国際親善友好協会、1971年昭和46年)から1995年平成7年)までは、当時運営権及び放送権を有していた大阪の朝日放送によって開催されていた。

イネス・リグロン(IBG Japan)時代

その後はスポンサー不在のため、2年間に亘って日本大会が休止されたが、1998年平成10年)にフランス人のイネス・リグロン(IBG Japan株式会社)をナショナル・ディレクターとする「ミス・ユニバース・ジャパン」として新たに復活した。

2004年平成16年)から、栄養コンサルタントにオーストラリア人のエリカ・アンギャル(15歳の時に大分県に語学留学した経験から日本語が堪能)が起用され、日本大会ファイナリストに栄養指導を行った。

特に、この時代の中期~後期には、世界大会で優勝した2007年森理世を筆頭に、2003年宮崎京(世界5位)、2006年知花くらら(世界2位)、そして後に日本大会のナショナル・ディレクターとなる2008年美馬寛子(世界14位・Best of Asia)ら、世界大会TOP15以上の上位・優勝争いに絡む日本代表を多く輩出し、自身も2007年の世界大会で「ベスト・ナショナル・ディレクター」として表彰された。 2009年、リグロンはIBG JAPANを株式会社HDRに譲渡した。その後、リグロンは、2011年(平成23年)大会をもって退任するまで、14大会に渡ってナショナル・ディレクターを務め、また、その退任後も2012年大会までは、IBG Japanが運営ライセンス権を保持し、大会を運営した。

HDR時代

2013年大会から2017年大会まで、株式会社HDRがミス・ユニバース・ジャパンの運営ライセンス権を保持し、大会を運営していた。

2013年(平成25年) この時代、一部を除く各都道府県ごとに地方大会が開催され、この年からほぼ全県で代表が選出されるようになった。各地方大会の代表者がミス・ユニバース・ジャパン本大会に進出し、原則として本大会優勝者(「ミス・ユニバース・ジャパン」)が同年に行われるミス・ユニバース世界大会に日本代表として出場していた。

この時代は、リグロンの時代と異なり、世界大会での上位に進出する日本代表を輩出したのは、2015年宮本エリアナが世界10位になった1回のみであった。

HDRは、2018年から後述の株式会社MY group(代表:美馬寛子)が運営ライセンス権を取得したことに伴い、本来なら2017年大会を最後にミス・ユニバース・ジャパンの運営に関与できなくなったが、既に地方大会が動き出していたことなど諸事情を理由に、MY groupと共催する形で運営に関与、その後は、2019年から「ミス・ジャパン」という独自の(ミス・ユニバースと全く無関係で世界大会もない)大会を創始して開催している。

美馬寛子(MY group)時代

2018年からMY groupがミス・ユニバース・ジャパンの運営ライセンス権を取得し、同社代表を務める美馬寛子(2008年ミス・ユニバース・ジャパン)が日本人女性として初となるナショナル・ディレクターに就任した。

前述の通り、諸事情により、2018年大会については、HDRと共催したが、2019年大会から本来の形として単独での開催を実現した。

2018年度から一度も入賞していない。

地方大会・都道府県代表の廃止

前年までとの大きな変化として、都道府県ごとの地方大会および都道府県代表を廃止し、「各都道府県代表=日本大会ファイナリスト」という枠組みも消滅した。

その後、前年まで開催されていた各都道府県ごとの地方大会の内の一部(32府県)が「ベストオブミス」という大会名での開催に移行し、ベストオブミス開催の各県で、

  • ミス・ユニバース・ジャパン日本大会のセミファイナリスト(の一部)

を選出することになった。

これら32府県から選出されたセミファイナリスト32名と別に、ミス・ユニバース・ジャパン事務局が独自に募集した中から選出されたセミファイナリストと合わせ、計41名のセミファイナリストが2019年ミス・ユニバース・ジャパン日本大会に出場し、その日本大会の中で同一日にセミファイナル(準決勝)・ファイナル(決勝)が実施され、日本代表としての「ミス・ユニバース・ジャパン」が選出された。

応募資格

2019年現在の応募資格は以下のとおり。身長・学歴・職業・出身地・居住地といった条件はない(どの地方の「ベスト・オブ・ミス」大会にも応募可能)[4]

  1. 年齢18歳以上(上限は地方大会によって若干差異あり)
  2. 未婚者(過去の婚姻歴、出産経験もないこと)
  3. 日本国籍を有すること

大会での選考審査では世界大会と同じく、単なる外見の美しさだけではなく、知性・感性・人間性・誠実さ・自信などの内面も重視される。社会に積極的に貢献したいという社会性が求められる[5]

日本代表としての「ミス・ユニバース・ジャパン」

日本代表からはこれまで、森理世(2007年)が世界大会で優勝している。復活前のミス・ユニバース日本大会の時代に世界一になった児島明子(1959年)を含めれば2人である。優勝者や入賞者を含むミス・ユニバース・ジャパンの参加者には、その後女優モデルタレントなどとして芸能界で活躍する者も多い。

テレビ放送

2008年平成20年)には、本大会までを密着したドキュメント番組がフジテレビ(関東ローカル)と、世界大会までを密着したドキュメント番組がNHKで放送された。2012年6月2日にもフジテレビと関西テレビ(関東および関西ローカル)で放送。2013年3月23日にはBS朝日テレビ朝日系BS放送局)で放送。2019年には本大会までを密着したドキュメントがTBSビビット」にて複数回放送された。

かつてのミス・ユニバース日本大会

日本大会は、ミス・ユニバース世界大会の初開催にあわせて1952年昭和27年)に始まった。優勝者は、日本代表となって、『ミス・ジャパン』として世界大会に出場した。

日本代表は1950年代、合計3人が上位入賞(総合5位以内)するという結果を残し、1953年(昭和28年)の第2回大会で伊東絹子が第3位の評価を受けたほか、1959年(昭和34年)には児島明子日本人アジア人として初の『ミス・ユニバース』の栄冠に輝いた。当時は「有色人種」初のミス・ユニバースとも言われた。

日本大会は世界大会の日本予選としてほぼ毎年行われ、当初は産業経済新聞社が主催しており、伊東の入賞や児島の世界一もこの時代であった。1971年(昭和46年)から1995年平成7年)までは朝日放送が運営権を有していた(放送権は1967年(昭和42年)に得て日本大会と世界大会の放送を始めており、1971年には運営権も「国際親善友好協会」から譲り受けた[6])が、1970年(昭和45年)に上位入賞した島田純を最後に、1980年代の上位入賞は、1988年(昭和63年)に総合第4位を獲得した坂口美津穂(現姓・星野)ただ一人となった。それ以降も日本大会は盛り上がりを欠き、1990年代にかけて日本代表の上位入賞(総合5位以内)は皆無、1995年(平成7年)に『ミス・ジャパン』となった佐伯成美を最後に、日本代表の世界大会出場は中断した。

1986年に日本代表となった難波央江[7]の頃から、1995年の日本代表となった佐伯成美までの代表選出は世界大会の前年である。

テレビ放送

当初はフジテレビが放送しており、児島明子が優勝した1959年(昭和34年)の司会はトニー谷であった[8]朝日放送(ABC)の制作で全国放送された時代は1972年(昭和47年)に三橋達也が司会を務め[9]、その翌年から宝田明1991年平成3年)まで司会を務めた。腸捻転時代は、TBS系列にて放送され、腸捻転解消後はテレビ朝日(1977年3月まではNETテレビ)系列に移行した。なお、1975年昭和50年)は、腸捻転解消直前の3月23日(日曜)に実施し、TBS系列で全国同時ネットされた最後のABC制作の生放送番組となった[10]1976年(昭和51年)以降は主に「水曜スペシャル」などABCの単発特別番組枠で放送されていた。

1993年(平成5年)の代表を選んだ1992年(平成4年)12月の大会と、1994年(平成6年)の代表を選んだ1993年12月の大会では、俳優の石田純一が司会を務めた。

1995年(平成7年)の代表を選んだ1994年(平成6年)12月の放送では、スタジオと会場の二元生放送が行われ、スタジオ司会を板東英二島田紳助、進行役を朝日放送アナウンサー岡元昇が務め、内容も吉本興業の芸人が多く出演しバラエティ色を強めたが、ミス・ユニバース日本事務局との放送権契約の終了に伴い、1995年5月の世界大会をもって朝日放送制作の中継が終了した[11]

歴代の日本代表

1995年度までの日本代表

  • 「かつてのミス・ユニバース日本大会」を表記
優勝者
(出場後の肩書)
世界大会
の回数
世界大会の開催地世界大会での成績備考
第1回1952年小島日女子第1回アメリカ
(ロングビーチ)
  
第2回1953年伊東絹子第2回総合第3位を獲得伊東を現す「八頭身美人」は流行語となった。
第3回1954年近藤美恵子
(女優)
第3回 近藤はその後大映映画で活動。
第4回1955年高橋敬緯子第4回総合第5位を獲得 
第5回1956年馬場祥江第5回  
第6回1957年大谷享子第6回『トップ15』に入賞し、特別賞「ミス・アジア賞」も受賞
第7回1958年森武知子第7回『トップ15』に入賞し、特別賞「ミス・フレンドシップ」も受賞 
第8回1959年児島明子第8回『ミス・ユニバース』児島は、日本人及びアジア人として初めての『ミス・ユニバース』となった。1966年に俳優の宝田明と結婚するが、1984年に離婚。娘・児島未散は歌手。
第9回1960年古野弥生第9回アメリカ
(マイアミビーチ)
『トップ15』に入賞 
第10回1961年遠山明美第10回 遠山は、通算10代目の日本代表。
第11回1962年平野和子第11回  
第12回1963年安藤矩子第12回『トップ15』に入賞同世界大会では、当時の朝日放送常務・原清が審査員のひとりであった。
第13回1964年松本千都子第13回  
第14回1965年片山まり第14回  
第15回1966年池野温美第15回  
第16回1967年藤川香代子第16回  
第17回1968年飯野矢住代
(タレント)
第17回特別賞「ミス・アミティー」を受賞飯野は受賞後、ジャニーズ事務所で初めての女性タレントとなったが退社し、1971年に21歳で死亡した。
第18回1969年大須賀喜久代第18回総合第5位を獲得 
第19回1970年島田純
(タレント)
第19回総合第4位を獲得し、特別賞も受賞島田は、ミス・ユニバース日本代表になった翌月に大阪で行われた「万国博の女王選出大会」に出場。ミス・ユニバース世界大会出場後、ジャニーズ事務所で二人目の女性タレントとなり、「嶋田じゅん」として芸能活動。1977年(昭和52年)にフォーリーブス青山孝と結婚、後に離婚。
第20回1971年武富茂子第20回『トップ12』を獲得武富は、通算20代目の日本代表。
第21回1972年前田晴美第21回プエルト・リコ
(ドラド)
『トップ12』を獲得同世界大会における審査員には、当時の朝日放送社長・原清がいた。
第22回1973年染谷美代子第22回ギリシャ
(アテネ)
『トップ12』を獲得同世界大会では、日本のファッションデザイナー・森英恵が審査員のひとりであった。
第23回1974年坪井江里子第23回フィリピン
(マニラ)
 同世界大会における審査員には、当時の朝日放送社長・原清がいた。
第24回1975年中山幸子第24回エルサルバドル
(サンサルバドル)
『トップ12』を獲得同世界大会における審査員には、当時の朝日放送社長・原清がいた。
第25回1976年岩国美弥子第25回香港  
第26回1977年佐藤恭子第26回ドミニカ共和国
(サントドミンゴ)
  
第27回1978年萬田久子
(女優)
第27回メキシコ
(アカプルコ)
 同世界大会における審査員には、デヴィ・スカルノ(デヴィ夫人)がいた。
第28回1979年黒田百合香第28回オーストラリア
(パース)
特別賞「ミス・アミティー」を受賞 
第29回1980年檜山久恵第29回韓国
(ソウル)
特別賞「ベスト・ナショナル・コスチューム」の第3位を受賞檜山は、1984年にプロ野球選手の上川誠二と結婚。同世界大会における審査員には、当時の朝日放送社長・原清がいた。
第30回1981年織作峰子
(写真家)
第30回アメリカ
(ニューヨーク)
 織作は、通算30代目の日本代表。
第31回1982年奥脇絵里
(カーレーサー)
第31回ペルー
(リマ)
  
第32回1983年山口遊子第32回アメリカ
(セントルイス)
特別賞「ベスト・ナショナル・コスチューム」の第3位を受賞 
第33回1984年新山恵第33回アメリカ
(マイアミ)
  
第34回1985年古沢初美第34回  
第35回1986年江崎普子第35回パナマ
(パナマシティ)
  
第36回1987年難波央江第36回シンガポール  
第37回1988年坂口美津穂第37回台湾
(台北)
総合第4位を獲得坂口は、1989年にプロ野球選手の星野伸之と結婚。
第38回1989年田代絵里第38回メキシコ
(カンクン)
  
第39回1990年三好浩子第39回アメリカ
(ロサンゼルス)
 三好と同日、同じ舞台でミス・フラワークイーン日本代表に選出された宮川朋子は[12]、ロサンゼルスと同時に大阪の国際花と緑の博覧会で行われたミス・フラワークイーン世界大会に出場[13]
第40回1991年山本亜津子第40回アメリカ
(ラスベガス)
 山本は、通算40代目の日本代表。
第41回1992年安藤晃子
(女優)
第41回タイ
(バンコク)
  
第42回1993年志岐幸子
(スポーツキャスター、感性工学学者)
第42回メキシコ
(メキシコシティ)
 志岐はスポーツキャスターとして活躍後、感性工学学者として関西大学准教授となり、さらにその後同大学教授となった。同世界大会では、日本のジャズ奏者・松居慶子が審査員のひとりであった。
第43回1994年川人千明第43回フィリピン
(パサイ)
  
第44回1995年佐伯成美
(女優)
第44回ナミビア
(ウィントフック)
 「小出華津」として芸能活動をしている。

1998年度以降の日本代表

  • 「ミス・ユニバース・ジャパン」として復活して以降を表記。
  • 下記表の通算回数は、上記の「かつての日本大会」の回数を含めた数。

(通算)
優勝者
(出場後の肩書)
世界大会
の回数
世界大会の開催地世界大会での成績備考
第1回
(第45回)
1998年奥村ナナ第47回アメリカ
(ホノルル)
  
第2回
(第46回)
1999年小川里美
(オペラ歌手)
第48回トリニダード・トバゴ
(チャグアラマス)
  
第3回
(第47回)
2000年遠藤真由
(建築家)
第49回キプロス
(ニコシア)
  
第4回
(第48回)
2001年荒内美沙緒第50回プエルトリコ
(バヤモン)
  
第5回
(第49回)
2002年千葉美苗第51回プエルトリコ
(サンフアン)
  
第6回
(第50回)
2003年宮崎京
(モデル・女優)
第52回パナマ
(パナマシティ)
総合第5位を獲得宮崎は、通算50代目の日本代表。
第7回
(第51回)
2004年町本絵里
(歌手)
第53回エクアドル
(キト)
  
第8回
(第52回)
2005年葛谷由香里
(モデル)
第54回タイ
(ノンタブリー県)
  
第9回
(第53回)
2006年知花くらら
(タレント)
第55回アメリカ
(ロサンゼルス)
総合第2位を獲得し、特別賞「民族衣装部門」も受賞 
第10回
(第54回)
2007年森理世
(ダンサー)
第56回メキシコ
(メキシコシティ)
『ミス・ユニバース』森は、日本人として2人目[14](日本代表復活後としては初)の『ミス・ユニバース』となった。
第11回
(第55回)
2008年美馬寛子第57回ベトナム
(ニャチャン)
『トップ15』に入賞(総合第14位) 
第12回
(第56回)
2009年宮坂絵美里
(モデル・女優)
第58回バハマ
(ナッソー)
 宮坂は、2011年から「絵美里」として芸能活動をしている。
第13回
(第57回)
2010年板井麻衣子
(モデル)
第59回アメリカ
(ラスベガス)
  
第14回
(第58回)
2011年神山まりあ
(モデル)
第60回ブラジル
(サンパウロ)
  
第15回
(第59回)
2012年原綾子第61回アメリカ
(ラスベガス)
  
第16回
(第60回)
2013年松尾幸実
(モデル・女優)
第62回ロシア
(モスクワ州
クラスノゴルスク)
 松尾は、通算60代目の日本代表。
第17回
(第61回)
2014年辻恵子第63回アメリカ
(マイアミ)
  
第18回
(第62回)
2015年宮本エリアナ第64回アメリカ
(ラスベガス)
『トップ10』に入賞 
第19回
(第63回)
2016年中沢沙理[15][16][17]第65回フィリピン
(パサイ)
  
第20回
(第64回)
2017年阿部桃子[18][19]
(モデル・タレント)
第66回アメリカ
(ラスベガス)
「ナショナルコスチューム(民族衣装)部門」で最優秀賞を受賞[20]阿部の父親は阿部祐二(テレビリポーター)、母親は阿部まさ子(プロゴルファー)。
第21回
(第65回)
2018年加藤遊海[21][22]第67回タイ
(ノンタブリー県)
  
第22回
(第66回)
2019年加茂あこ[23][24]第68回アメリカ
(アトランタ)
  
第23回
(第67回)
2020年杤木愛シャ暖望第69回アメリカ
(ハリウッド)
  
第24回
(第68回)
2021年渡邉珠里第70回イスラエル
(エイラート)
『トップ16』に入賞 
第25回
(第69回)
2022年坂本麻里ベレン第71回アメリカ
(ニューオーリンズ)
 
第26回
(第70回)
2023年宮崎莉緒第72回エルサルバドル 

著名なファイナリスト

  • ミス・ユニバース日本大会とミス・ユニバース・ジャパンを合わせて表記。
  • 下記表の通算回数は、「かつての日本大会」の回数を含めた数。

(通算)
大会成績著名な出場者出場後の肩書備考
第38回1989年準ミス岩崎三奈生アナウンサー 
第39回1990年準ミス加藤雪乃[25]女優芸能活動は「石川雪乃」として。
第40回1991年準ミス福田孝子[26]歌手芸能活動は「澤地美欧」として。
第42回1993年準ミス濱村美保モデル 
第3回
(第47回)
2000年準ミス(第2位)芦澤裕子[27]モデル芸能活動は「美元」として。2008年に俳優の高嶋政伸と結婚するが2012年に離婚。
準ミス(第3位)滝沢沙織女優 
第5回
(第49回)
2002年セミファイナリスト中村純子女優 
第7回
(第51回)
2004年準ミス(第2位)瀬畑茉有子モデル 
第9回
(第53回)
2006年第5位栗山絵美女優、モデル 
第10回
(第54回)
2007年準ミス(第2位)濱田玲モデル 
準ミス(第3位)中鉢明子女優 
ファイナリスト小泉亜子ラジオDJ芸能活動は「坂倉アコ」として。2010年にラッパーのSPHERE(坂倉友之)と結婚するが2016年に離婚。
第11回
(第55回)
2008年ファイナリスト松原奈帆子モデル 
ファイナリスト山口小夜女優芸能活動は「渡邊小百合」として。
第12回
(第56回)
2009年準ミス小幡尚美歌手 
第13回
(第57回)
2010年準ミス吉田桃華女優 
第3位福田萌子モデル 
第5位和多谷沙耶パフォーマー、ダンサー 
第14回
(第58回)
2011年第3位田中道子モデル 
ファイナリスト金田彩奈モデル2012年度トリンプ・イメージガールに選出。
第15回
(第59回)
2012年第2位松井由貴美モデル 
ファイナリストあべみほタレント、グラビアアイドルミスFLASH2015グランプリを受賞。新日本プロレスのリングに上がるディーヴァとしても活動。2018年、ヌード写真集を発売。
ファイナリスト森なな子声優宝塚歌劇団男役(91期生、当時の芸名は冴輝ちはや)
セミファイナリスト平塚千瑛女優 
第16回
(第60回)
2013年ファイナリスト石橋真珠女優、モデル 
第17回
(第61回)
2014年準ミス(第2位)西内ひろモデル2009年度トリンプ・イメージガールに選出(この時の名前は西内裕美)。妹は女優の西内まりや
第3位高橋美咲レースクイーン、モデル2011 - 2014年MOTULサーキットレディ
ファイナリスト礒部花凜女優、声優、歌手 
ファイナリスト薗田杏奈モデル 
第18回
(第62回)
2015年第3位土屋ひかるモデル2019年度トリンプ・イメージガールに選出。妹の土屋希美もモデル。
ファイナリスト島田七実モデル2016年度日本スイムスーツ協会キャンペーンガールに選出。
第19回
(第63回)
2016年ファイナリスト田中梨乃タレント、レースクイーン2017ミス日本酒(Miss SAKE)
第21回
(第65回)
2018年第3位豊澤瞳[21]モデル、ラジオパーソナリティ 
ファイナリスト薄井しお里フリーアナウンサー 
第23回
(第67回)
2020年セミファイナリストサイード横田仁奈[28][29]新体操選手・指導者2012年ロンドンオリンピック代表(新体操団体)。妹は元AKB48研究生でタレントのサイード横田絵玲奈[30]

ミス・ユニバース沖縄代表

アメリカ合衆国占領下の沖縄では、1956年(昭和31年)に「琉球代表」吉田和子が日本大会に特別参加した他[31][32]1963年(昭和38年)からの6年間、独自の「沖縄代表」を選出、『ミス・オキナワ』として、世界大会に出場していた。しかしながら歴史上、沖縄代表の入賞はなかった。

歴代沖縄代表

  • 1963年 - レイコ・ウエハラ
  • 1964年 - トヨコ・ウエハラ
  • 1965年 - レイコ・アラカキ(リエコ・イングリッシュ
  • 1966年 - ヨネコ・キヤン
  • 1967年 - エツコ・オクヒラ(奥平悦子)[32]
  • 1968年 - サチエ・カワミツ
  • 2015年 - オリタアカリ
  • 2016年 - イトカズコナツ

脚注

関連項目

外部リンク