岩手県交通本社(盛岡市) | |
種類 | 株式会社 |
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略称 | 県交通 |
本社所在地 | 日本 〒020-0034 岩手県盛岡市盛岡駅前通3番55号[1] 北緯39度42分5.22秒 東経141度8分20.15秒 / 北緯39.7014500度 東経141.1389306度 / 39.7014500; 141.1389306 東経141度8分20.15秒 / 北緯39.7014500度 東経141.1389306度 / 39.7014500; 141.1389306 |
設立 | 1976年6月1日[1] |
業種 | 陸運業 |
法人番号 | 7400001002221 |
事業内容 | 一般乗合旅客自動車運送事業 一般貸切旅客自動車運送事業 旅行業 ほか[1] |
代表者 | 代表取締役会長兼社長 本田一彦[1] |
資本金 | 9,600万円[1] |
売上高 | 36億0700万円(2022年3月期) |
従業員数 | 620名(2022年1月) |
主要株主 | 国際東北株式会社 |
主要子会社 | 岩手県交通整備株式会社[1] 岩手県交通サービス株式会社[1] |
外部リンク | 国際東北グループ 岩手県交通株式会社 |
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岩手県交通株式会社(いわてけんこうつう)は、岩手県盛岡市に本社を置くバス事業者[1]。県内の盛岡市以南のほとんどの地域で路線バスを運行するとともに、県内から東京方面などへの高速バス、花巻空港への空港連絡バスを運行している[1]。また貸切バス事業も行う[1]。岩手県北自動車(県北バス)とともに岩手県を代表するバス事業者である。岩手県バス協会会員[2]。元国際興業グループ。
略称は「県交通」(けんこうつう)。「岩交」(いわこう)を用いていた時期もあるが、現在ではあまり使われない。
前身は戦時統合により発足した岩手中央バス(中央バス)・花巻バス・岩手県南バス(県南バス)の3社である。1960年代以降のモータリゼーションの波を受け、利用者減少により経営が悪化、3社中2社が会社更生法の適用を申請し、賃金遅配によるストライキが頻発した。
1976年の3社合併後も合理化は進まなかったが、1986年に国際興業の傘下に入ってからは業績も上向きとなり、高速バス参入も奏功して単年度黒字を計上するまでになった。近年では盛岡市近郊の輸送改善にも積極的である。
本節では、単に「県」と表記した場合は岩手県を指すものとする。
岩手県に初めてバスが走ったのは、1912年に盛岡と宮古を結んだ盛宮自動車である[3]。岩手県交通の路線として現在運行されているものとしては、1918年に盛岡市内の路線で営業を開始した盛岡自動車とされている。この後、小規模な事業者が次々と設立され、1928年には盛岡のバス事業者だけで22社に上っている。
第二次世界大戦に入るとガソリン規制が行われたため、これらの中小事業者の経営を圧迫した。さらに1942年には陸上交通統制の通牒が出され、岩手県は大きく4ブロックに分けられることになった。太平洋沿岸北部が岩手県北自動車(県北バス)、太平洋沿岸南部は岩手東部乗合自動車、江刺以南の県南部は岩手県南自動車、県中心部の盛岡近辺は岩手中央自動車に統合されることになった。なお、花巻電鉄は社名のとおり鉄道事業を行っていたため、バス事業の統合からは除外されている。
県南バスは1949年に大船渡に拠点を設置したのを皮切りにエリアを拡大し、1950年には貸切バス事業免許(貸切免許)を取得した。一方、岩手東部乗合自動車は1948年のアイオン台風によって国鉄山田線が長期にわたって不通になった際に代行バス輸送を担当、1951年まで続いた。1951年に岩手東部乗合自動車は東部バスに社名変更したが、この頃になると県南バスとのエリア重複による不合理が目立ってきたため、1957年に東部バスは県南バスの傘下に入ることになり、1966年には正式に合併した。
岩手中央自動車は戦後間もない1948年に花巻地区を花巻バスとして分離した。その後は順次営業エリアを拡大するが、急激に車両数を増加させたことで運行コストの増大を招き、1960年以降は赤字決算となっている。分離した花巻バスは1958年までに30路線を開設するなど、やはり営業エリアを順次拡大していった。
1950年代は長距離バス路線展開が各社とも目立った。県南バスが1951年10月に一関と気仙沼を結ぶ路線を開設したのを皮切りに、1953年には中央バスと東部バスが相互乗り入れの形で盛岡と釜石を結ぶ路線を開設した。1955年に運行開始された盛岡と大船渡を結ぶ路線では中央バス・東部バス・県南バスの3社競願となり、最終的に県南バスが運行することとなった。
しかしながら、この時期はまだ道路事情はさほど良くなかったため、東北本線と並行する路線では鉄道の電化・複線化には対抗力を持たせることができず、運行休止や区間短縮を余儀なくされた。一方で、その他の路線では鉄道側の輸送改善があまり進まなかったため、他の地域と比較すれば残存路線は多い方であった[4]。
1960年代に入ると、過疎化とモータリゼーションの進行により、バス利用者数は減少傾向となっていった[5]。事業者側ではこれに対応して合理化と人員削減による対策を進めようとしたが、これは従業員側の反発を招いた。さらに賃金遅配という事態になったことから、労使関係は悪化してゆくことになる。
1965年、中央バスでは盛岡市内路線で県内初となるワンマンバス運行を開始した。これに反発した労働組合が、4月の春季労使交渉(春闘)に続いて5月にもストライキを実行。7月には夏の賞与をめぐって無期限ストライキに突入し、収束するまでに50日を要した。盛岡市の商店街ではストライキの中止を申し入れたが解決できず、「バススト対策協議会」として200台の自家用車を使用して全商店街を無料で巡回するサービスを開始した。地元の中央バスに対する不信感は強まり、飲食店の一部は店頭に「中央バス社員お断り」と貼り紙を出すほどであった[6]。発車直前の「ポカ休」と呼ばれる無断欠勤、それに伴う間引き運行も常態化しており、早池峰山登山バスの最終便を運休させたことで、登山客が下山できなくなってしまうケースもあった[6]。
翌1966年には県南バスが一関地区の路線でワンマン化を開始したが、労働組合では事前協議なしの運行であるとしてストライキに突入した。同年9月には水沢地区でワンマン化を行なったことで労働組合側は闘争体制を強めることになり、指名ストを通告したが、これに対する会社側はロックアウトを宣言した上に、調整に入ろうとした地方労働委員会(地労委)の斡旋を拒否した。12月に地労委が調停に入ったことで収束したが、この間はストライキや間引き運行が多発した。闘争の拠点となった江刺市では市議会で「バスの正常運行を求める決議」まで行われ[7]、地域の農業協同組合などでは自衛手段としてバスを自ら購入した[7]。
ストライキや間引き運行が続き、沿線の住民からのバス事業者に対する印象は悪化することになった。沿線住民はバスがなくても通勤通学できる手段を用意し、沿線企業では自家用バスによる送迎を行うなど自衛手段に努めた[5][8]。この結果、バス利用者の更なる減少を招くことになる。
1968年、中央バスは経営再建のため、業績の良い貸切部門を分社化して岩手観光バスを設立したが、これは東北地方では初の貸切専業バス事業者となった。1970年には国際興業の傘下に入り、国際興業は7割の株式を引き受けた上で負債の肩代わりを行ったため中央バスは倒産を免れた[5]。翌年には同じ資本系列にあった花巻電鉄と合併した[9]。その後は比較的良好な経営状態で推移した[5] が、余裕のある状態ではなかった。
また、花巻バスでは1969年に貸切バス事業を花巻観光バスに分社化した上、1970年に県北バスからの財政支援を受けることで経営建て直しを図った[10]。しかし、沿線に観光資源がないこともあって経営は好転せず、賃金未払いによるストライキや間引き運行が日常化する事態となった[11]。1974年には乗務員の無断欠勤が続出するため欠便申請まで提出する事態になり、公共交通機関としての信用は失墜した[10]。後述するように1974年には会社更生法の適用を申請することになるが、その時点で花巻バスの累積赤字は1億3,600万円、未払い賃金の合計金額は8,700万円に上っていた[10]。
なお、この時期に県内の同業他社の一つである県北バスでは、観光路線が多かったこともあり比較的経営は順調で、労使関係も良好であった。ワンマン運転についても着手こそ1974年と県内他社と比較すると遅い時期ではあったが、その後2年で8割以上の路線がワンマン化されていた[8]。
県北バスを除いた各社の経営が行き詰まる中、合併によって過当競争を解消し、合理化も進めるという意見が出た[12]。1969年に中央バス・花巻バス・花巻電鉄の合併案が出たが、これは労働条件や資産評価の問題から実現しなかった[12]。
1971年には私鉄総連から公的一元化案が提示された。これは、県内4社を一元化した上で県が経営に直接関わることで、公共的性格の強いバス事業に対して公営で責任を持つという考え方によるもので[12]、1973年には県バス対策協議会が発足し、バス事業者の労使や県からも協議会の委員として参加することになった。しかし、経営状態が良好な県北バスは、当初からこの協議会への参加を拒否していた[13]。
さらに、一元化の範囲についての意見も分かれ、合併の意思のある会社のみという県南バス・花巻バスの主張に対し、中央バスは観光資源をエリア内に有する県北バスも含めた全県一元化を主張する[13]など、意思統一が図れなかった。その上、県は1974年には一転して公的一元化に反対の意思を表明した[12]。各社共に労使関係が悪化し、ストライキの頻発などで日常の運行が正常に行われていないこと、それに対して誠意のない経営陣の対応という状況下で、県が引き受けることに対して警戒したものとみられている[12][13]。
このような経緯により、公的一元化構想は挫折したものの、民間ベースでの一元化構想へ議論が進みつつあった1974年7月、県南バスが会社更生法の適用を申請した。同年10月には花巻バスも更生法適用を申請している。しかし、従業員側は更生法適用申請の撤回を求めてストライキを通告[6]、さらに県南バスの経営陣が盛岡地方裁判所(盛岡地裁)の定めた管財人に難色を示して自力再建を希望し、一方で一元化による再建にも着手しているなど、会社側に誠意が見られないとして、盛岡地裁では1974年10月に県南バスの申請を棄却した[14]。県南バスではこれを受けて仙台高等裁判所(仙台高裁)に即時抗告、管財人は競争関係にあるものを避けるとともに、一元化は負債の整理をした上で実施するのが望ましいと主張した。仙台高裁はこの主張を認め、12月に盛岡地裁への差し戻しを行なっている。
中央バスでは一元化を見据えて、1974年11月30日に新会社として「岩手興業」を設立し、岩手中央バスの事業を移管した翌日に新会社として「岩手中央バス」を設立し再度事業を移管、中央バスとしては負債のない状態にした。この時点で、岩手中央バスは国際興業からの役員出向は残ったものの、国際興業傘下からは外れている。
結局、従来の再建策はすでに限界であることから、最終的に県南バス・中央バス・花巻バスの3社が新会社を設立した上で、3社の事業を新会社に譲渡する方針がまとまった。最後の手段であることから従業員側も理解を示して目立った闘争を抑えることになり、県も一元化に対しては推進する方向性を示した。1976年5月に新会社設立が認可されたことに伴い、県南バスと花巻バスは更生法適用の申請を取り下げた[15]。
こうして、岩手県交通と命名された新会社は、負債ゼロの状態から再出発することになった。
1976年6月1日、岩手県交通(県交通)としての運行が開始された。しかし、新会社としてのバス車体デザインが決まったのは翌1977年で、それまでに導入した車両は各社のカラーリングのままで導入され、社名のみが「岩手県交通」と表記されていた。さらに、社内も3社の組織が残った状態で、営業所の体制もそのままであった。北上駅前を例にすると、旧県南バスの車両は旧県南バスの車庫に入庫し、旧花巻バスの車両は旧花巻バスが所有していた折り返し場で待機するなど、岩手県民や利用者から見れば何も変わっていない状態であった。そもそも赤字の会社が合併しても黒字になることはなく、施設の共用など無駄を省くことで初めて合併によるメリットが表に出てくるわけだが、この状態では収支状況の改善は望めなかった。
実際に、営業開始してから1か月後の中元賞与の支給時にも資金繰りに苦しむ状態となり、年末賞与の時期には6億円もの負債を抱える状態になっていた。バス事業はバスの台数分だけ乗務員が必要となる労働集約型産業であり、結果として人件費率も高くなる。バス事業での人件費率は通常70%前後であるが、この時期の県交通では総支出における人件費率が98%[12][16]にも達しており、日本のバス業界では最悪の数字であった[16]。極端に高い人件費率は、合理化が進んでいないことを如実に示していた。
経営体質の強化を図るべく、沿線自治体に対して資本参加を打診したが、すでに自治体から8億円もの補助金を支出している状態では、どの自治体にもそのような原資はなかった[16]。また合併後の経営実態が甘く、わずか半年で負債が6億円にも上ったという現実から、合併前と経営体質が変わっていないと判断されたため、県は出資を拒否している[16]。その上、未払い賃金がかさみ運賃を値上げする一方で、申請される補助金の額が大幅に上げられて申請されるなど、その経営姿勢にも疑問の声が上がり、銀行団からも融資を拒否されることになった[16]。中央バスには国際興業から役員が送り込まれていたが、1977年には国際興業はすべての役員を引き上げていた[17]。資金調達の手段をすべて失った県交通の経営は、発足後わずか1年強で事実上破綻してしまったのである[12]。
1978年2月には運輸省の特別監査が行なわれ、ワンマン化の状況やバス1台あたりの従業員数を調査したが、ここで改めて合理化の遅れが問題となった。この結果を受けて運輸省では経営改善勧告書により、厳しい行政指導を行なった[16]。これを受けて経営陣の刷新を行うことになり、県では県交通の要請を受ける形で、県福祉部長だった松尾景康を送り込んだ[17]。
1978年6月に社長に就任した松尾は、大規模な社内機構の改革に取り組んだ。1978年度決算は単年度黒字となったが、資産の処分などによる部分が大きく、安定的なものではなかった。このため合理化のためのワンマン化と不採算路線の廃止を進める方針となったが、従業員側は合理化の前に賃上げを要求し[16]、1979年からはしばらく行われていなかったストライキが再発するようになった[12]。1980年の春闘ではストライキが頻発し、ようやく交渉妥結したのが同年10月になるなど、労使関係は再び悪化していった。それは日常業務にも反映して乗務員の接客態度や車両の整備にも影響し、県民や利用者の県交通に対する不信感は増大することになった。
1982年6月23日には東北新幹線が開業することになり、新幹線連絡を目的とした特急バス運行計画が県外の各社も含めて進められていたが、同年の県交通では経営陣から示された合理化案に350人の希望退職が含まれていることから従業員側が反発、労使紛争の長期化により東北新幹線開業前日の6月22日までストライキが断続的に続く有様[18] で、労使紛争の状況からはとても高速バス事業に着手することは不可能であった。
なお同時期の県北バスは、経営努力に加えて「106急行バス」や高速バス路線の成功により、増収分からの内部補填が可能になったため国庫からの補助金を返上するなど、さらに安定した経営状態になっており、県交通とは対照的であった[注釈 1]
労使の対立の中で、それでも合理化は進み、1985年には県交通としては初の高速バスとして「ヨーデル号」の運行に参入しているが、「ヨーデル号」は続行便も多数設定されるほど好調となった。また東北新幹線開業によって貸切バス需要も増大し、これらは県交通の収支改善にも寄与した。
1985年度には通常の状態で収支均衡となったことを機に、松尾は社長から退任することになり、1986年6月には当時の国際興業社長の小佐野政邦が社長に就任、同時に国際興業の傘下に入ることになった。
国際興業傘下に入ったことで、それまで苦慮していた資金調達が容易になった。同年には過疎路線の低コストでの維持を行なうべく早池峰バスを設立しているほか、高速バス「とわだこ号」にも参入している。1987年には高速バス「あすなろ号」にも参入、1988年7月21日からは同社初の夜行高速バスとして「らくちん号」の運行を開始した。その他にもいくつかの高速バス運行に参入し、すべてが好調だったわけではないが、経営状態の改善に寄与した[21]。一方で、路線バスについても過疎路線を早池峰バスに置き換える一方、都市部では団地への乗り入れや車両の改善を進めた。
これらの経営改善策が功を奏し、1993年度決算では通常ベースでの単年度黒字を計上[17]、黒字体質の事業者への変貌を遂げた。また、労使交渉が対話重視で進められた[18] こともあり、労使関係も徐々に協調路線へと改善されることになった。
1999年2月1日、盛岡市が全国で4番目のオムニバスタウンに指定された[22][23]。これを受け、1999年度に盛岡都心循環バス「でんでんむし」の試験運行を実施した[24]。当初は盛岡市コミュニティバスとしての運行であり[24]、市の補助を受け専用車両として中型ワンステップ車(いすゞ・ジャーニーK)を購入して試験運行を開始した[24]。翌2000年4月1日からは本格運行に移行した。
またオムニバスタウン指定により県バス協会ではゾーンバス方式の導入を決定。市はこれを受け、2000年度よりゾーンバス運行計画を開始し、バスターミナルを整備した[24]。翌2001年4月より、松園ゾーンバス試験運行を開始した[24]。利用者の意見に応じる形で1年間に数度のダイヤ改定が行われた結果、年間利用者数が4%増加、運賃を下げたにもかかわらず増収となった[25]。ゾーンバスは他の地区へも拡大され、2002年10月に都南ゾーンバス、翌2003年10月には青山ゾーンバスの試験運行をそれぞれ開始[24]。これらの2路線では狭隘区間を運行するため、県内初の小型ノンステップバス(三菱ふそう・エアロミディME)を導入した[24]。
オムニバスタウン指定に伴い施策が始まった2000年頃より、路線バスの塗色を従来の青と銀色ベースのオリジナルカラーから、国際興業カラーに順次変更した。
2004年4月からは、花巻以南の6営業所について、全路線の運転・車両管理業務を早池峰バスに委託することになった[26]。これはコストダウンによる路線維持を図るための方策で、これに伴い全社員の基本給を平均9.8%カット、さらに該当地区の所属員についてはその数値から1%カットの上で早池峰バスに出向とすることで、路線維持と雇用確保を両立させた[26]。これにより、2004年度の路線廃止は行なわれないことになった[26]。その後2007年3月一杯で業務委託が解除され、1%カットについては解消された。
2008年10月には、直轄で行っていた車両整備事業及びそれに関する資産・人員の一切をヤマトオートワークス岩手(ヤマトホールディングス傘下)へ譲渡し、車両整備が完全にアウトソーシング化された。一部門ほぼ全員の転籍を伴う大規模な組織改編である。これにより県交通は人件費及び所有車両の管理・維持費の大幅な削減を見込み、ヤマト側には広大な岩手県内における自社営業車両の整備拠点の大幅な増加や業容拡大等のメリットが生まれることとなった。
旧国際興業グループの岩手県交通・秋北バス・十和田観光電鉄および各社の子会社は、地元資本の国際興業東北株式会社に売却され国際興業傘下から離脱[27][注釈 2]、2013年に県交通・秋北バス・十和田観光電鉄は国際東北グループを構築した。
2021年4月1日、盛岡中心市街地循環バス「でんでんむし」では初となる運賃改定を実施[28]。運行開始から運賃100円均一とし、2回の消費税増税後も据え置いてきたが、新型コロナウイルス感染症の影響による利用者減少で、路線維持のため値上げを余儀なくされた[28]。改定後の運賃は、大人120円(小人・障害者60円)、1日フリー券は大人350円(小人180円)[28]。高齢者用優待乗車券「まちなか・おでかけパス」では従来どおり100円で乗車可能[28]。
※ ◎は地域連携ICカード「Iwate Green Pass」導入済又はかつて導入した営業所。△は導入予定。
1989年(平成元年)12月19日運行開始[59]。当初は国際興業との共同運行を行っていた[59]が、後に国際興業は運行を撤退し、予約・発券業務のみ継続している(ただし、多客期に限り、国際興業観光バスが増発対応している)。よって、現在は岩手県交通の単独運行。全席指定制。2023年9月15日より大槌駅まで延伸。
年度 | 運行日数 | 運行便数 | 年間輸送人員 | 1日平均人員 | 1便平均人員 |
2002(平成14)年度 | 365 | 1,081 | 25,659 | 70.3 | 23.7 |
2003(平成15)年度 | 366 | 1,067 | 24,514 | 67.0 | 23.0 |
2004(平成16)年度 | 365 | 1,077 | 25,843 | 70.8 | 24.0 |
2005(平成17)年度 | 365 | 1,110 | 26,118 | 71.6 | 23.5 |
2006(平成18)年度 | 365 | 1,125 | 26,226 | 71.9 | 23.3 |
2007(平成19)年度 | 366 | 947 | 21,417 | 58.5 | 22.6 |
国際興業、JRバス東北と共同運行。
年度 | 運行日数 | 運行便数 | 年間輸送人員 | 1日平均人員 | 1便平均人員 |
2002(平成14)年度 | 364 | 727 | 12,129 | 33.3 | 16.7 |
2003(平成15)年度 | 366 | 732 | 12,146 | 33.2 | 16.6 |
2004(平成16)年度 | 365 | 729 | 11,828 | 32.4 | 16.2 |
2005(平成17)年度 | 365 | 729 | 11,931 | 32.7 | 16.4 |
2006(平成18)年度 | 365 | 730 | 12,018 | 32.9 | 16.5 |
2007(平成19)年度 | 366 | 739 | 11,735 | 32.1 | 15.9 |
運行開始当初は国際興業との共同運行を行っていたが、後に国際興業は運行を撤退し、現在は予約・発券業務のみ継続している。よって、現在は岩手県交通の単独運行である。2018年9月24日より週末のみ運行。
全席指定制。車両・乗務員は北上営業所が担当。車両は独立3列シートのハイデッカー車両(いすゞ・ガーラ)が使用されるが、繁忙期には増便として北上営業所所属の貸切車両が充当されることもある。
利用状況
年度 | 運行日数 | 運行便数 | 年間輸送人員 | 1日平均人員 | 1便平均人員 |
2002(平成14)年度 | 365 | 894 | 18,805 | 51.5 | 21.0 |
2003(平成15)年度 | 366 | 833 | 18,434 | 50.4 | 22.1 |
2004(平成16)年度 | 365 | 835 | 18,131 | 49.7 | 21.7 |
2005(平成17)年度 | 365 | 838 | 18,083 | 49.5 | 21.6 |
2006(平成18)年度 | 365 | 845 | 18,322 | 50.2 | 21.7 |
2007(平成19)年度 | 366 | 859 | 17,715 | 48.4 | 20.6 |
岩手県下閉伊郡山田町から上閉伊郡大槌町・花巻市・遠野市・釜石市を経由して東京都豊島区との間を結ぶ夜行高速バス(系統名:大槌 - 池袋線)。1日1往復。2017年4月4日出発便より週末等のみ運行。釜石営業所担当(車両・乗務員共に)。国際興業(志村営業所担当)との共同運行。また、2016年7月11日より、運賃体系が変更し、カレンダー運賃となっている。
年度 | 運行日数 | 運行便数 | 年間輸送人員 | 1日平均人員 | 1便平均人員 |
2007(平成19)年度 | 342 | 732 | 10,838 | 31.7 | 14.8 |
ここでは遠野営業所の現行路線について記述する。
上記以外のその他の路線の詳細については各営業所の記事を参照
※なお、一部を除きバス停に接近表示装置が取り付けられている(バスロケーションシステム)。パソコン・携帯電話でも確認可。
深夜バス運賃は、一部路線を除いて倍額運賃ではなく割増運賃となる。なお、フリー乗車券は使用できない。2008年12月1日発車便より、一部の停留所において降車専用区間が設定された[82] 。また、2010年10月1日からは定期券適用路線・区間では、定期券提示の上、差額を現金か回数券、バスカードで支払う必要がなくなったと同時に、運賃の改定を行った[83] 。2021年4月にはすべての路線が長期運休となり、2024年3月31日をもって廃止となった[84]。
以下は2024年3月31日廃止
いずれも冬期限定運行。
夏季限定運行。
合併当初は、各社からの引き継ぎ車ではいすゞ自動車製の車両の他にも日野自動車製や三菱ふそう製もあったが、新車導入は国際興業グループ入り以前からいすゞ自動車製が中心で、大型路線車はいすゞ・BU04などであった。
1980年にいすゞ・K-CLM500(2台)、いすゞ・K-CLA500(14台)を導入して以来、大型路線車は原則として中古導入となっていた[89]。国際興業グループ入りした1986年以降は、車両は基本的には親会社の国際興業バスと同じいすゞ自動車製であり、中でも路線バス車両の大半は国際興業からの移籍車であった。日野製や三菱ふそう製の車両は経年により淘汰された。
中型・小型車を中心に自社発注車も多く存在する。この中にはゾーンバス導入時に県内初の小型ノンステップバスとして導入された三菱ふそう・エアロミディMEもある[24]。特徴的な車両としては、いすゞ・エルフ(5代目)をベースに開発され西日本車体工業製の「プレビス」車体を架装した小型低床車(マイクロバス)のジャーニーEがある。
電気バスには「Big Green」の愛称が付けられているが、「Big Green」は岩手県交通の登録商標である[90]。
2011年6月より、東京都交通局より東日本大震災の復興支援活動として、路線バス車両20台が無償譲渡された[91][92]。この無償譲渡により、県交通としても岩手県としても初となる大型ノンステップバスが登場した。これらの車両は、当初は都営バスの塗装のまま社名を書き換えるだけで使用していたが、のちに国際興業新カラーへ塗装変更された。無償譲渡された車両のうち、「でんでんむし」用の車両は「でんでんむし」カラーや「いわてデスティネーションキャンペーン」カラーに塗り替えている。
2011年以降は、首都圏の各事業者などからノンステップバスの移籍も開始された[注釈 6]。
整備部門をヤマト運輸と提携した上でヤマトオートワークス岩手として分離したため[29]、車両メーカーを統一する必然性が薄れた[93]こともあり、近年はいすゞ車以外の車種も移籍している。この中には岩手中央バス・岩手県南バス・花巻バスで導入実績がなかった日産ディーゼル(現・UDトラックス)車も含まれており、現在では国内4メーカーの車両を使用している。近年では、いすゞ・日野・三菱ふそうの導入がほとんどである。
上述の通り、大型路線車では新車の導入が長年途絶えていたが、2014年2月に34年ぶりとなる大型路線用の新車(いすゞ・エルガワンステップバス)が導入された[89]。
バスのカラーリングについては、県交通発足の翌年に制定された路線バス標準色は、車体上半分は白で下半分は銀色のベースに青のラインが入るものであったが、2000年にオムニバスタウンに対応した施策が開始された頃から、徐々に路線バス車両のカラーリングは国際興業バスと同様のものになり、以降は国際興業バス新カラーも登場した。2016年には岩手県交通路線バス標準色が再び登場したが、この車両は以前とは異なり全体を銀色ベースに青のラインが入るものとなっている[94]。2020年には国際興業バス新カラーと岩手県交通標準色を合わせた新塗色の車両が登場し現在に至る。
路線バス車両の方向幕については、現在の盛岡地区の車両は前面・側面・後部すべての方向幕を使用しているが[注釈 7]、花北・県南・沿岸地区の車両については前面・側面の方向幕のみを使用して、後部方向幕を使用していない車両もある。また、貸切格下げ車については前面方向幕と側面サボ[注釈 8] を使用している。かつて在籍していたモノコック車には後部方向幕を使用していなかった他、花北・県南・沿岸地区のバス車両はは合併前から側面方向幕を使用していたのに対して、盛岡地区の路線バス車両は1990年代前半まで岩手中央バスの流れで側面方向幕を使用せず、側面の行先表示は側面サボで表示していた[注釈 9]。ワンマン機器も、以前は岩手中央バス・花巻バス・岩手県南バスからの流れで、合併前の各社のエリアによって異なっていたが、現在は各地域とも統一されている。
貸切・高速車両については、ほぼ全車両が国際興業グループ観光バス色に統一されている。また、高速バス車両でも移籍車が存在するが、これらについてもいすゞ車以外の車種も転入してきている[注釈 10]。近年では、京浜急行バス、淡路交通、神奈川中央交通からの移籍車が多い。
ドライブレコーダーは、まず2012年度に205台のバス車両に設置し、残りの車両も2013年度中に設置予定となっている[95](岩手県北バスは2012年に全車設置済み)。2014年には夜行高速バス14台全車に衝突防止補助システムを装着した[96]。
このほか、ボンネットバス「弁慶号」(日野・BH15)が1台在籍していた(現在廃車)。
2014年11月17日からは盛岡ナンバー・平泉ナンバー(ご当地ナンバー)の導入に伴い、滝沢営業所・巣子車庫・松園営業所・都南営業所・矢巾営業所・紫波営業所への新車、他事業者からの譲受車、他営業所からの転入車は盛岡ナンバーで、胆江営業所・一関営業所・千厩バスターミナルへの新車、他事業者からの譲受車、他営業所からの転入車は平泉ナンバーでそれぞれ導入される。なお、雫石営業所・花北地区の各営業所・沿岸地区の各営業所への新車、他事業者からの譲受車、他営業所からの転入車は従来通り岩手ナンバーでの導入となる[89][97]。
保有車両数は、2022年4月30日現在、計443両(乗合車両412、貸切大型28、貸切小中型3)[98]。なお、会社概要(2021年7月現在)では473両[1]と記載されているが、その後盛岡地区や高速路線車を中心に減車が行われた。
2007年3月まで存在した「いわこう運輸」は直営の貨物輸送部門であり、関連企業ではない。
岩手県交通の営業所・車庫・バスターミナル | |
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盛岡広域圏 | |
花北地区 | |
県南地区 | |
沿岸地区 | |
県外 |
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廃止・閉所 |
直系 | |||||||
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ホテル・旅館 | |||||||
ゴルフ場 |
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関連人物 | |||||||
過去のグループ企業 | |||||||
グループのバス営業所 |
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Suica取扱事業者 | |
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鉄道 | |
バス | |
地域連携ICカード (バス・鉄道) | |
相互利用 | |
片利用 | |
新幹線乗車サービス |
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ビューカード | |
TypeIIカード | |
関連項目 | |
記号の凡例 ◇:カード発行事業者 ◆:カード発売事業者 *:地域連携ICカードは一部支店のみ発売 **「iGUCA」はカード発行事業者、「ハチカ」はカード発売事業者 ***:Suicaグリーン券使用不可▲:一部事業者は交通系ICカード全国相互利用サービス未対応 △:電子マネー除く ※:仙台エリア限定の相互利用 ▽:決済済証明のみ、SFではない。>:重複した場合の優先順位 |