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掎鹿寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
掎鹿寺
所在地兵庫県加東市掎鹿谷692番地
位置北緯34度54分55.8秒 東経135度3分42.4秒 / 北緯34.915500度 東経135.061778度 / 34.915500; 135.061778 東経135度3分42.4秒 / 北緯34.915500度 東経135.061778度 / 34.915500; 135.061778
山号白鹿山
本尊薬師如来
創建年549年
開基伝、聖徳太子
札所等播磨西国三十三箇所第22番札所 加東四国八十八カ所霊場22番
法人番号1140005016753 ウィキデータを編集
掎鹿寺の位置(兵庫県内)
掎鹿寺
掎鹿寺
掎鹿寺 (兵庫県)
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掎鹿寺(はしかじ)は兵庫県加東市にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は白鹿山(はくろくさん)。本尊は薬師如来聖徳太子の開基と伝わる[1]

歴史

播磨鑑によると、推古天皇2年(549年)に聖徳太子が勝鬘経を諸国で講じた時、当地にも立ち寄った。たまたま白鹿[2]が撲殺されそうになっているのを見て、これを救済しようと思って薬師如来に祈願したところ、すぐに白鹿は立ち上がり大いに喜んで去った。太子は霊験の速やかな事に感激し、薬師如来を彫ってこの地に安置した[3]

開基当時は白鹿山の山裾[4]に層塔の建つ巨大な古代寺院があったと推定されている[5]

神亀2年(725年行基菩薩が訪れ堂を構え、薬師如来像を今の山中に移し、更に十一面観世音菩薩像を刻んで安置した。[6]

応永32年(1426年赤松満祐の嫡男、教康が金堂の壊廃を憂いて改修し、永享7年(1435年)多宝塔が落慶し、同11年(1439年)3月に堂宇が落成した。慶安元年(1648年徳川家光の御朱印地、寺領18石となり、寛文5年(1665年)に観音堂が落慶し、同年に興された播磨西国三十三箇所霊場の22番札所となった[7]

古義真言宗本末帳によると、「高野山宝城院末」として「御朱印18石寺中分配、加東郡白鹿山掎鹿寺寺中20宇」とあり、塔頭にもそれぞれ「大乗院末寺6宇」「南蔵院末寺8宇」とあって、計34の堂宇があった[8]

明治神仏分離令によって天神村一宮牛頭天王社(現、天神一之宮神社)と別当寺実相坊[9]、黒谷村若宮八幡宮(現、黒谷若宮八幡宮)と別当寺岩之坊[9]、常田村住吉神社(現、秋津住吉神社)と別当寺成就院[10]が分離し、掎鹿寺塔頭末寺の各別当寺が廃寺となった。

明治13年(1880年)に火災により多宝塔、鐘楼堂と塔頭の大乗院、南蔵院を除き諸堂がことごとく焼失した。焼失を免れた鐘楼堂の鐘は太平洋戦争で供出し、鐘楼堂も長年の風雨によって傷み、平成になって解体された。また同じく焼失を免れた多宝塔も、解体修理の費用を捻出できず、昭和39年(1964年狭山不動寺に売却された[11]

現在は本堂と塔頭の大乗院、南蔵院が残っている。

伽藍

  • 本堂
  • 大乗院
  • 南蔵院

札所

  • 播磨西国三十三箇所第22番札所
  • 加東四国八十八ヶ所霊場22番札所

御詠歌「もみじせし はくろくさんの くもはれて それとあらわに みゆるはしかじ

脚注

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