ヴェルダー・ブレーメン

ドイツのサッカークラブ

ヴェルダー・ブレーメンWerder Bremen、正式名称: Sportverein Werder Bremen von 1899 e. V.)は、ドイツ連邦共和国ブレーメン州ブレーメンに本拠地を置く総合スポーツクラブサッカー部門が特に知られており、トップチームは2019年の時点でブンデスリーガに所属し、これまでに4回のリーグ優勝を経験している。この他にもハンドボール陸上競技チェス卓球体操部門があり[3]、約4万人の会員を保有している[4]

ヴェルダー・ブレーメン
原語表記Sportverein Werder Bremen von 1899 e. V.
愛称Die Werderaner[1](中洲の民)
Die Grün-Weiß[1](緑と白)
クラブカラー   
   
創設年1899年
所属リーグドイツ・ブンデスリーガ
所属ディビジョン1部(2023-24
昨季リーグ順位13位(2022-23
ホームタウンブレーメン州 ブレーメン
ホームスタジアムWeserstadion
ヴェーザーシュタディオン
収容人数42,100
代表者ドイツの旗 フーベルトゥス・ヘス=グルネヴァルト[2]
監督ドイツの旗 オーレ・ヴェルナー英語版
公式サイト公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

クラブの歴史

創設期から1970年代

クラブはブレーメンに住む学生が、あるコンテストの賞品としてサッカーボールを貰い受けたことを契機に[5]1899年2月4日に「フッスバルフェライン・ヴェルダー・ブレーメン」として創設された[6]。クラブ名の「ヴェルダー」とは市内を流れるヴェーザー川中州を意味する[7]。一方、当時のドイツ国内ではイギリス発祥のスポーツであるサッカーは「非ドイツ的」であると見做され、トゥルネン体操運動の支持者から批判を受けたが、第一次世界大戦の勃発により多くの若者が招集を受けてもなおサッカーは続けられた[6]

創設以来、クラブは高等教育を受けた男性を対象としていたが、1919年に女性会員の受け入れを認めた[6]。さらにサッカー以外にも枠を広げ1920年に「シュポルトフェライン・ヴェルダー・ブレーメン・フォン1899」と改称し、陸上競技チェステニス野球クリケットなどの他のスポーツ部門が新たに設立された[6]。その一方でサッカー部門は1,000人近い会員を有するなどクラブにおいて重要な地位を占めていた[6]

1960-61シーズンのDFBポカールでは決勝戦で1.FCカイザースラウテルンを2-0と下し初優勝[8]、これがクラブにとって初のビッグタイトルとなった[5]1963年に創設されたブンデスリーガには初年度から参加し、2季目の1964-65シーズンには守備の要のホルスト=ディーター・ヘットゲスらを擁してリーグ初優勝を果たした[9]。一方で1968-69シーズンに2位となったのを最後に成績は下降線を下るようになり[9]、1971-72シーズンに所属選手が大幅に入れ替わったことを契機に従来の緑色のユニフォームをブレーメン市の旗の色に因んだのストライプに変更し、エンブレムのデザインも変更するなどのイメージ転換を図ったが功を奏せず[10]、1979-80シーズンには17位の成績でブンデスリーガ2部へ降格した[10]

1980年代

1981年から1995年まで監督を務めたオットー・レーハーゲル

1980-81シーズンにブンデスリーガ2部で優勝し1年で1部リーグに復帰すると新たにオットー・レーハーゲルが監督に就任[11]。若手選手のルディ・フェラーフランク・オルデネビッツトーマス・シャーフオーストリア代表ブルーノ・ペッツァイ日本代表奥寺康彦らを擁して優勝争いに加わるようになったが、1982-83シーズンはハンブルガーSVに、1984-85シーズンと1985-86シーズンは共にバイエルン・ミュンヘンに抑えられ2位という結果で終わった[11]。特に1985-86シーズンは前半戦を首位で折り返し33節まで首位に立ちながら最終節のVfBシュトゥットガルト戦で1-2と敗れ優勝を逃した[11][12]

その後、オルデネビッツやシャーフらを残して陣容が入れ替わったが新たにノルウェー代表ルネ・ブラツェットや若手のカール=ハインツ・リードレらが加入、それまで出場機会のなかったオリバー・レックが正キーパーに昇格し1987-88シーズンに23年ぶり2回目のリーグ優勝を果たした[13][14]

国際舞台においてもUEFAカップ1987-88では準々決勝に進出、UEFAチャンピオンズカップ 1988-89では準々決勝に進出、UEFAカップ1989-90では3回戦でディエゴ・マラドーナを擁するイタリアSSCナポリを下すなどして準決勝進出するなど、徐々に成績を伸ばした[13]

1990年代

1990年代に入るとリードレが移籍したもののレーハーゲルの指揮の下、オルデネビッツやブラツェットやレックといった主力選手に新たにクラウス・アロフスニュージーランド代表ウィントン・ルーファーが加わりUEFAカップウィナーズカップ 1991-92では決勝戦に進出するとASモナコをアロフスとルーファーの得点で2-0と下し初優勝、クラブ初のヨーロッパタイトルを獲得した[13]。1992-93シーズンにはオーストリア代表のアンドレアス・ヘルツォークが加入しブンデスリーガではバイエルン・ミュンヘンを退けて3回目の優勝を果たし[13][15]、1994-95シーズンも2位で終えた[13]。これらの成功は控え目な資金投入によってもたらされたもので[16]、レーハーゲルはフェラーやリードレといった国際的な選手を育成する一方でマリオ・バスラーのような特異な才能を持つ選手も受け入れた[16]。14年間の在任期間中に多くの成功をクラブにもたらしたレーハーゲルだったが、同シーズン限りでバイエルン・ミュンヘンに引き抜かれる形で退団した[16]

レーハーゲルの退団後、毎シーズンの様に監督が入れ替わったが上位に進出することは少なくなり[16]フェリックス・マガトが監督を務めた1998-99シーズンは2部降格が現実味を帯びるなど急速に成績が悪化[16]、シーズン終盤にマガトを解任しリザーブチームを指揮していたシャーフが監督に昇格。シーズン残り4試合で3勝して残留を決めた[16]。リーグ戦では下位に低迷したが、一方でDFBポカールでは決勝に進出すると、バイエルン・ミュンヘンを1–1の同点からPK戦の末に5–4と下し10年ぶり3回目のタイトルを獲得した[16][17]

2000年代

2004年のDFBポカール優勝を祝福するサポーター

DFBポカールでの優勝により国際舞台に復帰し、UEFAカップ1999-2000ではフランスのオリンピック・リヨンやイタリアのパルマFCを下し準々決勝進出を果たした[18]。2001-02シーズン終了後、1988年からチーム一筋でプレーしたディーター・アイルツが引退した。その後、ブンデスリーガでは中位の成績に留まり国際舞台からも遠ざかったが、クラウディオ・ピサロトルステン・フリンクスといった若手選手の売却により財政的な恩恵を受ける一方でヘルツォークやマルコ・ボーデらといったレーハーゲル時代を支えたベテランに代わり、ジョアン・ミクーイヴァン・クラスニッチらが新たに加入[18]。ミクー、クラスニッチ、アイウトンの攻撃陣を擁して2003-04シーズンにはブンデスリーガとDFBポカールの二冠を獲得した[18]

2004-05シーズンは、シーズン開幕前にアイウトンが退団したが、ミロスラフ・クローゼが新たに加入[19]UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05では決勝トーナメント1回戦にてフランスのオリンピック・リヨンに2試合合計2-10 (0-3、2-7) という記録的な敗戦を喫した[19]

2005-06シーズンはフリンクスが復帰し、センターバックのナウドを獲得するなど陣容が整う[19]UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06決勝トーナメント1回戦にてユヴェントスを相手に2戦合計4-4 (3-2、1-2) とアウェーゴール差での敗戦となった[19]。ブンデスリーガではバイエルン・ミュンヘンに次いで2位に終わったもののクローゼが25得点をあげて得点王となった[19]

2006-07シーズンはシーズン開幕前にミクーが退団したもののポルトガルのFCポルトからジエゴが加入[19]UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07ではグループリーグにおいてチェルシーFCFCバルセロナと同組となったものの、ホームでチェルシーを破るなど、グループリーグ最終節まで決勝トーナメント進出を争った[19]。グループリーグ3位となり出場権を獲得したUEFAカップ 2006-07ではベスト4に進出した[19]。ブンデスリーガではシーズン終盤まで優勝を争ったが[20] 最終的に3位となりUEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得した[21]

1999年から2013年まで監督を務めたトーマス・シャーフ

2007-08シーズンはシーズン開幕前にクローゼがバイエルン・ミュンヘンへ移籍[19][22]UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08では、グループリーグにおいてホームでレアル・マドリードを破りながらも、オリンピアコスに2敗を喫し、グループリーグ3位での敗退となった[19]。また、決勝トーナメントより出場したUEFAカップ 2007-08においても、レンジャーズに敗れベスト16止まりとなった[19]。ブンデスリーガでは2005-06シーズンと同様にバイエルン・ミュンヘンに次いで2位でシーズンを終えた[19]

2008-09シーズンは、UEFAチャンピオンズリーグ 2008-09ではグループリーグにおいてインテルに1勝1分と健闘したが、パナシナイコスに1敗1分、アノルトシス・ファマグスタFCに2分と勝ち点を落とし、グループ3位でUEFAカップ 2008-09へと回った[23]。UEFAカップでは決勝トーナメント1回戦でACミランを下すなど決勝まで進出するも、決勝でジエゴを累積警告による出場停止で欠いていたこともあって、シャフタール・ドネツクに延長戦の末に1-2で敗れ、準優勝に終わった[19][24]。ブンデスリーガでは10位と振るわず、9シーズンぶりの2桁順位に終わった[19]クラウディオ・ピサーロが17得点を挙げ[25]、MFメスト・エジルが15アシストの活躍を見せたが[25]、50失点した守備陣が穴となった。一方、DFBポカール決勝ではエジルの決勝点でバイエル・レバークーゼンを下して優勝し[26]UEFAヨーロッパリーグ 2009-10の出場権を獲得した。

2009-10シーズンは、シーズン開幕前にキャプテンを務めていたMFフランク・バウマンが引退、ジエゴがユヴェントスFCへ移籍したが[27]、代役としてマルコ・マリンティム・ボロウスキが2年ぶりに復帰した。UEFAヨーロッパリーグでは決勝トーナメント2回戦でバレンシアCFと2試合合計で5-5と引き分けたがアウェーゴールの差で敗退したが[28]、ブンデスリーガでは3位でシーズンを終えUEFAチャンピオンズリーグ 2010-11の出場権を獲得[29]。一方、DFBポカールでは2年連続で決勝進出をしたがバイエルン・ミュンヘンに0-4と大敗した[30]

2010年代

2010-11シーズンは、シーズン開幕前にエジルがレアル・マドリードへ移籍[31]。UEFAチャンピオンズリーグではプレーオフを通過し本戦に出場したが[32]、イタリアのインテルに1勝したのみでグループリーグ最下位で敗退した[33]。ブンデスリーガでは13位でシーズンを終えた。

2011-12シーズンは、シーズン開幕前にフリンクスとペア・メルテザッカーが退団し、DFBポカールでは1回戦で3部リーグ1.FCハイデンハイムに1-2で敗退[34]。ブンデスリーガではシーズン前半は優勝争いに加わったが[35]、ウィンターブレイク後のシーズン後半は17試合で勝ち点13を獲得するに留まり最終的に9位でシーズンを終えた[36]

2012-13シーズンは、シーズン開幕前にピサロ、ナウド、ボロウスキ、マリンといった主力選手が退団すると、1999年からゼネラルマネージャーを務めていたクラウス・アロフス2012年11月に退団した[37]。ブンデスリーガでは下位に低迷すると2013年5月15日にシャーフ監督は退任[38][39]、最終的に14位でシーズンを終えた。

2013-14シーズンは、ロビン・ドゥットが監督に就任。DFBポカールでは1回戦で3部リーグの1.FCザールブリュッケンに1-3で敗退[40]、ブンデスリーガでは12位でシーズンを終えた[41]

2014-15シーズンは、開幕から不振に陥り9試合消化の時点で4分け5敗となり、10月25日にドゥット監督が責任を問われ解任された[42]。後任にはU23監督のヴィクトル・ スクリプニクが就任し、最終的には1部残留を果たした。

2015-16シーズンも、終始残留争いに巻き込まれたが最終節アイントラハト・フランクフルト戦で勝利し残留を確定させた。

2016-17シーズンはDFBポカール1回戦で3部のシュポルトフロインデ・ロッテに1-2で敗退、リーグ戦開幕後もバイエルン・ミュンヘンに0-6で大敗するなど公式戦4連敗を喫し、9月18日スクリプニク監督は解任された。後任はU23からアレクサンダー・ヌーリが監督に就任し、途中で11戦無敗を記録するなど最終的には8位でリーグ戦を終えた。

2017-18シーズンはまたもや開幕から10試合未勝利が続くなど低迷し、10月30日ヌーリ監督が解任された。暫定監督としてヴェルダー・ブレーメンⅡから、スクリプニク体制で2年間アシスタントコーチも務めたフロリアン・コーフェルトが昇格して就任し、年内までの指揮を執ることが発表された。12月には自動降格圏内を脱出したため正式に監督に就任。更にシーズン終了後にはケルンから大迫勇也を獲得した。

2018-19シーズンは直近9年間で最多の勝ち点53を積み上げ、最終節まで欧州カップ戦出場を争うなどEL出場圏内の7位まであと一歩の8位でリーグ戦を終えた。シーズン後にはコーフェルトとの契約を2023年まで延長した。

2019-20シーズンは夏の移籍期間で攻撃陣の柱マックス・クルーゼフェネルバフチェSKへ移籍し、代わりにニクラス・フュルクルクレオナルド・ビッテンコートなどが加入した。昨シーズンからの飛躍が期待されたが、開幕すると守備陣に怪我人が手始め8月末にミヒャエル・ラングをレンタルで緊急補強。9月の国際Aマッチデー期間中には早くも10人目の負傷離脱者が出るなど止まらず、その影響もあってか5節から17節までわすが1勝に留まるなど低迷した。33節終了時点で自力残留が消滅し自動降格圏の17位で40年振りの2部降格が現実味を帯びたが、最終節1.FCケルン戦に6-1で勝利しフォルトゥナ・デュッセルドルフが敗れたため辛うじて16位に浮上し入れ替え戦へ進んだ。1.FCハイデンハイムとの入れ替え戦は2戦合計2-2であったがアウェーゴール差により残留が決定した。

2020年代

2019-20シーズンを苦しみながらブンデスリーガ残留を果たし、2020-21シーズンも不調ながら残り10試合の時点で降格圏に9ポイント差の12位に健闘。しかしここから勝ち点1しか積み上げれない連敗地獄に陥ってしまう。最終節を前にフロリアン・コーフェルト監督を解任しトーマス・シャーフを電撃復帰させる荒療治に打って出たものの、最終戦も敗れ41年振りの2部降格が決定した[43]

タイトル

国内タイトル

国際タイトル

過去の成績

出典[44]
シーズンリーグ戦DFBポカール
ディビジョン順位
1963-64ブンデスリーガ1部301081253622810位1回戦敗退
1964-6530151145429411位1回戦敗退
1965-6634213107640454位準々決勝敗退
1966-67341091549562916位1回戦敗退
1967-683418886851442位1回戦敗退
1968-6934146145959349位準々決勝敗退
1969-703410111338473111位ベスト16
1970-713411111241403310位1回戦敗退
1971-72341191463583111位準決勝敗退
1972-73341271550523111位準決勝敗退
1973-74349131248563111位1回戦敗退
1974-7534971845692515位準々決勝敗退
1975-76341181544553013位1回戦敗退
1976-77341371451593311位ベスト16
1977-78341351648573115位準決勝敗退
1978-793410111348603111位2回戦敗退
1979-80341132052932517位2回戦敗退
1980-81ブンデスリーガ2部北部4230849733681位ベスト16
1981-82ブンデスリーガ1部3417896152425位準々決勝敗退
1982-833423657638522位2回戦敗退
1983-843419787946455位ベスト16
1984-8534181068751462位準々決勝敗退
1985-863420958341492位ベスト16
1986-8734176116554405位1回戦敗退
1987-883422846122521位準決勝敗退
1988-893418885532443位準優勝
1989-90341014104941347位準優勝
1990-9134141464629423位優勝
1991-92381116114445389位準決勝敗退
1992-9334191056330481位準々決勝敗退
1993-94341310115144368位優勝
1994-953420867039482位1回戦敗退
1995-96341014103942449位ベスト16
1996-9734146145352488位ベスト16
1997-9834148124347507位2回戦敗退
1998-99341081641473813位優勝
1999-0034138136552479位準優勝
2000-0134158115348537位2回戦敗退
2001-0234175125443566位2回戦敗退
2002-0334164145150526位準決勝敗退
2003-043422847938741位優勝
2004-0534185116837593位準決勝敗退
2005-063421767937702位準々決勝敗退
2006-073420687640663位1回戦敗退
2007-083420687545662位ベスト16
2008-09341291364504510位優勝
2009-1034171077140613位準優勝
2010-113410111347614113位2回戦敗退
2011-1234119144958429位1回戦敗退
2012-13348101650663414位1回戦敗退
2013-14341091542663912位1回戦敗退
2014-153411101350654310位ベスト16
2015-16341081650653813位準決勝敗退
2016-1734136156164458位1回戦敗退
2017-183410121237404211位準々決勝敗退
2018-1934141195849538位準決勝敗退
2019-2034871942693116位準々決勝敗退
2020-21347101736573117位準決勝敗退
2021-22ブンデスリーガ2部3418976543632位1回戦敗退
2022-23ブンデスリーガ1部341061851643613位2回戦敗退
2023-2434

現所属メンバー

2024年2月1日現在

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No.Pos. 選手名
1GK イジー・パヴレンカ
2MF オリヴィエ・デマン
3DF アントニー・ユング ( )
4DF ニクラス・シュタルク (第4主将)
5DF アモス・ピーパー
6MF イェンス・ステーイ
7FW マーヴィン・ドゥクシュ
8DF ミッチェル・ヴァイザー ( )
9FW ダヴィド・コフナツキ
10MF レオナルド・ビッテンコート ( )
13DF ミロシュ・ヴェリコヴィッチ ( )(副主将)
14MF センヌ・リネン
17FW ユスティン・エンジンマー ( )
No.Pos. 選手名
18MF ナビ・ケイタ
19 ラファエル・サントス・ボレ
20MF ロマーノ・シュミット
21FW イサク・ハンセン=アーロン
22DF フリアン・マラティーニ ( )
27DF フェリックス・アグ ( )
28MF スケリー・アルベロ ( )
29FW ニック・ヴォルテマーデ
30GK ミヒャエル・ツェッテラー
32DF マルコ・フリードル
35MF レオン・オピッツ
36DF クリスティアン・グロース
38GK ドゥドゥ ( )

※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。

監督
  • オーレ・ヴェルナー

歴代監督

出典[45]

歴代所属選手

GK

DF


MF

FW

その他のスポーツ

ヴェルダー・ブレーメンII

サッカー部門の23歳以下の選手を対象としたリザーブチームは1899年4月2日に創設された[47]。これまでドイツ・アマチュア選手権英語版で3回優勝した経験があり、2014年の時点ではレギオナルリーガ北部に所属している[48]。また、ブレーメンポカール英語版では20回の優勝経験があり最多優勝記録となっているが[49]2008年以降は大会から除外されている[48][49]

  • ドイツ・アマチュア選手権 優勝: 3回
1966, 1985, 1991
1982, 1984
  • ブレーメンリーガ 優勝: 5回
1957, 1962, 1967, 1968, 1976
  • ブレーメンポカール 優勝: 20回
1969, 1971, 1976, 1982, 1983, 1987, 1989, 1990, 1992, 1993, 1994, 1995, 1997, 1998, 1999, 2000, 2001, 2002, 2004, 2007

ヴェルダー・ブレーメンIII

サッカー部門の21歳以下の選手を対象としたリザーブチームはブレーメンリーガで3回の優勝経験があり、2014年の時点で同リーグに所属している[50]

  • ブレーメンリーガ 優勝: 3回
2010, 2011, 2013
  • ブレーメン室内選手権 優勝: 1回
2010
  • プレスポカール 優勝: 1回
2010

女子サッカー

1970年代のわずかな期間を除いてクラブは競技スペースの欠如を理由に女子サッカー部門の設置することはなかったが、2007年に新たに創設された[51]。女子のトップチームは2014年の時点で女子サッカー・2. ブンデスリーガ英語版に所属している。

  • 北ドイツ選手権 優勝: 1回
2009
  • ブレーメン選手権 優勝: 4回
2008, 2009, 2010, 2011
  • ブレーメンポカール 優勝: 3回
2008, 2009, 2010

ハンドボール

女子部門と男子部門があり、2014年の時点で女子のトップチームは3. リーガドイツ語版[52]、女子のリザーブチームはオーバーリーガに所属している[53]。一方、男子のトップチームとリザーブチームは2014年の時点で共にブレーメンリーガに所属している[54][55]

卓球

男子部門と女子部門があり、男子のトップチームは2012-13シーズンの卓球ブンデスリーガで優勝した実績を持つ[56]。2019年現在、以下の選手が所属している。かつては日本の岸川聖也なども所属していた。

脚注

外部リンク