ザ・ピーナッツ

日本の女性ボーカルグループ (1959-1975)

ザ・ピーナッツ (The Peanuts) は、日本双子の元女性歌手デュオ)、女優である。愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)生まれ[1]、同県名古屋市育ち[注釈 1]。略称「ピーナッツ」。

ザ・ピーナッツ
1966年10月
基本情報
別名ピーナッツ
出身地日本の旗 日本愛知県知多郡常滑町(現・常滑市
ジャンル和製ポップス
歌謡曲
(最初期には一部民謡も歌唱)
活動期間1959年2月11日 - 1975年4月5日
レーベルキングレコード
事務所渡辺プロダクション
旧メンバー伊藤エミハーモニー
伊藤ユミメロディー

発売したシングル、LPの累計売上は1000万枚以上に達する。

人物

略歴

生い立ち

愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)生まれ。ただしすぐに転居し、子供-学生時代は同県名古屋市で過ごす。

愛知県名古屋市立西陵商業高等学校(現・名古屋市立西陵高等学校)を2年生の時に中途退学後、主に名古屋市内にあるレストラン「ザンビ」の経営者谷村一、専属バンドで演奏していた大浦郁夫に歌の指導を得て「伊藤シスターズ」名義で歌っていたが、1958年に渡辺プロダクション社長の渡邊晋にスカウトされ上京[注釈 2]。同社長宅に下宿しつつ宮川泰に師事し、歌唱レッスンを受ける[注釈 3]

デビュー

1960年
アムステルダムにて(1966年10月)
ミッシェル・フリッカー演出によるテレビ番組『ザ・ピーナッツ・ショウ』(1964年12月31日放映)に出演するため二人は西ドイツへ渡航した。ミュンヘンにて。
アメリカのジャズトランペット奏者アル・ハート英語版と。1966年

1959年2月11日、「第2回 日劇コーラスパレード」で歌手デビュー[1]。4月、「可愛い花」でレコードデビュー[1]。事務所はデビューより引退まで16年間一貫して渡辺プロダクションに所属。同社の専属タレント第1号であった[2][5][1]レコード会社は各社の争奪戦となり、ビクターレコード[注釈 4]と契約寸前まで達したが逆転され1959年4月2日キングレコード契約した。

1959年6月17日から1970年3月31日までフジテレビ系の歌謡番組『ザ・ヒットパレード』のレギュラーに抜擢される。

その後1961年6月4日から1972年10月1日まで日本テレビ系の人気バラエティー番組『シャボン玉ホリデー』でメイン司会を務めた。

夜のヒットスタジオ』には1969年(昭和44年)1月13日に初出演(曲は「ガラスの城」)して以来、約6年間の間に40回に渡り出演。まだ「歌謡バラエティ」の色が強かった夜ヒットにおける常連歌手の一組であり、『シャボン玉ホリデー』での経験から当時の人気コーナー「歌謡ドラマ」にも率先して参加した。引退前最後の出演となった1975年(昭和50年)3月31日放送では番組史上初の「サヨナラ」企画が組まれ[注釈 5]ハナ肇植木等坂本九坂本スミ子伊東ゆかり中尾ミエ、こまどり姉妹、平尾昌晃ら歌手・タレント仲間が数多く駆けつけ「情熱の花」、「ローマの雨」、「心の窓にともし灯を」、「可愛い花」の計4曲を熱唱した[注釈 6]

日本国外でも活躍し、『エド・サリヴァン・ショー』(アメリカ)や『カテリーナ・バレンテ・ショー』(当時の西ドイツ。現・ドイツ)、『ダニー・ケイ・ショー』(アメリカ)[6]にも出演したことがある。

また、女優活動も行っており、映画などにも数作出演。中でも『モスラ』での「小美人」役は2人のキャラクター性を活かした役柄であった[5]東宝作品では、ゴジラシリーズやクレージー映画に出演したほか、主演映画も制作された[1]

和製ポップス[注釈 7]海外公演などによって世界に広めた功績は大きく、特に当時の東西両ドイツやイタリアでは、日本の歌手といえば即座に「ザ・ピーナッツ」と連想されるほどの活躍ぶりも高く評価された[7]

引退

1975年2月18日に当時東京都千代田区有楽町三信ビルヂングにあった渡辺プロダクション社屋[注釈 8]にて記者会見を開き、現役を引退することを表明した[注釈 9]

同年3月31日には番組開始時より数多く出演をした『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)にて引退記念特集「さよならピーナッツ」[注釈 10]が組まれ、続く4月5日にはNHKホールにおいて、高橋圭三司会で「さよなら公演」を興行[注釈 11]

この時、渡辺プロの主要タレントがほぼ総出で見届けていた。なお、このさよなら公演は3月から4月に掛けて大阪京都名古屋でも行われていた。同公演を最後に芸能界を引退[注釈 12]。以後はほぼ公の場には姿を現すことはなかった[注釈 13]

最終公演

引退後

姉の伊藤エミは1975年6月4日に同じ所属事務所であった沢田研二結婚[2]世田谷区中町ハナ肇宅の隣に居を構えていた。その後1男を出産するが、1987年1月離婚した。

ニッポン放送(JOLF)で、1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)にかけて、その名も『ザ・ピーナッツ』というタイトルで、伊藤姉妹がDJを務めていたラジオ番組の音源(放送日のデータは不明)が発見されたのをきっかけに、番組中で歌唱した曲(未発表曲10曲を含む)を集めてコンパクトディスク化したアルバムを、キングレコードが2008年(平成20年)11月26日に発売した[8]

2005年12月23日より2006年1月15日まで東京都千代田区にある丸ビル「渡辺プロダクション創立50周年企画 「抱えきれない夢」 日本のエンターテインメントの50年」が開催され、会場内の「ザ・ピーナッツコーナー」の展示品に、さよなら公演で使用されたマイクが伊藤エミ・ユミの提供により展示されていた。

2012年6月15日、姉:伊藤エミが死去[9]。およそ4年後の2016年5月18日には妹:伊藤ユミが死去した[10]

2016年9月7日、生誕75周年を記念して森高千里華原朋美、元Wink相田翔子、そしてメンバーに吉田美和を擁するユニットFUNK THE PEANUTSら全12組が参加した自身初となるトリビュート・アルバムザ・ピーナッツ トリビュート・ソングス」とオリジナル音源を収録したコンピレーション・アルバム「ザ・ピーナッツ オリジナル・ソングス」の2枚が同時リリースされた[11]

名付け親

グループ名は元・日本テレビプロデューサー井原高忠がグループ名、2人の芸名ともに名付けた[1]。また、姉妹それぞれの芸名を付けたのは渡邊晋である[12]

エミとユミの相違点

双子の見分け方
ほくろのある方がエミ、ない方がユミ(最初期はユミもマジックで付けほくろをしていた)。
双子の性格の違い
エミは本人によればおっちょこちょい、ユミによれば優しいが短気で周りによるとドジ気味。ユミはエミによると冷静で素直。
歌のパート
ハーモニーがエミ、メロディーがユミで歌うのが通常のパターンである。

エピソード

出演

主なテレビ番組

ラジオ番組

映画

音楽

シングル

カヴァー・ポップス作品

オリジナル作品

#発売日A面
B面
タイトル作詞作曲編曲型番
1960年代
11961年
6月
A
インファントの娘[注釈 27]池すすむ宮川泰EB-7030
B
草原情歌劉俊南
青山梓
王洛賓
21961年
8月
A
今池音頭高橋掬太郎飯田三郎宮川泰EB-535
B
お城音頭-
3A
あれは十五の夏祭り岩谷時子宮川泰EB-570
B
スク・スク・ドール青島幸男中村八大宮川泰
41962年
2月
A
いつも心に太陽を横井弘中田喜直宮川泰EB-7072
B
山小屋の太郎さん岩谷時子宮川泰
5A
ふりむかないで岩谷時子宮川泰EB-7075
B
アテネの恋唄M.Hajidakis宮川泰
61962年
5月
A
私と私[注釈 28]永六輔中村八大EB-7088
B
幸福のシッポ
71962年
10月
A
手編みの靴下竹内伸光
岩谷時子
宮川泰EB-7150
B
二人の高原岩谷時子
81963年
1月
A
若い季節[注釈 29]永六輔桜井順宮川泰EB-807
KO6S-434
B
わたしの心はうわのそら竹内伸光
音羽たかし
宮川泰
91963年
4月
A
恋のバカンス岩谷時子宮川泰EB-7196
B
チャオあらかはひろしG.Ferrio宮川泰
101963年
5月
A
舞妓はん音頭[注釈 30]岩谷時子宮川泰SB-914
B
わてら祇園の舞妓はん池すすむ萩原哲晶
111963年
11月
A
東京たそがれ岩谷時子宮川泰EB-987
B
こっちを向いて秋元近史
121964年
3月
A
キャンディー・ムーン安井かずみ宮川泰BS-7003
B
ドミニク福地美穂子S.Sourire宮川泰
131964年
5月
A
ジューン・ブライド岩谷時子宮川泰BS-9
B
ほほにかかる涙安井かずみR.Satti宮川泰
141964年
9月
A
青空の笑顔安井かずみ宮川泰BS-7039
B
ポエトリーM.Anthony
P.Kaufman
東海林修
15A
ウナ・セラ・ディ東京[注釈 31]岩谷時子宮川泰東海林修BS-7040
B
知らなかった三田恭次P.Calvi
161964年
11月
A
マイ・ラヴ安井かずみ宮川泰BS-7053
B
ブーベの恋人漣健児C.Rustichelli東海林修
171965年
3月
A
かえしておくれ今すぐに[注釈 32]藤田敏雄いずみたく宮川泰BS-7085
B
ドンナ・ドンナ安井かずみS.Secunda
181965年
7月
A
あなたの胸に安井かずみ宮川泰BS-7102
B
私を愛して漣健児J.Kennedy
M.Singleton
宮川泰
191966年
5月
A
愛は永遠に岩谷時子宮川泰BS-7141
B
花のささやき音羽たかしC.Donida宮川泰
201966年
10月
A
ローマの雨橋本淳すぎやまこういち服部克久BS-515
B
銀色の道塚田茂宮川泰
211967年
5月
A
東京ブルー・レイン有馬三恵子鈴木淳宮川泰BS-641
B
しあわせの花を摘もう塚田茂宮川泰
221967年
8月
A
恋のフーガなかにし礼すぎやまこういち宮川泰BS-692
B
離れないで橋本淳筒美京平
231968年
2月
A
恋のオフェリアなかにし礼宮川泰BS-778
B
愛のフィナーレ
241968年
6月
A
恋のロンド橋本淳すぎやまこういち宮川泰BS-838
B
愛への祈りすぎやまこういち
251968年
10月
A
ガラスの城なかにし礼鈴木邦彦森岡賢一郎BS-917
B
たった一度の夢岩谷時子宮川泰
261969年
3月
A
悲しきタンゴなかにし礼すぎやまこういち宮川泰BS-958
B
愛しい人にさよならをすぎやまこういち
271969年
7月
A
哀愁のヴァレンティーノなかにし礼すぎやまこういち宮川泰BS-1028
B
夕陽に消えた恋
281969年
9月
A
野いちご摘んで山口あかり田辺信一小谷充BS-1075
B
ついて行きたい
1970年代
291970年
3月
A
男と女の世界山上路夫沢田研二クニ河内BS-1157
B
しあわせの誓い
301970年
7月
A
東京の女山上路夫沢田研二宮川泰BS-1235
B
愛が終ったときクニ河内
311970年
12月
A
大阪の女橋本淳中村泰士森岡賢一郎BS-1300
B
青白いバラ山上路夫沢田研二宮川泰
321971年
5月
A
なんの気なしに山上路夫沢田研二宮川泰BS-1380
B
北国の恋
331971年
10月
A
サンフランシスコの女橋本淳中村泰士高田弘BS-1442
B
ロンリー香港岩谷時子宮川泰
341972年
3月
A
リオの女橋本淳中村泰士高田弘BS-1505
B
恋のカーニバル安井かずみ
351972年
8月
A
さよならは突然に山上路夫鈴木邦彦BS-1584
B
夜行列車
361973年
2月
A
指輪のあとに安井かずみ加瀬邦彦馬飼野俊一BS-1636
B
最終便
371973年
7月
A
情熱の砂漠山上路夫加瀬邦彦星勝BS-1734
B
あの時、もし安井かずみ
381974年
1月
A
気になる噂山上路夫加瀬邦彦星勝BS-1789
B
ひとり暮し
391974年
4月
A
愛のゆくえ荒木とよひさ加瀬邦彦宮川泰BS-1827
B
さよならは微笑んで山上路夫
401974年
9月
A
お別れですあなた千家和也すぎやまこういちBS-1868
B
季節めぐり
411975年
3月
A
浮気なあいつ山口洋子宮川泰BS-1917
B
よこがお宮川泰森岡賢一郎
421978年
5月
A
モスラの歌[注釈 33]田中友幸
本多猪四郎
関沢新一
古関裕而TV-41
B
インファントの娘池すすむ古関裕而

シングル以外

CMソング

コマーシャルソングの一部を記述。

など。

放送番組向けソング

民謡

民謡関連の一部の曲目を記述。

など。

クリスマスソング

その他

支えた裏方達

ザ・ピーナッツ担当のマネージャーは基本的に幹部候補生を数名抜擢した。これらの担当者は後年、渡辺プロで、あるいは独立し、それぞれが芸能界で大成している。

主なマネージャー

NHK紅白歌合戦出場歴

  • NHK紅白歌合戦には1959年(第10回)から引退前年の1974年(第25回)まで16回連続で出場。実の兄弟姉妹としては史上初めて出場。また、兄弟・姉妹による16回連続出場という記録も持つ。16回連続出場はPerfumeと並び紅組でのグループの最長記録。
年度/放送回曲目出演順対戦相手備考
1959年(昭和34年)/第10回情熱の花07/25和田弘とマヒナ・スターズ
1960年(昭和35年)/第11回2悲しき16才11/27和田弘とマヒナ・スターズ(2)
1961年(昭和36年)/第12回3スク・スク19/25ダーク・ダックス
1962年(昭和37年)/第13回4ふりむかないで05/25ダーク・ダックス(2)
1963年(昭和38年)/第14回5恋のバカンス22/25デューク・エイセス
1964年(昭和39年)/第15回6ウナ・セラ・ディ東京24/25坂本九トリ前
1965年(昭和40年)/第16回7ロック・アンド・ロール・ミュージック21/25デューク・エイセス(2)
1966年(昭和41年)/第17回8ローマの雨16/25ジャッキー吉川とブルーコメッツ
1967年(昭和42年)/第18回9恋のフーガ22/23アイ・ジョージトリ前(2)
1968年(昭和43年)/第19回10ガラスの城06/23西郷輝彦
1969年(昭和44年)/第20回11ウナ・セラ・ディ東京(2回目)20/23フランク永井
1970年(昭和45年)/第21回12東京の女03/24野村真樹
1971年(昭和46年)/第22回13サンフランシスコの女18/25堺正章
1972年(昭和47年)/第23回14さよならは突然に11/23ビリー・バンバン
1973年(昭和48年)/第24回15ウナ・セラ・ディ東京(3回目)12/22上條恒彦
1974年(昭和49年)/第25回16ブギウギ・ビューグル・ボーイ[14]20/25布施明
  • 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。

NHKみんなのうた出演歴

初放送曲目再放送
1961年(昭和36年)6月 - 7月バルーンのうた2019年(令和元年)4月 - 5月
1962年(昭和37年)4月2021年(令和3年)3月
1962年(昭和37年)10月 - 11月パパはママが好き2017年(平成29年)10月 - 11月
1962年(昭和37年)12月 -
1963年(昭和38年)1月
ずいずいずっころばし(なし)
1963年(昭和38年)8月 - 9月木曽節
1972年(昭和47年)4月 - 5月カンタ カナリート 〜風よりもかろやかに〜
  • 『バルーンのうた』・『花』・『パパはママが好き』の3曲はラジオのみの再放送。

その他

  • ハナ肇とクレージーキャッツザ・ドリフターズとともに最強時代のナベプロを築き上げていた功績が評価されている。
    なお、クレージーとの共演は比較的多かったものの、ドリフとの共演はほとんどない。特に志村けん加入後の後者との共演は茶の間に出回っている出典に残る範囲では1975年(昭和50年)正月新春かくし芸大会と前述の「さよなら公演」[注釈 34]8時だョ!全員集合でのゲスト出演が数回ある程度である[15][注釈 35]
  • 上記のような縁もあってか、ハナ肇が1993年に他界する直前にはハナの弟子であるなべおさみと共に看病に当たっていた[16]。ハナは伊藤姉妹が見舞うたびに笑顔で「いつも済まないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」と『シャボン玉ホリデー』のコントのセリフを繰り返していたという。
  • 同じ双子の歌手であったこまどり姉妹とはデビューした年も同一であったこともあり、公私共に交流があった。
  • 1966年(昭和41年)発売の園まりのシングル「逢いたくて逢いたくて」は、ザ・ピーナッツが1962年(昭和37年)に発売したシングル「手編みの靴下」が元歌である。
  • 「シャボン玉ホリデー」の番組タイトルを「ピーナッツ・ホリデー」にする事が有力であったが、スポンサー側の意向で立ち消えとなった。この為、テレビ番組に於けるザ・ピーナッツの冠番組は、現役時代には1番組も存在しなかった。

ザ・ピーナッツを演じた女優

脚注

注釈

出典

参考文献

関連項目

外部リンク