フリスト・ストイチコフ

ブルガリアのサッカー選手

フリスト・ストイチコフХристо Стоичков, Hristo Stoichkov, 1966年2月8日 - )は、ブルガリアプロヴディフ出身の元サッカー選手。サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワードミッドフィールダー

フリスト・ストイチコフ
2016年のストイチコフ
名前
愛称イッツォ (Itso)[1]
ラテン文字Hristo STOICHKOV
ブルガリア語Христо Стоичков
基本情報
国籍 ブルガリア
生年月日 (1966-02-08) 1966年2月8日(58歳)
出身地プロヴディフ
身長178cm[2]
体重73kg[2]
選手情報
ポジションFW / MF
利き足左足
ユース
1976-1982ブルガリアの旗 FCマリツァ・プロヴディフ
クラブ1
クラブ出場(得点)
1982-1984ブルガリアの旗 FCヘブロス 32 (14)
1984-1990ブルガリアの旗 CSKAソフィア 119 (81)
1990-1995スペインの旗 FCバルセロナ 151 (76)
1995-1996イタリアの旗 パルマAC 23 (5)
1996-1998スペインの旗 FCバルセロナ 24 (7)
1998ブルガリアの旗 CSKAソフィア 4 (1)
1998サウジアラビアの旗 アル・ナスル 2 (1)
1998-1999日本の旗 柏レイソル 27 (12)
2000-2002アメリカ合衆国の旗 シカゴ・ファイアー 51 (17)
2003アメリカ合衆国の旗 D.C. ユナイテッド 21 (5)
代表歴
1987-1999[3]ブルガリアの旗 ブルガリア83 (37[3])
監督歴
2004-2007ブルガリアの旗 ブルガリア
2007スペインの旗 セルタ・デ・ビーゴ
2009-2010南アフリカ共和国の旗 マメロディ・サンダウンズ
2012-2013ブルガリアの旗 リテックス・ロヴェチ
2013ブルガリアの旗 CSKAソフィア
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

1990年代FCバルセロナの中心選手の一人としてリーガ・エスパニョーラ優勝などに貢献[4]ブルガリア代表としても1994年に行われたワールドカップ・アメリカ大会において6得点を挙げ得点王となり同国のベスト4進出(最終成績は4位)に貢献し[4]バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を受賞。現役引退後はブルガリア代表などで監督を務めていた。

生い立ち

ブルガリア中部にあるプロヴディフ州の州都プロヴディフで生まれる。幼少の頃から活発な性格で、勉強は得意ではなかったが運動能力に恵まれ、小学生時代には陸上競技の学校代表に選ばれ、100m走でブルガリアのチャンピオンとなった経験を持つ[5] など当時ストイチコフを指導した教師から「世界的な陸上競技選手になる」と太鼓判を押されたほどだった[5]。また陸上競技だけでなく、サッカーボクシングなど様々なスポーツに親しんでいた[6] が、10歳の時に地元のサッカークラブでFCマリツァ・プロヴディフのスカウトに勧誘されて同クラブの下部組織に入団し本格的にサッカーを始めることになった[6]

クラブ経歴

CSKAソフィア

1982年にFCヘブロスに入団しキャリアをスタートさせると、1984年に国内の強豪クラブであるCSKAソフィアに移籍。1984-85のシーズンのブルガリア・カップ決勝のレフスキ・ソフィア戦は乱闘騒ぎや退場者を出すなど荒れた展開となり[7]、後に8人の選手が「コミュニストのモラルに反する行為」として出場停止処分を受けたが[7]、この中にストイチコフの名前が含まれており乱闘騒ぎに加わったCSKAの選手の中で唯一人永久追放処分を受けることになった[7]

10か月後に処分が解除されるとチームに復帰を果たし、ディミタル・ペネフ監督の下でレギュラーに定着。CSKAではリーグ優勝3回(1987年、1989年、1990年)、カップ優勝4回(1985年、1987年、1988年、1989年)、スーパーカップ優勝1回(1989年)、個人としても国内リーグで1988-89シーズンに23得点、1989-90シーズンに38得点を挙げ2年連続で得点王を獲得し1989-90シーズンにはヨーロッパのリーグでの最多得点者に与えられるゴールデンブーツ賞を受賞した[8]

国際試合では1988-89シーズンのUEFAカップウィナーズカップで準決勝進出し貢献。準決勝ではスペインのFCバルセロナに敗れたものの、この時のプレーぶりがバルセロナの監督を務めていたヨハン・クライフの関心を集め、1989年夏に両者間の話し合いが行われ移籍金450万ドルの5年契約で移籍に合意した[8]。しかし当時24歳だったストイチコフの移籍に関してブルガリア政府は難色を示し「年齢が若いため国外でプレーすることを認めない」として許可は直ぐには与えず[9]、「国外でプレーするには下部組織で2年間、プロで5年間の期間を全うする」との政府の条件を飲み[10]、バルセロナへの移籍を1年先延ばししてCSKAでプレーをすることになった[10]

FCバルセロナ

1990年夏にFCバルセロナへ移籍。ストイチコフを獲得した理由についてヨハン・クライフは「我々のクラブにテクニシャンは大勢いるが、彼のような強い個性とアグレッシブさを持ち合わせる選手を必要としていた」と語っている[11]。1990年9月1日、ラリーガの開幕戦となったエスパニョール戦でゴールを決めるデビューを果たすと[12]、以降の2試合でもゴールを決めて、デビューからリーグ戦3試合連続ゴールを決めた[13]。11月18日のカステリョン戦ではリーガで初のハットトリックを決めたが[13][14]、12月5日に敵地で行われたスーペルコパレアル・マドリード戦で不利な判定を受けたことで主審に抗議し退場処分を受けたが、この判定に怒りを露わにし審判の脚を踏みつける報復行為を行ったため物議を醸した[15]。この審判への暴力行為に対し6か月(後に2か月に免除)の出場停止処分を受けた[15]。処分が明けるとスタメンに復帰を果たし、3月10日のビルバオ戦では4ゴールを決めるなど[13]ミカエル・ラウドルップロナルド・クーマンらと共に6年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

1991-92シーズンにはミシェル・プラティニの紹介によりフランスパリ・サンジェルマンから同シーズン終了後の移籍に関する好条件のオファーを受け仮契約を結んだが[16]、リーグ戦では第31節のアルバセテ・バロンピエで4ゴールを決めるなど、合計17ゴールを決め[13]レアル・マドリードとの優勝争いの末に最終戦で連覇を決めると「サポーターの気持ちを裏切る事は出来ない」と残留を決意[16]。同年5月のUEFAチャンピオンズカップ決勝ではイタリアUCサンプドリアを延長戦の末に1-0で下しクラブの初タイトル獲得に貢献した。また1992年バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)の選考では同賞の受賞は成らなかったもののオランダマルコ・ファンバステン(98票)に次ぐ得票を獲得し(80票)2位に選ばれた。(ファンバステンは、ストイチコフが受賞するのではないかと考えていたという[17]。)クライフは当時を振り返り

CSKAでの彼はミッドフィールダーであり2列目から前線に飛び出して得点を狙うプレーを好んでいたが、バルセロナ移籍後は彼の素質を伸ばすように、左サイドのフォワードにコンバートしゴールに近い位置でプレーをさせ、それまでより短いスタンスでシュートを決めるように指導した。またCSKAではスター選手であり高慢な態度が目立っていたがバルセロナでは選手を特別扱いはしない。彼は短気な性格かつ頑固で自分のスタイルを守ろうとしたが、やがて私の教えに従った。 — ヨハン・クライフ

と語っている[18]

1992-93シーズンにはブルガリア代表の試合との兼ね合いからクラブとブルガリアサッカー連盟の間のトラブルに巻き込まれ[19] たこともあり、一時期スランプに陥った[19]。この間、インターコンチネンタルカップサンパウロ戦では、約20メートルのカーブがかかったミドルシュートで先制点を奪ったが、1-2と敗れた[20][21]。リーグ戦では第2節のレアル・マドリード戦で決勝ゴール[13]、第3節のアトレチコ・マドリード戦ではハットトリックを決めるなど[13] 活躍をけたが、前シーズンと同様にレアル・マドリードとの優勝争いとなった。最終節を前にレアルマドリードが首位、バルセロナは2位であったが、レアル・ソシエダ戦ではベギリスタインの折り返しから決勝点を決める活躍、レアルマドリードがテネリフェと引き分け、逆転での3連覇に貢献[19]。1993-94シーズンにブラジルロマーリオが加入。チームに所属する外国籍選手はストイチコフ、ラウドルップ、クーマンの4人となり誰が試合に出場し誰が控えに回るのかが焦点となったが、ストイチコフはポジションを獲得しロマーリオとのコンビで攻撃陣を牽引[22]。リーグ戦では、最終節のセヴィリア戦で優勝の為には勝利が絶対条件の中、相手に先制点を許すも、2ゴール1アシストの活躍でチームを勝利に導き[23]ラ・コルーニャとの優勝争いに競り勝ち4連覇を達成した[24]。一方でチャンピオンズリーグ決勝ではACミランに0-4と大敗した[25]。クライフ監督に率いられた当時のチームの通称「エル・ドリーム・チーム」はクラブの歴史上でも最も強いチームの一つと評され[26]、ストイチコフ自身もバルセロナサポーターの人気を獲得した[27]

1994年にブルガリア代表での活躍(後述)もありバロンドールを受賞したが、その一方で監督のクライフとの関係に亀裂が生じるようになり[28][29]、ラウドルップとスビサレッタを放出し、クライフの息子であるジョルディ・クライフをレギュラーに登用したことなどを公然と批判した[29]1995年3月に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 1994-95準々決勝でパリ・サンジェルマンに敗れると、ストイチコフは「私を採るのか、クライフを採るのか」とアピールし解任を求める行動を起こした[30] が、ファンやクラブ幹部の支持を得ることは出来なかった[30]。クライフとの関係について当初はよい関係を築いていたが、徐々に悪化し、特に1994-95シーズン、チームが勝てなくなると自分やハジのことを左足でしかプレー出来ないなどと名指しで批判するなど、選手に責任をなすりつけ自身の保身をはかっていたと批判[25]、また1993-94シーズンのチャンピオンズリーグ決勝でミランに0-4と負けたのはクライフの傲りが招いたとも批判した[25]

その後

1995年夏にイタリアのパルマへ1500万ドルの金額で移籍[27]。開幕戦となったアタランタ戦では直接FKからゴールを決め[31]、リーグ第5節終了までに4ゴールを奪うが[13]、その後リーグ戦では第19節のインテル戦でゴールを決めたのみに終わった[13]。同じ様なポジションには既にジャンフランコ・ゾラが居たこと[32]ファウスティーノ・アスプリージャの奔放なプレースタイルもあり[32]ネヴィオ・スカラ監督は様々な試みをするも[32]、力を発揮出来ず[32]、前述の様なチーム事情があるにも関わらず獲得したチームフロント陣は批判された[32]。翌1996年にクライフが健康上の問題により退任しボビー・ロブソンが監督に就任したこともありバルセロナに復帰[27]。1996-97シーズンのUEFAカップウィナーズカップでは決勝でフランスパリ・サンジェルマンFC下しタイトル獲得に貢献した。しかしロブソンが1シーズン限りで退団し、翌1997-98シーズンにルイ・ファン・ハールが監督に就任すると出場機会を失い、チャンピオンズリーグ2次予選のスコントFC戦でのPKによる決勝ゴールがバルセロナでの最後のゴールとなった[13]。古巣のCSKAソフィアやサウジアラビアアル・ナスルへレンタル移籍をした[27]

1998年Jリーグ柏レイソルへ移籍、デビュー戦となった同年7月29日のヴィッセル神戸戦ですぐにゴールを決めた[33]1999年は4月の浦和戦、名古屋戦、G大阪戦、5月5日の市原戦まで4試合連続ゴールを決める活躍をしたが[34]UEFA欧州選手権の予選出場のためにチームを離れると、再びレイソルに戻ることはなく退団、引退と伝えられた[35]

2000年からはアメリカ合衆国メジャーリーグサッカー (MLS) のシカゴ・ファイアーへ加入し、第1節のダラス・バーン戦で2ゴールを決める[13] デビューを果たし、USオープンカップではゴールを決めて[13] 優勝を果たし、MLSカップでは準優勝に貢献した。2003年に同じくMLSのD.C. ユナイテッドへ移籍してアシスタントコーチ兼選手を務め、シーズン終了後の同年12月に現役を引退した[4]

引退試合は2004年5月にバルセロナの本拠地であるカンプ・ノウで行われ、往年のエル・ドリーム・チームの一員としてボビー・ロブソンとディミタル・ペネフの率いる世界選抜と対戦[36]。ストイチコフは開始10分間に2得点を挙げ自らの引退の花道を飾った[36]

代表経歴

ブルガリア代表としては1987年9月23日に行われたUEFA欧州選手権1988予選ベルギー戦でデビュー[3]。翌1988年1月22日に行われたカタールとの親善試合で代表初得点を決めた[3]

1994年に開かれたワールドカップ・アメリカ大会ではクラシミル・バラコフヨルダン・レチコフらと共にチームを牽引[37] し、グループリーグ3試合で3得点を挙げ2位で決勝トーナメントへ進出。同1回戦でも自ら1得点を決めるとPK戦の末にメキシコを下し準々決勝へ進出。準々決勝では前回優勝国のドイツとの対戦となったが、この試合では、75分に1-1の同点に追いつくフリーキックを決め勝利に貢献し[37]、ワールドカップの歴史において1962年チリ大会、1966年イングランド大会、1970年メキシコ大会、1974年西ドイツ大会、1986年メキシコ大会と過去5回出場しながら16試合で6引分け10敗と1勝もあげることが出来なかった[38] 同国を初のベスト4進出に導いた。ストイチコフは準決勝のイタリア戦でも1得点を決め大会通算6得点を挙げ、ロシアオレグ・サレンコと共に大会得点王になった[37]。ストイチコフは当時を振り返り次のように語っている。

ワールドカップでの1か月間は仲間たちと素晴らしい時間を過ごした。私が得点王を獲得できたのは彼らの献身的なハードワークがあってのものだった[37] — フリスト・ストイチコフ

1996年UEFA EURO '96では3得点を挙げたもののグループリーグ敗退に終わり、ペネフ監督の退任やブルガリアサッカー連盟の内紛に抗議して代表参加をボイコット[39] したが1年後、ペネフの後任のフリスト・ボネフの説得により代表チームに復帰[39]。1998年のワールドカップ・フランス大会に出場したがグループリーグ敗退に終わり、1999年6月9日に行われたUEFA EURO 2000予選イングランド戦を最後に代表から退いた[3]。ストイチコフは国際Aマッチ83試合に出場し37得点を挙げた[3]

指導者経歴

2004年7月15日、UEFA EURO 2004終了後に辞任したプラメン・マルコフの後任としてブルガリア代表監督に就任。成績不振により辞任。2006 FIFAワールドカップへの出場を目指すが、同年9月から始まった欧州予選ではスウェーデンに連敗を喫し、クロアチアに1分1敗と負け越すなど4勝3分け3敗、勝ち点15の成績で予選敗退。ワールドカップ出場を逃したことで多くの批判を浴びた[40]

続くUEFA EURO 2008予選でも指揮を執ったが、2006年10月13日に主将のスティリアン・ペトロフが「ストイチコフの下ではプレーする意思はない」と代表チームからの引退を発表[41]2007年3月28日にホームのソフィアで行われたアルバニア戦で0-0と引き分け、2勝3分けの成績となりグループ3位に後退すると再び批判を受けた[40]。ブルガリアサッカー連盟 (BFU) は、同年4月10日にストイチコフから口頭で辞意が伝えられ承認したことを発表した[40]

同日、スペインのセルタ・デ・ビーゴの新監督就任[40]。就任時に降格圏内の18位にいたセルタはその後も成績が上昇せず、2部リーグへの降格が決まったがクラブはストイチコフの続投を発表した[42]。しかし2部リーグでも11位と低迷を続けていたこともあり、同年10月8日に監督を解任された[43]

2009年6月29日、南アフリカ共和国マメロディ・サンダウンズの監督に就任し、翌2010年まで指揮を執った[44]

2012年1月、母国のリテックス・ロヴェチの監督に就任[45]

2013年6月、古巣CSKAソフィアの監督に就任したが[46]、クラブ首脳陣との間で信頼関係が崩れたことなどを理由に、同年7月8日に辞任した[47]

人物

左足での正確なプレースキックとスピードを生かしたドリブル突破が特徴[48][49]。身体能力が高く緩急を自在につけることで相手守備陣のリズムを狂わせ[50]、また味方を生かすアシスト能力、ペナルティエリア内での得点能力を持ち合わせており、様々な攻撃的なポジションをこなすことが可能だった[50][51]。一方でバルセロナ時代の監督だったクライフはストイチコフのプレーを評価しながらも[52][53]、左足だけでしかプレー出来ない問題があり、選手として限界があったと指摘している[53]

欧州サッカー連盟 (UEFA) 創立50周年を記念して2004年に開催されたUEFAジュビリーアウォーズの際にはブルガリアサッカー連盟により過去50年間(1954年-2004年)におけるブルガリア最優秀選手に選ばれた[54]。また、1999年にはワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で48位に選出。2004年3月にはペレが選ぶ『偉大なサッカー選手100人』 (FIFA100) にブルガリアから唯一選出されるなど同国最高の選手と評されている[39]

感情の起伏の激しい人物としても知られるが[18]、バルセロナ時代、ロマーリオとは共に食事や外出するなど、良好な関係を築いた[25]。審判の判定に執拗に食い下がり抗議する場面がしばしばみられ、時には退場処分を受けることもあった[49]。メディアでは「審判の敵」として扱われることが多く、その言動は物議を醸した[55] が、バルセロナ時代のチームメイトだったラウドルップはストイチコフの人物像について次のように語っている。

彼は他人には理解出来ない特異な個性の持ち主だ。感情を爆発させたかと思えば物事を引きずらず悪いことは直ぐに忘れる。子供のように素直な人だ[56] — ミカエル・ラウドルップ

また、カタルーニャ州やFCバルセロナへ愛着を持つ一方で[57]、ライバルクラブであるレアル・マドリードに対しては批判的なことでも知られる[58][59]

個人成績

クラブでの成績

2003年シーズン終了時の成績[2][60][61][62]

クラブ成績リーグカップリーグ杯国際大会通算
シーズンクラブリーグ出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
1982-83ヘブロスB PFG114-0
1983-842110-0
1984-85CSKAソフィアA PFG110-0
1985-860000-00
1986-87256-0
1987-882714-0
1988-892623-7
1989-903038-2
1990-91バルセロナプリメーラ241462-853821
1991-92321721-944322
1992-93332062-624524
1993-94341661-874824
1994-9526945-833817
1995-96パルマセリエA23520-52307
1996-97バルセロナプリメーラ22761-60348
1997-984010-3181
1997-98CSKAソフィアA PFG4100
1997-98アル・ナスル0000-2121
1998J1681000-178
1999J1114-11-125
2000シカゴ・ファイアーMLS18931--2110
200117632--208
200216200--162
2003D.C. ユナイテッド21531--246
通算ブルガリア15195009
スペイン175833112004812254127
イタリア235200052307
サウジアラビア0000002121
日本27121011002913
アメリカ72229400008126
総通算4552181124457219

代表での成績

出典[3]
ブルガリア代表
国際大会親善試合合計
出場得点出場得点出場得点
1987300030
198820104124
1989414081
1990301040
1991211132
1992312152
1993640064
199410910119
1995770077
1996332255
1997311041
19986041101
1999312051
通算55282898337

代表での得点

出典[3]
#開催日開催地対戦国結果大会
11988年1月21日カタールドーハ カタール3-2親善試合
21988年8月9日ノルウェーオスロ ノルウェー1-1
31988年9月21日ブルガリアソフィア ソビエト連邦2-2
41988年9月24日ポーランドビャウィストク ポーランド2-3
51989年10月11日ブルガリア、ヴァルナ ギリシャ4-01990 FIFAワールドカップ・予選
61991年9月25日ブルガリア、ソフィア イタリア2-1親善試合
71991年10月16日 サンマリノ4-0UEFA EURO '92予選
81992年8月19日 メキシコ1-1親善試合
91968年9月9日 フランス2-01994 FIFAワールドカップ・予選
101993年4月28日 フィンランド2-0
111993年5月12日 イスラエル2-2
121993年4月28日 スウェーデン1-1
131993年10月13日 オーストラリア4-1
141994年6月26日アメリカシカゴ ギリシャ3-01994 FIFAワールドカップ
15
161994年6月30日アメリカ、ダラス アルゼンチン2-0
171994年7月5日アメリカ、イーストラザフォード メキシコ1-1
181994年7月10日 ドイツ2-1
191994年7月13日 イタリア1-2
201994年11月16日ブルガリア、ソフィア モルドバ4-1UEFA EURO '96予選
21
221994年12月14日ウェールズカーディフ ウェールズ3-0
231995年4月26日モルドバキシナウ モルドバ3-0
24
251995年6月7日ブルガリア、ソフィア ドイツ3-2
26
271994年9月6日アルバニアティラナ アルバニア3-0
281995年10月11日グルジアトビリシ グルジア1-2
291995年11月15日ドイツベルリン ドイツ1-3
301996年5月28日ブルガリア、ソフィア 北マケドニア3-0親善試合
311996年6月2日 アラブ首長国連邦4-1
321996年6月9日イングランドリーズ スペイン1-1UEFA EURO '96
331996年6月13日イングランド、ニューカッスル ルーマニア1-0
341996年6月18日 スペイン1-3
351997年6月8日ブルガリア、ブルガス ルクセンブルク4-01998 FIFAワールドカップ・予選
361998年6月5日ブルガリア、ソフィア アルジェリア2-0親善試合
371999年3月31日ルクセンブルクルクセンブルク ルクセンブルク2-0UEFA EURO 2000予選

個人タイトル

脚注

参考文献

  • フリスト・ストイチコフ、フランセスク・アギラール、シャビエル・トーレス 著、西村留美阿奈、坪井弓子 訳『得点王の真実 ストイチコフ自伝』ゼスト、1998年。ISBN 978-4883770373 
  • ミゲルアンヘル・サントス 著、松岡義行 訳『ヨハン・クライフ スペクタクルがフットボールを変える』中央公論新社中公文庫〉、2002年。ISBN 978-4122040274 
  • ベースボール・マガジン社 編『Jリーグ10年の軌跡 1993-2002』ベースボール・マガジン社、2003年。ISBN 978-4583037752 

外部リンク