アメリカ同時多発テロ事件 (アメリカどうじたはつテロじけん、英 : September 11 attacks )は、2001年 9月11日 にイスラム過激派 テロ組織アルカイダ によって行われたアメリカ合衆国 に対する4つの協調的なテロ攻撃 [4] [5] 。9.11事件 (きゅういちいちじけん)や、9.11 (きゅうてんいちいち)などと呼称される場合もある[7] 。
一連の攻撃で、日本人 24人を含む2,977人が死亡[8] 、25,000人以上が負傷し、少なくとも100億ドル(日本円換算1兆1465億9500万円)のインフラ被害・物的損害に加えて、長期にわたる健康被害が発生した[9] [10] 。アメリカの歴史 上、最も多くの消防士 と法執行官 が死亡した事件であり、殉職者はそれぞれ343人と72人だった[11] 。また、この事件を契機としてアフガニスタン紛争 (2001年-2021年) が勃発し、世界規模での対テロ戦争 が始まった。
概要 2001年9月11日(火曜日)の朝、アメリカ合衆国北東部 の空港 から西海岸 に向けて出発した旅客機 計4機が、イスラム原理主義 過激派 アルカイダ のメンバー計19人にハイジャック された。
ワールドトレードセンターへのテロ攻撃 アメリカン航空11便 とユナイテッド航空175便 の2機はニューヨーク州 ニューヨーク のワールドトレードセンター (世界貿易センタービル)に向かい、午前8時46分(日本時間11日午後9時46分)にアメリカン航空11便がノースタワー(北棟)に、午前9時3分(日本時間午後10時3分)にユナイテッド航空175便がサウスタワー(南棟)に激突した。南棟はハイジャック機の突入から56分後、北棟は1時間42分後に倒壊し、それに伴う衝撃と火災 は7 ワールドトレードセンター タワー(47階建て)を含むワールドトレードセンター内のすべての建物への一部または全体への破壊を引き起こしただけでなく、周囲10ヵ所の大型構造物に甚大な損傷を与えた。 ペンタゴンへのテロ攻撃 3機目のアメリカン航空77便 は、午前9時37分(日本時間午後11時37分)にバージニア州アーリントン郡 のペンタゴン (アメリカ国防総省 本庁舎)に激突し、建物の西側を部分的に倒壊させた。 テロ攻撃の失敗 4機目のユナイテッド航空93便 はコロンビア特別区 に向けて飛行していたが、乗員乗客がハイジャック犯の制圧を試みた結果、ペンシルバニア州 ストーニークリーク郡区の野原に墜落した。 ワールドトレードセンターおよび周辺のインフラ への破壊は、ニューヨーク の経済に深刻な打撃を与え、世界市場にも大きな影響を与えた。米国とカナダの民間空域は9月13日まで閉鎖され、ウォール街 は9月17日まで閉鎖された。新たな攻撃への恐怖と警戒心から、多くの閉鎖、避難、キャンセルが続いた。
捜査の結果、アルカイダの指導者であるウサーマ・ビン・ラーディン に疑いを向けた米国は、テロから約1ヵ月後の2001年10月、有志連合 諸国とともに軍事作戦を開始した。アフガニスタン を攻略し、同国からのアルカイダの放逐と、テロの首謀者とみられるビン・ラーディンの身柄引き渡しに応じなかったタリバン 政権を同年11月に事実上崩壊させた。ビン・ラーディンは当初、事件への自身の関与を否定していたが、2004年にテロ攻撃の責任が自らにあることを認めた[12] 。
アルカイダとビン・ラーディンは、アメリカのイスラエル支援 、サウジアラビアへのアメリカ軍の駐留 、幼児50万人が犠牲になったと言われるイラク に対する制裁 [13] などをテロの理由に挙げた。ビン・ラーディンはテロから10年近く捕捉を逃れ、パキスタン 国境付近に潜伏していたが、テロから約10年後の2011年5月、アメリカ軍の急襲により殺害 された。
ワールドトレードセンター跡地の清掃は2002年5月に完了し、ペンタゴンは1年以内に修復された。1 ワールドトレードセンター の建設は2006年11月に始まり、2014年11月に開業した[14] [15] 。ニューヨーク市の911メモリアル&ミュージアム 、バージニア州アーリントン郡のペンタゴンメモリアル、ペンシルバニア州の墜落現場にある93便ナショナルメモリアルなど、多数の慰霊碑が建立された。
ハイジャックされた旅客機 ハイジャックされた各旅客機の飛行ルート 2001年9月11日朝(現地時間)、マサチューセッツ州 ボストン 、バージニア州 ダレス(ワシントンD.C. 近郊)、ニュージャージー州 ニューアーク を発った4機の旅客機が、モハメド・アタ を中心とするアラブ系の集団によってほぼ同時にハイジャック された。彼らは操縦室 に侵入し、操縦士 を殺害した後、自ら操縦して、2機(アメリカン航空11便、ユナイテッド航空175便)をニューヨーク州 ニューヨーク ・マンハッタン へ、残り2機(アメリカン航空77便、ユナイテッド航空93便)をワシントンD.C. へ向かわせた[16] [17] 。
なお、乗っ取られた4機のうち2機が米ボーイング 社製のボーイング767 型機で、残りの2機がボーイング757 型機である。この2種類の機体は、運行する航空会社 の操縦士に互換性を持たせるために、操縦室 の操縦システムは基本的に同じ物が使われており、いずれも2人のみで操縦できるため、意図してこれらの機体が運行されている便が選択されハイジャックされたと考えられている。
また、実行犯のリーダー、モハメド・アタ をはじめとする一部のハイジャック犯たちは、アメリカ合衆国内にある民間の航空学校(ホフマン飛行機学校[18] )で小型機の自家用操縦免許を取得した後に、これらの機体の操縦方法を事前にフライトシミュレータ で訓練していたことが明らかになっている[19] 。
これら4機がいずれも北米大陸横断ルートという、アメリカ合衆国国内線の中では長距離飛行に入るルートを飛行する便であったのは、長距離便のために燃料積載量が多く、衝突後の延焼規模を多くすることを狙ったと推測する者[要出典 ] もいる。なお、ハイジャックされて激突・墜落させられた旅客機の乗客・乗員は全員死亡している[20] 。
アメリカン航空11便 アメリカン航空のボーイング767-200ER(N334AA)
アメリカン航空11便の飛行経路
ボストン 発ロサンゼルス 行きアメリカン航空 11便(AA011; ボーイング767-200ER型 機・機体記号 N334AA)は、乗客81人(日本人1人を含む)・乗員11人を乗せ、午前8時00分頃にローガン国際空港 を離陸し、ロサンゼルス国際空港 に向かった[21] [22] 。その後、11便は午前8時14分頃に始められたハイジャックにより、コックピットを乗っ取られた[23] 。11便は午前8時27分に進路を南向きに変え、午前8時46分にニューヨーク ・ロウアー・マンハッタン のワールドトレードセンター・ツインタワー北棟(110階建)に突入し爆発炎上した[23] [24] 。角度、速度ともに浅い離着陸時の事故と違い、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。
11便がWTC北棟に衝突する瞬間は、ニューヨーク市消防局 Ladder Companyの取材をしていたフランス の映像作家、ノーデ兄弟(英語版 ) によって撮影されていた[25] 。また、ホームビデオや定点カメラに写り込んだ映像も存在する[26] 。
ユナイテッド航空175便 ユナイテッド航空のボーイング767-200(N612UA)
ユナイテッド航空175便の飛行経路
ボストン発ロサンゼルス行きユナイテッド航空 175便(UA175; ボーイング767-200ER型 機・機体記号 N612UA)は、乗客56人・乗員9人を乗せ、午前8時14分にローガン国際空港を離陸し(アメリカン航空11便でのハイジャック発生とほぼ同時)、ロサンゼルス国際空港に向かった[27] [28] 。午前8時42分頃、UA175便のパイロットは離陸直後に耳にした不審な内容の無線(ハイジャックされたアメリカン航空11便からの無線だった)について管制官に報告したが、それから午前8時46分までの間にUA175便もハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた[23] 。その後、UA175便は午前8時58分にニューヨークへ進路を変え、午前9時03分にWTC・ツインタワー南棟(110階建)に突入し爆発炎上した[23] [24] 。南棟では北棟の爆発を受けて多くの人が避難を開始していたため、人的被害は北棟よりも少ないが、先に突入を受けた北棟より早く南棟が崩壊している[29] 。
11便とは異なり、175便の突入時には、既に多くの人に事態が認識されていたことから、突入の瞬間の映像や写真が多数記録されている[30] 。なお、105階に居たエーオン 副社長のケビン・コスグローブ (南棟の崩壊時に死亡)が、南棟が崩壊する瞬間まで911番 へ電話で状況を伝えていた音声が録音されており[31] 、この録音はザカリアス・ムサウイ の裁判において証拠として用いられた[32] 。
アメリカン航空77便 アメリカン航空のボーイング757-200
アメリカン航空77便の飛行経路
ワシントンD.C. (ダレス国際空港 )発、ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きアメリカン航空77便(AA077; ボーイング757 -200:機体記号 N644AA)は、乗客58人・乗員6人を乗せて、午前8時20分に出発した。午前8時50分頃までにハイジャックされコックピットを乗っ取られた。直後に進路を北向きに変えた後、南へ転回、その後東へ進路を変えた。最初の進路離脱から3分間は管制塔と機長が交信していたが、その後通信不能となった。
そして午前9時38分、バージニア州 アーリントン にあるアメリカ国防総省 本庁舎(ペンタゴン)に激突し、爆発炎上した。激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録されており、また付近を通行中の多くのドライバーや歩行者によって降下し激突する瞬間が目撃された。
防犯カメラなどの映像によると、機体は水平の状態で地面を滑走しながらペンタゴンに衝突していたが、高速で建築物に激突・炎上したため機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。
ユナイテッド航空93便 ユナイテッド航空のボーイング757-200(N591UA)
ユナイテッド航空93便の飛行経路
ユナイテッド航空93便の墜落跡地にできた穴 ニューアーク (ニューアーク空港 )発サンフランシスコ (サンフランシスコ国際空港 )行きユナイテッド航空 93便(UA093; ボーイング757 -200、機体記号 N591UA)は、午前8時42分、乗客37人(日本人1人を含む)(乗客37人中4人はテロリスト)・乗員7人を乗せて、滑走路の混雑で30分遅延で出発した。
乗客の機内電話からの通報によると、午前9時27分にハイジャック され、コックピットを乗っ取られた。オハイオ州 クリーブランド付近で進路を南に変え、さらに南東へ向かった。ワシントンD.C.へ向かうことを管制官に通告、標的はアメリカ合衆国議会議事堂 かホワイトハウス であったと推測されている。
午前9時57分、機内電話や携帯電話 による外部との連絡で、ハイジャックの目的を自爆テロと認識した乗客が機の奪還に乗り出す。午前10時03分、93便は490ノット (563マイル毎時 (906 km/h )) の速度でペンシルベニア州 ピッツバーグ 郊外シャンクスヴィル (ワシントンD.C. 北西240キロ の場所)に墜落した[33] 。離着陸時の速度の倍以上の高速で地上に衝突したため、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。なお、地震計 のデータから墜落の時刻を午前10時06分と公式記録と異なる報告がなされたが、後にこの時刻を算出した地震学者本人により撤回されている。
乗客たちがハイジャッカーたちに反撃した際に「Let's Roll. (さあやろうぜ・よし、皆かかれ)」を合図にしたと言われている。この「Let's Roll 」は、9・11事件以降のアフガニスタン での「報復戦争」において一種のスローガンとして用いられた[34] 。9・11事件の調査委員会は乗客は操縦室内に進入できなかったと結論づけているが[23] 、一部の遺族はCVR音声 に乗客が操縦室に進入した証拠が記録されていると主張している[35] 。なお、離陸からハイジャック、墜落までの乗員乗客の行動を基にした映画『ユナイテッド93 』が2006年 に公開された[36] 。
被害 ワールドトレードセンター(WTC) ユナイテッド航空175便がツインタワー南棟に突入した瞬間 NASA が宇宙から撮影したテロ攻撃の様子[37] 自由の女神 の背景で炎上しているツインタワー午前8時46分40秒、ハイジャックされたアメリカン航空11便がワールドトレードセンター 北棟 (1 WTC)の北面、93 – 99階の部分に衝突した[38] [39] [40] 。衝突によってハイジャック機のジェット燃料 が引火したことで北棟の高層階では爆発的な火災が発生し、また燃料がエレベーターシャフトを通じて落下したことで地上ロビー等の低層のフロアでも爆発が起こった[39] [41] 。
衝突から間もなく火災と黒煙は周辺階に広がり始め、8時52分には、過酷な状況に耐えかねて高層階から飛び降り る人々も現れた[42] [43] 。この時点では、北棟への航空機の突入は(テロ攻撃ではなく)事故であるとの見方が大勢を占めていた[44] 。当時の大統領ジョージ・W・ブッシュ も第一報を受けて「これはパイロットエラー による事故だ」と発言した[45] 。
午前9時02分59秒、ハイジャックされたユナイテッド航空175便がワールドトレードセンター南棟 (2 WTC) に突入し、南棟は爆発炎上した[46] 。ハイジャック機は機体を傾けながら南棟の南面、77 – 85階の部分に衝突しており[47] 、これによって南棟が負った構造的ダメージは北棟と比較してより深刻だった[29] 。2機目のジェット機が南棟に衝突した瞬間は既に多数の報道カメラが記録を始めており、一般者も含めた数多のカメラによって様々な角度から捉えられた[30] 。この時点で、一連の出来事が事故ではなく故意 に起こされた攻撃であることが広く認識された[44] [45] 。
午前9時37分、ハイジャックされた旅客機(アメリカン航空77便)がペンタゴン に突入した[48] 。9時42分、連邦航空局 (FAA) はアメリカ合衆国大陸部 内のすべての民間航空機を離陸禁止とし、すでに飛行中の民間機にはただちに着陸するよう指示した[23] 。
午前9時59分、ユナイテッド航空175便の南棟突入 から56分後、ワールドトレードセンター南棟が崩壊した[49] [50] 。その直後の10時03分11秒、ハイジャックされたユナイテッド航空93便がペンシルベニア州で墜落した[51] 。10時28分、アメリカン航空11便の北棟突入から1時間42分後、南棟に続きワールドトレードセンター北棟が崩壊した[49] [50] 。
ワールドトレードセンターのツインタワーは、航空機の衝突による大規模な構造的ダメージに加え、ジェット燃料 が引き起こした火災の熱で構造部材(鉄骨柱・床トラス 部材等)の強度が著しく低下したことで崩壊したと考えられている[52] [53] 。アメリカ国立標準技術研究所 の報告書によれば、火災によるダメージは(ジェット燃料ではなく)主にオフィス内の可燃物によるものであり、それらの可燃物が火災を増長しなければ、ツインタワーは崩壊を免れていた可能性がある[54] 。ツインタワーは、建設当時に世界最大のジェット旅客機であったボーイング707 が突入しても崩壊しないよう設計されていたが、漏れ出したジェット燃料とそれによる大規模火災の影響は設計上考慮されていなかった[52] 。日本の鹿島建設 は事件の翌年にWTC建物内部の損傷について独自のシミュレーションを実施し、崩壊が火災によるものであることを裏付けた[55] 。
北棟の崩壊時の瓦礫が隣接する7 ワールドトレードセンター ビル (7 WTC) に降り注ぎ、7 ワールドトレードセンターは損傷、さらに火災が数時間にわたって発生し、ビルの構造的健全性は失われた。午後5時21分、7 ワールドトレードセンターは倒壊した[56] [57] 。
各旅客機のツインタワー両棟への突入の様子 7 WTC以外にも、ワールドトレードセンター・コンプレックスと周辺の多くのビルが壊滅的な被害を受けた。全壊した施設には聖ニコラス聖堂 も含まれていた[58] 。1 WTC(北棟)、2 WTC(南棟)と同様に、3 WTC(マリオット・ワールドトレードセンター(英語版 ) )と7 WTCは跡形もなく破壊された。4 WTC(英語版 ) 、5 WTC 、6 WTC(英語版 ) (合衆国税関 ビル)、ウエスト・ストリート を渡る2つの横断歩道橋は激しく損壊した。リバティ・ストリートを隔てたドイツ銀行ビル(英語版 ) は部分的に損壊し、2007年に始まった解体作業で取り壊された[59] [60] 。ウエスト・ストリートを隔てたワールドフィナンシャルセンター の2棟のビルもダメージを被った[59] 。ワールドトレードセンター・コンプレックスの地下にはPATHトレイン のワールド・トレード・センター駅 が位置していた。ツインタワーの崩壊時、この駅は完全に破壊され、この駅からハドソン川の下を通ってニュージャージー州 ジャージーシティ のエクスチェンジ・プレイス駅 へ向かうトンネルも水没した[61] 。
北棟の崩壊により、北棟の屋上に設置されていた通信アンテナも破壊された。一時的に多くのTV局・ラジオ局の放送が断絶したが(WCBS-TV のみがエンパイアステートビル にバックアップ用の通信装置を持っていた)、それらの放送局はすぐに別ルートでの通信を確立し、放送を再開することができた[58] [62] 。ワールドトレードセンターの敷地における火災は、テロ事件から100日後の12月20日にようやく鎮火した[63] 。この事件以降、ワールドトレードセンター・コンプレックス跡地は「グラウンド・ゼロ 」や「ワールドトレードセンター・サイト(跡地)」とも呼ばれている。
人的被害 ブルックリン 側から見たツインタワー南棟 (2 WTC) の崩壊ワールドトレードセンター (WTC) へのテロ攻撃による死者は合計で2,763人だった。その内訳は、事件当時WTCに居た民間人が2,192人、消防士が343人、警察官が71人、ハイジャックされた旅客機の乗員・乗客が147人、ハイジャック犯のテロリストが10人となっていた[64] 。
WTCのツインタワーにおける民間人死者の90%以上は、ハイジャック機による衝突を受けた階以上のフロアで発生した[65] 。北棟ではハイジャック機の衝突時に数百人が即死 したほか、直撃を受けた階以上のフロアに1,355人が閉じ込められ、煙の吸引・タワーからの落下・最終的なタワーの崩壊などの理由によってその全員が最終的に死亡した[39] [65] 。北棟の3つの非常階段すべてがアメリカン航空11便の衝突の際に破壊されており、上層階から人々が脱出することは不可能だった。一方で、(北棟において)直撃を受けた階より下のフロアで死亡した民間人は107人とされている[65] 。
南棟で死亡した民間人は計630人であり、北棟の半分以下の数字だった[65] 。南棟では、北棟へのジェット機突入の直後から多くの人々が自主的に避難を開始していたため、死者の数は大幅に抑えられた[66] 。一方で、南棟へのハイジャック機の突入時には78階のスカイロビー(英語版 ) でエレベーターを待っていた数百人に及ぶ避難者の多くが死傷した[47] 。『USAトゥデイ 』は、最初のジェット機突入後に南棟に居た全員を避難させることができなかったことを「事件当日に起きた大きな悲劇のひとつ」と評している[67] 。南棟では、ユナイテッド航空175便の衝突の後も非常階段のひとつ(A階段)が崩壊を免れており、このA階段を利用することで18人(直撃を受けた階から14人、それより上の階から4人)が生還した[68] 。
ジェット機の衝突によって北棟・南棟ではエレベータが停止し、多くの人が閉じ込められた。『USAトゥデイ 』の推定では、最小で200人、最大で400人がツインタワーのエレベータに閉じ込められた状態で死亡したとされている[69] 。エレベータに閉じ込められたものの、そこから自力で脱出した生還者は21人のみだった[69] 。エレベータにおける死者は、ケーブルの破断によるエレベータ籠の急落下や、エレベータへの火炎の侵入によって死亡しており、それらを免れた者もタワーの崩落時に死亡した[69] 。
上空から見たWTC跡地(2001年9月17日撮影) ツインタワーからの転落もしくは飛び降りによる死者は最低でも200人と推定されている[70] 。そのほとんどが北棟で発生したものであり、南棟からの転落・飛び降りによる死者は12人に満たなかった[70] 。北棟から落下した人々の多くは、タワーに隣接する道路や広場(トービン・プラザ)および3 WTCビルの屋上にたたきつけられて死亡した[70] 。消防士の1人は落下してきた人の巻き添えとなり死亡した[70] 。
北棟の101 – 105階を占めていた投資銀行のキャンター・フィッツジェラルド(英語版 ) では、他の雇用主を大きく上回る658人もの従業員が犠牲となった[71] 。キャンター・フィッツジェラルドの直下、北棟の93 – 100階を占めていたマーシュ・アンド・マクレナン では358人の従業員が犠牲となった[72] [73] 。南棟のエーオン では175人の従業員が犠牲となった[74] 。
アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) は、事件発生当時のワールドトレードセンター・コンプレックスには約1万7400人の民間人が存在したと推定している。港湾公社のターンスタイル による記録では、午前8時45分には(通常は)1万4154人がツインタワー内に存在したことが示唆されている[75] [76] 。ジェット機が直撃した階よりも下のフロアに居た人々は、その大半が安全にタワーから避難することができた[77] 。ツインタワー南棟の崩壊時、当時南棟に居た民間人、消防士ならびに警察官は全員死亡し、タワー周辺の道路やビルでも多数の死者が生じた[78] 。北棟の崩壊時には、12人の消防士、1人の警察官、および3人の民間人が崩壊を免れた非常階段に守られる形で生き残ったが、それ以外に生存者はいなかった[79] [80] 。
救助活動 炎上するワールドトレードセンター北棟・南棟から市民を救助するため、ニューヨーク市消防局 は過去に例のない大規模な動員を行い、200以上(全体の約半数)の消防部隊がの現場に派遣された[81] 。また、多くの非番の消防士も自主的に救助活動に参加した[81] 。
ニューヨーク市警察 は緊急出動部隊(ESU)を含む多数の警察官を救助のために動員したほか、航空隊のヘリコプター 3機を現場に派遣したが、北棟・南棟からのヘリコプター救助は炎と煙による極端な悪条件により不可能と判断された[82] 。その他、港湾公社警察所属の警察官も多くが救助活動に参加した[82] 。
消防隊やヘリコプターは9時00分までに現場に到着し、救助を試みていた[47] 。
国防総省本庁舎(ペンタゴン) アメリカン航空77便が国防総省本庁舎に突入した瞬間の映像 炎上する国防総省本庁舎と突入したアメリカン航空77便の破片 午前9時37分45秒、ハイジャックされたアメリカン航空77便(AA077; ボーイング757 )が、バージニア州 アーリントン郡 のアメリカ国防総省 本庁舎(ペンタゴン)に突入した[48] 。アメリカン77便はビルの西壁に衝突して爆発炎上し、AA077便の乗客・乗員全員が死亡したほか、ペンタゴンに居た125人の国防総省職員(民間人70人、軍関係者55人)が死亡、106人が重傷を負った[83] 。
AA077便の衝突と続いて発生した火災によってペンタゴンは激しく損傷し、ビルは部分的に倒壊した[84] 。ペンタゴンに突入する直前、旅客機の翼 は地上の街灯 をなぎ倒し、さらに発電機 に接触した[85] [86] 。77便はペンタゴン西側外壁の1階部分に激突したが、衝突の瞬間にボーイング757の胴体前部はバラバラになり、その後一瞬のうちに機体中央部と尾翼部が勢いを保ったまま外壁を突き抜けた[87] 。最も深くまで到達したのは尾翼部の破片であり、5層ある外壁のうち3層を突き破り、94 m内側まで貫通していた[87] [88] 。その後10時10分には、衝突で損傷したビルの一部分が倒壊した[89] 。ビルの倒壊部分は最大で幅29 m、奥行き15 mにわたった[90] 。77便の衝突からビルの崩壊まで時間的猶予があったため、4 - 5階に居た職員は全員が安全に避難することができた[91] 。旅客機の突入時、ペンタゴンでは約1万8000人が働いていたが、この数字は1998年に始まった改修工事によって通常より4,000人ほど少なかった[92] 。
この直前に起きたワールドトレードセンター・ツインタワーへの他の飛行機の突入の影響で情報は錯綜し、最初の報道は単にペンタゴンが爆発炎上したというだけであったが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によってアメリカン航空機が北側から旋回して激突したとの目撃が証言され報じられた。さらに激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、すぐにFBI によって回収、捜査された。
防空状況 テロ当日は北アメリカ航空宇宙防衛司令部 (ノーラッド)の年に一度行われる訓練の日であり、東海岸 から離れた場所で万全の防空体制で訓練に当たっていたはずだった。しかし連邦航空保安局 からアメリカン航空11便ハイジャック発生の第一報が入ったのは8時40分ごろで、マサチューセッツ州のケープコッド 南西部にあるオーティス空軍州兵基地[93] からF-15戦闘機 2機がスクランブル発進したのは8時52分だった。
スクランブル発進したF-15はアメリカン航空11便を追跡するよう命じられたが、発進した時AA011便はすでにツインタワー北棟に突入した後だった。管制室は途中からユナイテッド航空175便を追跡させているという認識だったが、状況の把握が不十分で、パイロットも何を追跡しているか認識できていなかった。同機は一旦ロングアイランド湾で待機するよう命じられ、ニューヨーク上空への進入を命じられたのはUA175便がツインタワー南棟に突入した後だった。しかしF-15には旅客機攻撃の権限が無く、突入を止めることは不可能だったとされる(進路妨害は可能だったという指摘もある)。
ワシントンD.C.には、ノースカロライナ州 上空で訓練していたF-16戦闘機 3機が呼ばれたが、飛来したところで基地への着陸待機を命じられた。3機はアメリカン航空77便の追跡を命じられ再度離陸したが、もともと訓練中だったために燃料が不足し始め、うちの2機は訓練用の模擬弾しか装備していなかった。9時30分に別のF-16が3機発進し、ワシントン近くに飛来したが、これらには攻撃用のサイドワインダーAAM が装備され、旅客機撃墜の権限が与えられていた。しかし、結局AA077便(アメリカン航空77便)に合流することは無く、9時38分にペンタゴンへの攻撃の阻止には至らなかった。
オハイオ州 上空を飛行していたユナイテッド航空93便の付近で、積荷の搬送を行っていたC-130輸送機 が、管制官からUA093便を捕捉するように命じられた。C-130はUA093便墜落の際、17マイル (27 km )離れたところに位置していた。
ノーラッドから10時6分にスクランブル発進命令があった2機のF-16が発進したのは10時16分だった。別の2機のF-16が93便を追跡していたという話もある[要出典 ] が、公式な発表にはない。さらに事故から約10分後に現場のはるか上空を戦闘機らしい航空機1機が通過するのを目撃された。ノーラッドは連邦航空局から93便墜落の報告を受けたのは10時15分で、10分近く93便の追跡を続けさせていた。
連邦航空局がアメリカ合衆国中のすべての空港の閉鎖の措置を決定したのはワールドトレードセンターへの2度目の突入の直後からで、9時45分に全米の空港からの民間機の離陸が停止され、飛行中のすべての民間機は直ちに最寄の空港へ着陸するよう通告された。民間機の飛行禁止は3日間にわたり、常に5,000機以上が飛んでいた航空機がアメリカ上空、そしてアメリカが管制を担当する空域から姿を消した。
アメリカ政府首脳の動き 本事件の発生当時、ジョージ・W・ブッシュ 大統領 はフロリダ州 に滞在していた。当日は教育政策の成功をアピールする為に同州サラソータ にあるエマ・E・ブッカー小学校 の授業を視察し、午後にはワシントンD.C.に戻って共和党 議員とのバーベキューが行われる予定だった[94] 。1機目のツインタワー攻撃の際には小学校 へ向かう専用車の車中にいたが、このときは(多くのメディアが速報した様に)単なる航空事故だと考えていたとされる。ただし、一時的にホワイトハウス との間で電話会議が行われた。また補佐官ら周辺も同じように事故と考え、予定通り小学校へ入った[要出典 ] 。
エマ・E・ブッカー小学校で連絡を行うブッシュ大統領 大統領専用機内でチェイニー副大統領との連絡を行うブッシュ大統領 授業視察中に2機目のツインタワー突入があり、数分後、ブッシュ大統領がアンドリュー・カード 首席補佐官から2機目の突入と「合衆国が攻撃されている可能性がある」との報告を受けたが、ブッシュは「無駄な動揺を与えないために」との理由ですぐに動かずに7分間、小学生の朗読を聞き続けていた。朗読が終わるとブッシュ大統領は小学生を褒め、ただちに隣室で補佐官と話し、電話でコンドリーザ・ライス 国家安全保障担当補佐官 と州知事に連絡した。その後、テレビカメラで「アメリカが攻撃を受けた」と小学生の前で国民へ呼びかけ、9時30分頃に小学校から車列とともに出発、3マイル (5 km) のところにある空港へ向かった。
9時55分に、大統領専用機 「VC-25 」が目的地を決めないまま離陸、地上からの攻撃を避けるため直後に急上昇した[95] 。この時点では護衛の戦闘機 は無かった。国内上空には未だに連絡の取れない旅客機が11機あったが、管制の指示で地上に降ろし、国内空域は大統領専用機と哨戒機 だけになった。航空管制からは自由に飛行してもよいとの許可があり、機長が行き先を尋ねた際に大統領はワシントンを指示した[95] 。アンドリュー・カードは国民に声を伝えるべきと進言したが[95] 、当時専用機からは生の声明発表ができなかったため、一度ルイジアナ州 バークスデール空軍基地 に立ち寄り、国民に向けた声明発表を行った。ここでは有事の際に大統領が軍を指揮するために搭乗するE-4B ナイトウォッチ も随行していたが、乗り換えはしなかった[95] 。その後、ネブラスカ州 オファット空軍基地(英語版 ) (E-4B ナイトウォッチが所属する基地)で事態の沈静化を待ち、夕刻にメリーランド州 アンドルーズ空軍基地 (大統領専用機が所属する基地)経由でワシントンD.C. へ帰還した。専用機は通常、国内でのフライトでは戦闘機の護衛を受けないが、この日のオファット基地からアンドルーズ基地へのフライトでは、国内では初めてゼネラル・ダイナミクスF-16戦闘機 の護衛を受けて飛行している。戦闘機は大統領専用機からパイロットの顔が判別できるほどの至近距離を飛行していた[95] 。
ホワイトハウスではリチャード・チェイニー 副大統領 らが執務を行っていたが、ツインタワーへの2度目の攻撃の直後、シークレットサービス につれられて、地下6階の地下壕 へ避難した。
ドナルド・ラムズフェルド 国防長官 は上級軍人と朝食をとった後、ペンタゴンの執務室へ入って議員と懇談していた。ラムズフェルド国防長官にツインタワー「攻撃」の知らせが入ったのは、ペンタゴン攻撃のわずか2分前であり、アメリカン航空77便がペンタゴンに向かっていることは知らなかった。また、平時のペンタゴンにはホワイトハウスのような防空装備がない。攻撃の後、ラムズフェルド国防長官が建物の外へ出ると女性職員が血を流して倒れていたため、彼女を抱えて避難し、担架に乗せ救急車が来るまで看病していた。現場から避難したのはその後で、数十分が経過していた。
コリン・パウエル 国務長官 は、事件当時南米 ペルー を実務訪問中であったが、ツインタワーおよびペンタゴンへの攻撃の報告を聞いて、すぐに政府専用機でアメリカ合衆国に帰国した。
なおロシア連邦 のウラジーミル・プーチン 大統領 は、この一報に対し「アメリカ合衆国軍が必要な動員をかけたとしても、直ちにロシア連邦軍 に迎撃体制を取らせることはない」とホットライン でブッシュ大統領に告げた。ロシア連邦軍にはアメリカが大規模な動員をかけるとそれに反応するように指揮系統が準備されている為であった。
テロの実行者 ウサーマ・ビン・ラーディン オサマ・ビン・ラーディン(1997年撮影) アメリカ同時多発テロ事件の首謀者は、イスラーム過激派 テロ組織「アルカーイダ 」の指導者ウサーマ・ビン・ラーディンとされている[96] [97] [98] 。当初、ビン・ラーディンは事件への関与を否定していたが[99] 、2004年には一転して同時多発テロ事件への関与を公に認めた[100] [101] 。
2001年9月16日、アルジャジーラ 上でビン・ラーディンによるビデオ声明が放送された[99] 。声明の中でビン・ラーディンは、「私は攻撃を実行していないと強調する。攻撃は別の個人によって、彼自身の動機に基づいて実行されたように見える」と述べた[99] 。2001年11月、アメリカ軍はアフガニスタン東部のジャラーラーバード で1本のビデオテープを回収した。このテープにはビン・ラーディンと他のアルカイダ構成員との会話が記録されており、その中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを認めていた[102] 。
2004年のアメリカ大統領選挙 の直前、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明を発表し、アルカイダが同時多発テロ事件に関与したことを公式に認め、自らが実行犯にテロ攻撃を指示したことを認めた[103] [104] 。2006年9月にアルジャジーラが入手したビデオテープには、ビン・ラーディンとラムジ・ビン・アル=シブ(英語版 ) が、2人のハイジャック犯(ハムザ・アル=ガームディー(英語版 ) およびワイル・アル=シェフリ(英語版 ) )と共に同時多発テロの準備をしている模様が記録されていた[105] 。ビン・ラーディンは、同時多発テロ事件に関してアメリカ政府当局から正式に起訴されたことはなかったが、ケニア の首都ナイロビ とタンザニア の首都ダルエスサラーム におけるアメリカ大使館爆破事件 に関する容疑でFBI10大最重要指名手配 者に指定されていた[106] [107] 。
2011年5月2日、10年間の追跡の末に、アメリカ軍特殊部隊はパキスタンのアボッターバード に潜伏していたビン・ラーディンを急襲の上で殺害 した[108] [109] 。なお、この時の映像は当時のオバマ大統領ら閣僚に生中継された。
動機 ウサーマ・ビン・ラーディンが1996年 に発表した対アメリカ宣戦布告と、1998年 に発表したアメリカ国民の無差別な殺害を呼びかける布告は、ビン・ラーディンの動機を示す証拠として扱われている[110] [111] 。ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島 に常駐することは預言者 ムハンマド によって禁じられていると解釈しており[112] 、湾岸戦争 が勃発した1990年8月以降アメリカ軍がサウジアラビアに駐留していることに強い怒りを抱いていた[113] 。
1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「ファトワー (布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対するジハード (聖戦)を宣言すると共に、異教徒であるアメリカ人をアラビア半島 から駆逐するよう全世界のムスリムに呼びかけた[113] 。1998年2月、ビン・ラーディンは第2の「ファトワー」を発し、アメリカ軍によるサウジアラビア駐留へ再度抗議すると共に、アメリカの親イスラエル的な外交政策を批判した[110] 。1998年の「ファトワー」はさらに、世界各地でアメリカおよびその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されているアル=アクサー・モスク とメッカ の聖なるモスク を解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言していた[110] [114] 。
ビン・ラーディンは自らの直接的関与を認めた2004年の声明の中で、テロ攻撃を行った動機について以下のように述べた[115] 。
1982年 、アメリカは
イスラエル が
レバノンを侵略 することを許可し、侵略を助けるため
アメリカ第6艦隊 を派遣した……
レバノン の破壊された
タワー を目にした私の心に、我々も迫害者たちを同じやり方で罰するべきだという考えが浮かんだ。我々はアメリカのタワーを破壊して、我々が体験したものの一端を迫害者たちにも体験させるべきであり、そうすることで彼らが我々の女や子供を殺すのを思いとどまるようにすべきだと考えた
[101] 。
ハリド・シェイク・モハメド テロの発案者とされるハリド・シェイク・モハメド(画像)は、2003年に逮捕された アルジャジーラ 記者ヨスリ・フォウダ(英語版 ) の報告によれば、アルカイダ幹部のハリド・シェイク・モハメドは2002年4月に、自らが同時多発テロを計画したことを認めた[116] 。モハメドは逮捕された後の2007年にも犯行を自供した[117] [118] 。
アメリカ議会調査委員会による同時多発テロ事件の最終報告書 は、モハメドを911テロの主たる企画者として紹介しており、彼のアメリカに対する敵意は「イスラエルに好意的なアメリカの外交政策との著しい意見の不一致」に起因すると結論づけた[119] 。モハメドは1993年の世界貿易センター爆破事件 にも関与しており、主犯ラムジ・ユセフ の叔父でもあった[120] [121] 。モハメドは2003年3月1日にパキスタン のラーワルピンディー で逮捕された。
逮捕後、モハメドは複数のCIA秘密軍事施設 とグアンタナモ湾収容キャンプ に拘留され、尋問中にウォーターボーディング を含む拷問を受けた[122] [123] [124] 。2007年3月にグアンタナモ湾 で行われた聴聞会において、モハメドは自らには「9月11日の作戦について初めから終わりまで全ての責任があった」と証言した上で、この証言は強要の下でなされたものではないと述べた[118] [125] 。
その他のアルカイダ構成員 バージニア州東部地区連邦地方裁判所(英語版 ) がザカリアス・ムサウイ の裁判中に使用した資料であるSubstitution for the Testimony of Khalid Sheikh Mohammed は、同時多発テロ計画の全貌を事前に把握していたアルカイダ構成員として、ビン・ラーディン、モハメド、ビン・アル=シブ、ムハンマド・アーティフ 、アブ・トゥラ・アル=ウルドゥニ(英語版 ) の5名を挙げている[126] 。
同時多発テロ事件において重要な役割を担ったテロリストの多くは、ドイツ のハンブルク に拠点を置くイスラーム過激派集団(通称ハンブルク・セル(英語版 ) )に所属していた[127] 。事件当日にハイジャック機のパイロット役を務めたモハメド・アタ とマルワン・アル=シェヒ(英語版 ) およびズィアド・ジャッラーフ(英語版 ) に、調整役のラムジ・ビン・アル=シブ(英語版 ) を加えた4人が「ハンブルク・セル」の中心的メンバーであり、彼らはアフガニスタン訪問時にアルカイダ指導部によってテロの実行者に任命されていた[128] 。
同時多発テロの計画と実行犯の準備 モハメド・アタ ら「ハンブルク・セル」が1998年から2001年まで使用していたハンブルク のアパート同時多発テロ計画の考案者はハリド・シェイク・モハメド であり、モハメドは1996年 に初めて計画をウサーマ・ビン・ラーディン に提示した[129] 。当時、ビン・ラーディンとアルカイダはスーダン からアフガニスタンに拠点を移したばかりであり、一種の過渡期にあった[130] 。1998年 にビン・ラーディンが発した、「アメリカ人の殺害はムスリムの義務である」とする自称「ファトワー 」とされたものと、同じく1998年に発生したアメリカ大使館爆破事件 は、ビン・ラーディンが攻撃の焦点をアメリカに定めたことを示す1つの転換点となった[131] 。
1998年末もしくは1999年 の初め頃、ビン・ラーディンはモハメドが同時多発テロ計画の準備に着手することを承認した[132] 。1999年春には、モハメドとビン・ラーディン、およびビン・ラーディンの代理人ムハンマド・アーティフ が参加する会合が立て続けに開かれた[133] 。アーティフは、ターゲットの選定やハイジャック犯のための渡航の手配など、テロ計画の作戦面での支援を提供した[130] 。モハメドの提案は一部ビン・ラーディンによって却下され、ロサンゼルス のライブラリータワー のようないくつかのターゲット候補は、「攻撃の準備をするのに必要な時間が不足している」ことを理由に拒否された[134] [135] 。
ビン・ラーディンはテロ計画の統率と資金援助を担当し、計画を実行するテロリストの選抜にも関与した[136] 。当初、ビン・ラーディンはナワフ・アル=ハズミ(英語版 ) とハリド・アル=ミフダール(英語版 ) というボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 で戦った2人の熟練戦闘員をハイジャック機のパイロット役に任命していた。2000年 1月中旬、アル=ハズミとアル=ミフダールはアメリカに到着し、2000年春にはサンディエゴ で飛行訓練を受けたが、2人はほとんど英語を話せず、また訓練の成績も悪かったため、最終的にはパイロット役以外のハイジャック犯(武力による制圧要員)としてテロに参加することとなった[137] [138] 。
1999年後半、モハメド・アタ 、マルワン・アル=シェヒ(英語版 ) 、ズィアド・ジャッラーフ(英語版 ) 、ラムジ・ビン・アル=シブ(英語版 ) らドイツ・ハンブルク在住のイスラーム過激派の一団が、アフガニスタンのアルカーイダ訓練キャンプを訪問した[139] 。ビン・ラーディンは、彼らが高い教育を受けており、また英語が堪能で欧米での生活に慣れていることを評価し[140] 、テロ計画の中核となる実行メンバーに抜擢した[128] 。その後、2000年にはアガニスタンの訓練キャンプにハニ・ハンジュール(英語版 ) という新兵が加入した[141] 。ハンジュールは1999年にアメリカで職業操縦士免許を取得しており、その事実を知ったアルカーイダは彼をテロ計画に参加させた[141] 。
ハンブルク在住のテロリストの内、アル=シェヒは2000年5月末に、アタは2000年6月3日に、ジャッラーフは2000年6月27日に、それぞれアメリカに到着した[141] :6 。ビン・アル=シブは渡米のためアメリカのビザ を何度も申請したが、イエメン 国籍であったため、有効期限を過ぎて不法滞在することへの懸念からビザが発給されなかった[141] :4, 14 。ビン・アル=シブは渡米を諦めざるを得ず、ハンブルクに留まってアタとハリド・シェイク・モハメドの間の調整役を務めることとなった[141] 。アメリカに渡った3人の「ハンブルク・セル」メンバーはフロリダ州 南部の航空学校で飛行訓練を受けた[141] :6 。一方、ハニ・ハンジュールは2000年12月8日にサンディエゴに到着し、アル=ハズミと合流した[141] :6–7 。2人はその後すぐにアリゾナ州 に向かい、ハンジュールはそこで操縦の再訓練を受けた[141] :7 。
2001年春には、パイロット役以外のハイジャック犯もアメリカに到着し始めた[142] 。2001年7月、アタはスペイン でビン・アル=シブと会い、攻撃目標の最終的な選択等、テロ計画の調整を行った。その際、ビン・アル=シブはアタに、ビン・ラーディンができるだけ早いテロ攻撃の実行を望んでいることを伝えた[143] 。9月7日 には在日アメリカ大使館 が「日本国内に滞在するアメリカ人に対してテロ攻撃の可能性がある」ことを発表していた[144] が、アメリカ国内のテロ攻撃の警報は出されないままであった。
実行犯の一覧 出典:[145]
報道 ニューヨークやワシントンには世界中の報道機関 が本社・支社・事務局を置いているため、一連の事件は、テレビ・ラジオ・インターネットなどを通じて全世界にリアルタイムで伝えられた。連日、新聞や週刊誌なども最大級の扱いで事件を伝えた。
当日およびその後のテレビ報道はインターネットアーカイブ で保存公開されている[146] [147] 。1機目の激突は、数カ月前から地元消防署の日常を密着取材していたフランスのテレビ局から派遣されていたビデオジャーナリストのノーデ兄弟によって偶然撮影(ガス漏れの通報があり、出動していた消防隊に同行していた)され翌日に報道されている。2機目の旅客機が激突する瞬間は、上記のようにプロやアマチュアを含む多くのカメラマンに撮影されている。
アメリカ国内 事件の放送を行うアメリカのテレビニュースを見つめるプラハ 市民 1機目が突入したニューヨーク 時間(アメリカ東部夏時間 )8時46分はテレビ 各局が朝のニュースショーなどの最中で、CNN は8時49分から、ABC ・CBS など他のテレビ局も8時50分前後から特別報道番組を開始、ロウアー・マンハッタン (WTC所在地)方面を向く情報カメラや報道ヘリコプター が建物の様子を伝え始めた。この時点では「小型機がビルに誤って衝突した事故」と報じるものが多かったが、中継の最中の9時3分、ツインタワー南棟にユナイテッド航空175便が突入した。2機目の突入以降、各テレビ局はテロの可能性が高いと論調を変えることになった。その後、9時30分にブッシュ大統領の演説が各局で中継される。
その後もツインタワーの炎上と崩壊、アメリカン航空77便のペンタゴン攻撃、93便の墜落(報道されたのは墜落してから30分以上たってからだった)など事態が続き、報道は週末の16日(日曜日)深夜まで休むことなく続いた。特にネットワーク3局の夕方ニュースのアンカーは最長で1日17時間にわたって伝え続けた。この週は新番組が始まる時期だったので、軒並み放送が順延され、内容変更を強いられた番組もあった。
また、国外向けの放送局であるCNBC (ヨーロッパ/アジア向け、本部はアメリカ国内)やCNNインターナショナル でも、本来あまり放送されない国内向けの放送を全編放送し続けた。
イギリス イギリス は昼過ぎであった。BBC においてはテレビ国際放送・BBCワールド(現・BBCワールドニュース) 内で速報として13時前に炎上するワールドトレードセンターを映し出したのが第一報であった。午後1時からのニュース番組を始めた直後、2機目の突入の瞬間を生中継した。トニー・ブレア 首相 は14時30分ごろ、出席していたブライトン での労働組合会議の場で「深い哀悼」の意を伝えた。
日本 以下、日本 における報道については日本時間 を使用する。なお、日本時間は現地の時間(アメリカ東部夏時間 (UTC-4 ))より13時間進んでいる。当時の状況の主軸である世界貿易センタービルへの航空機衝突と崩壊の時刻 を太字 で示す。なお、日本ではワールドトレードセンター・ツインタワーの名称を「世界貿易センタービル」と報道した。
テロ発生直前の報道内容 2001年9月11日は台風15号 と台風16号 が前日から関東地方 と沖縄 を襲って多くの被害をもたらしたほか、9月1日 に発生した歌舞伎町ビル火災 の原因究明、9月10日 に国内で初めて狂牛病 疑いのある牛が千葉県 で発見されるなど、この日のニュース番組 では重大ニュースが多数報道されていた。
2001年9月11日21時46分、1機目のアメリカン航空11便が世界貿易センタービル北棟へ衝突 22時前後、「ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が激突(1機目のアメリカン航空11便)」という情報が各局のニュース番組またはニュース速報[注釈 1] で一斉に伝達された。この時点では殆ど情報が集まっておらず、詳細な状況は不明であった。
テレビ朝日 (ANN ) では、定時の21時54分より「ニュースステーション 」の放送を開始した。冒頭からCNN の映像をそのまま放送しており、1機目激突後の時点ではまだ事故と考えられていたため、1機目の激突により炎上する北棟の映像をしばらく流した後、台風関連のニュースを伝えていた。なお、この時メインキャスターの久米宏 は夏季休養中であり、久米の進行はサブキャスターである渡辺真理 が務めた。
22時開始の「NHKニュース10 」(NHK総合テレビ )[148] も、オープニング直後のヘッドラインは台風 のニュースなどを流していた。しかし、ヘッドライン終了後キャスターの堀尾正明 が「台風のニュースをまずお伝えしようと思ってたんですが、たった今こういうニュースが入ってきました」と切り出し、1機目激突の第一報を伝え、間もなくABCニュース の中継映像で炎上する世界貿易センタービルの姿が映し出された。
この時点ではまだ「事故」か「事件」かは明言されていなかった。報道機関は1機目衝突の瞬間を捉えておらず、消防士の取材をしていたカメラマンが撮影した1機目の映像も翌日まで放送されていなかった。ただ「ニュース10」に出演していたコメンテーターは、晴天時での不可思議な衝突という状況を理由として、2機目衝突前からテロの可能性を指摘していた。CNNでも同じような理由からテロの可能性が指摘されていたが、同時に、1945年 7月28日 にエンパイア・ステート・ビルディング にアメリカ陸軍 のB-25 爆撃機が衝突した事故 を例に挙げ、操縦ミスによる突発的な事故である可能性も指摘していた(なお、この事故当時は深い霧が出ていた)。また、CNNなどでは「ボーイング737 などの小型の双発ジェット機」が衝突したと伝えていたものの、英語の翻訳ミスからか、日本ではこの時点で「激突した航空機は小型の双発機 」であるとの情報が報道されていた。しかし「小型」の根拠や「双発機」という語の解説がなされないなど情報が錯綜していた。
2001年9月11日22時3分、2機目のユナイテッド航空175便が世界貿易センタービル南棟へ衝突 ABCニュース の中継映像をそのまま放送していた「NHKニュース10」では、2機目の突入の瞬間が生中継された[149] 。映像では画面右側から飛行機が現れ、炎上する北棟(第1ビル)の真後ろに隠れるように見えた。そこには南棟(第2ビル)があり、数秒の後、南棟を襲った巨大な爆発によって炎と黒煙が上がる様子が映し出された。画面を通して見れば、1機目の激突で炎上する北棟が2度目の大爆発を起こしたように見え、NHKニューヨーク支局の記者は単に「今、また爆発がありました」と伝えた。これに対して堀尾が「今、2機目の飛行機が突入したように見えましたが」と聞き返した。
「ニュースステーション」では台風関連のニュースを伝えていた間に2機目の突入が起こったため、突入の瞬間は生放映されなかったものの、すぐに再びテロ関連のニュースに切り替えられた。この時、コメンテーターの萩谷順 が「先週末からアメリカの情報機関により『中東のテログループがアメリカの利益を代表する建物ないし組織に対してテロを行おうとしている』との警告が流されていました」と述べている。
22時20分頃、NHKは「旅客機がビルに激突したとみられる」と伝えた。22時30分、フロリダ州 の小学校を訪れていたブッシュ大統領が演説で「明らかなテロ」と発言した。22時45分頃、「ペンタゴン (国防総省)が炎上」というニュースが各局で伝えられ、一連の事件が「同時多発テロ」であるとの見方が固まった。間もなく炎上するペンタゴンの映像が映し出され、爆発・火災の原因が3機目の旅客機の可能性があると伝えられた。旅客機がハイジャックされていたという内容の現地メディアの報道も日本国内に伝えられ始めた。
これらの各ニュース番組では放送予定だった他のニュースより優先して、ニューヨーク・ワシントンとの中継映像が放送され続けた。時間(事件の拡大)とともに民放各社も次々に通常番組を打ち切り、臨時ニュースの放送を開始した。TBS 系列では22時37分、放送中の毎日放送 制作「ジャングルTV ~タモリの法則~ 」を途中で打ち切り[150] 、「筑紫哲也 NEWS23 」を前倒しで開始[151] [注釈 2] 。フジテレビ 系列では、関西テレビ 制作のテレビドラマ「ウソコイ 」最終回を放送していたが、番組の途中で「ニュースJAPAN 」キャスターの田代尚子 アナウンサーによるニュースを何度か流した後、ドラマ終了直前の22時45分から報道特番を開始した[152] 。独立UHF局においても、通常時はテレビ東京 のニュースをネット受けしない三重テレビ は、この日は「ワールドビジネスサテライト 」を臨時ネットした。21時から「火曜サスペンス劇場 」を放送中の日本テレビ はCMと本編の間に「NNNきょうの出来事 」キャスターの井田由美 アナウンサーによる短いニュースを挟んだ[注釈 3] が、番組自体は休止しなかった(同局は次番組のきょうの出来事以降、本格的な特番体制に入る)。
2001年9月11日22時59分、世界貿易センタービル南棟が崩壊 ワールドトレードセンターの崩壊直後の煙の様子 NHKではワシントン支局と中継を結んでいる間にそれが起こり、途中で当時の支局長手嶋龍一 の発言を遮るようにニューヨークに画面が切り替えられた。片方のビルが姿を消し、大量の煙に覆われたニューヨークと、 NHKのカメラが路上から撮影した南棟崩壊時の映像(この映像はNHKが世界で唯一デジタルハイビジョンカメラ で撮影した映像である)が映し出された。これらの映像は二棟が重なるアングルであったため崩壊の程度が分かりにくく、当初は「ビルの一部が崩壊した」とも伝えられていた。また、ワシントンの各所で爆発が相次いだという誤報が流れ、画面に「アメリカで同時テロ」の字幕が映し出された。
2001年9月11日23時28分、世界貿易センタービル北棟が崩壊 この時もNHKはスタジオを映していて2つのビルの崩壊の瞬間はいずれも中継されなかった。しかし間もなく、巨大な超高層ビルが上部から完全に崩壊し、膨大な瓦礫と化してマンハッタン南部が煙で覆いつくされる衝撃的な映像が放送された。さらに23時40分頃には、4機目(ユナイテッド航空93便)がペンシルベニア州西部に墜落したというニュースが伝えられた。NHKアナウンサーの堀尾は次々と起こる惨劇を報道する中で「大変ショッキングな映像ですが、現実の映像です」と発言した。
日本のほぼ全てのメディアは、翌日の明け方までテロに関する情報を伝え続けた。
民放テレビ局は深夜のCM が全面休止され終夜放送を行った。 深夜から早朝にかけての民放テレビではTBS、フジテレビなどCMの全面カットを行った局があったものの、日本時間翌朝以降は民放テレビ局のCM枠こそ再開されたが、一部企業のCMが順次自粛され、その穴埋めとして公共広告機構(現・ACジャパン )のCMに差し替えられた[注釈 4] 。 NHKはテロ発生直後から、総合テレビとBS1 を中心に9月12日 夜まで断続的にテロ報道を実施(総合テレビの連続テレビ小説 「ちゅらさん 」は通常通り放送、大相撲 秋場所については幕内の取り組みに限定して放送時間を短縮して放送した)。それ以後も深夜1-5時に予定していた「ミッドナイトチャンネル 」で放送する予定の番組を休止して、毎時00分からの臨時ニュースに充てた。 ラジオ も、NHKラジオ第1放送 (23:20から)、NHK-FM放送 (1:00から飛び乗り)の「ラジオ深夜便 」を急遽全編休止し、断続的に翌朝までテロ報道に充てたほか[注釈 5] 民放のAM放送 はローカル局まで含めてほぼ全局が特番体制となり、FM放送 民放局は番組編成自体は通常体制としながらもMCによる状況アナウンスが小刻みに入れられた。日本の放送メディアにおける海外の非常事態の終夜放送は、1991年 1月17日 に勃発した湾岸戦争 (多国籍軍 による空爆開始)以来であった。また駐日アメリカ軍 向けに英語 でラジオ放送を行うAFN も通常放送を中断してニュースを伝え続けると同時に、アメリカ軍の警戒態勢や行動上の注意を喚起する内容の放送を、ニュースの合間に繰り返し行っていた。
2001年9月12日6時25分、世界貿易センターの第7ビルが崩壊
8時30分ごろ、日本人大学生1人がユナイテッド航空93便に搭乗していたと報道された。9時30分からブッシュ大統領がホワイトハウスで行った演説が中継され、10時20分から小泉純一郎 首相 、福田康夫 官房長官 が首相官邸で記者会見を開始した。午後1時50分ごろ、1機目激突の瞬間を撮影したカメラマンの映像が放送された。こうしてこの日もほとんどテロ事件関連ニュース一色となった。夜のゴールデンタイム 枠ではお笑い・バラエティ番組が休止され、特別番組が放送された(テレビ朝日では「ニュースステーション」を1時間前倒しして放送、TBSではナイター 中継を通常時間より1時間短縮し、特別番組を放送)。
テレビでは、事件から1週間程度の期間は、通常番組を休止あるいは放送延期等を行い特別報道番組を放送する局もあった。新聞各紙も一面に大見出しで事件を伝えたほか、号外も発行された。事件が朝刊各版の締め切り間際に立て続けに起こったため、各新聞は配達先によって記事内容が一部異なっている。多くの週刊誌 も特集を組むなどして大きく事件を伝えた。
当時、CNNインターナショナル を日本国内の衛星放送・ケーブルテレビ局向けに配信していたJCTV では、この事件を受け、急遽通常は行っていない深夜帯の同時通訳を行った。後に当時の同時通訳陣の心境をまとめた短い記事を、同社CNN紹介ウェブサイト内に期間限定で掲載している。
情報の錯綜 「同時多発テロ」と呼ばれるように複数のテロが短時間に連続して発生した[注釈 6] 。当時の社会において、従来型の「テロ」や「犯罪」の概念を超越した規模だったため、時事刻々と変化する状況に対して報道機関の対応が追いつかず、情報が錯綜した状況が続いた。
当時はインターネットの回線速度が遅い上に、情報共有が可能なWebサイトが電子掲示板 しか存在せず、カメラ付き携帯電話 やSNS もまだアメリカでは普及していなかったため、一般人からのリアルタイムな情報共有にも期待できなかった。
事件当日から事件翌日の日本もしくはアメリカの各新聞・テレビ報道において確認された誤報の一部として、下表のようなものがあげられる。日本の新聞における誤報については訂正が締切時間に間に合わず、結果的に翌12日の朝刊のいくつかの掲載が誤報になった例も含まれている。
これらの状況はアメリカ合衆国などにおいても同様で、事件発生当初は激突した航空機も中型のジェット旅客機 ではなく小型民間機(小型の単発もしくは双発プロペラ 機など)と報道されていた。またユナイテッド航空93便がクリーブランド・ホプキンス国際空港 に着陸したという内容の速報記事も報道されたが、後にデルタ航空1989便 をUA093便と混同していたことが判明し、誤報として訂正された[153] 。この他にもBBCはテロ攻撃の直後にハイジャック犯とされる人物の情報を発表したが、その後その内の数人が存命中の別人であったことが判明すると情報を修正した。BBCは後に当時報告された氏名がアラブ人やイスラム教徒に多く見られるものであったため。初期での混乱が起きたのだろうと釈明している[154] 。また、これらの情報の混乱が根拠のない陰謀説や都市伝説が起きるきっかけになった。
映像・写真など テレビでは事件発生直後から、さまざまな場所・方向から記録された映像が放送された。特に旅客機がワールドトレードセンターなどの被害を受けた建物に突入する瞬間や、ツインタワーの上層階から飛び降りる人、ツインタワーが崩れ落ちる衝撃的瞬間をとらえた映像は1週間近くにわたり何十回、何百回となく繰り返された。しかしこれは数千人が殺害された瞬間にほかならず、遺族や関係者、さらには子供にショック やトラウマ を与える可能性が懸念され、次第に自粛を要請する声が上がった。やがてニュースでこの事件の映像が放送されるときも、こうした「衝撃映像」は少なくなった。
ユナイテッド航空93便の残骸 事件後の新聞各紙や週刊誌などには、ビルが炎上・崩壊する写真のみならず、血まみれでうずくまる市民や炎上しているツインタワーの上層階から飛び降りる人の写真などが大きく掲載された。アメリカ合衆国では後者の写真をめぐって論争が起こった。アメリカ国民の大多数が信仰するキリスト教 は自殺 を禁じているからである。2006年にイギリス で製作されたドキュメンタリー「The Falling Man 」は、この論争を取り扱ったものである。
一連の事件を記録した写真や映像は、各マスコミ のみならずマグナム・フォト のようなプロフォトグラファー、あるいは事件を目撃し撮影した市民によって大量に残された。マグナムは「NEW YORK SEPTEMBER 11」と題して写真集を発売した(日本版あり)。ニューヨークでは事件後に写真展覧会が行われ、それらの写真はインターネットで公開されたほか、「HERE IS NEW YORK」と題した写真集として発売されている。
2006年 に公開されたユナイテッド航空93便を描いた映画「ユナイテッド93 」や、「ワールド・トレード・センター (映画) 」でも、事件を伝える当時のテレビ局の映像が使われている。なお「ユナイテッド93」では当時の様子を極力再現するため、情報伝達の混乱や誤りなどがそのまま伝えられている。
被害者に関する情報 テロによる犠牲者 事件現場に張られた行方不明者の安否を尋ねる張り紙 この無差別テロ 事件における死者は合計2,996人、負傷者は6,000人以上とされている[3] 。テロリストを除いた犠牲者は2,977人であり、ワールドトレードセンターへの攻撃による犠牲者は2,753人[2] 、アメリカ国防省(ペンタゴン)への衝突による犠牲者は184人[2] [162] 、ユナイテッド航空93便の墜落による犠牲者は40人だった[3] 。
ワールドトレードセンターの現場での犠牲者2,753人には、ニューヨーク市消防局 の消防士 343人と[2] [163] 、71人の警察官(ニューヨーク市警察 本部の警察官 23人、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社警察 の警察官37人を含む)が含まれている[2] [164] [165] 。
2,996人の死者の内訳は、ハイジャックされた4機の旅客機の乗員・乗客が265人(テロリストを含む)、ワールドトレードセンターでの死亡者が2,606人[155] 、アメリカ国防省での死亡者が125人とされている[2] [162] 。
このテロ攻撃では270人から400人のユダヤ人 が犠牲になったと推定されている[166] [注釈 8] [167] [168] 。またこれに関連してアメリカ合衆国国務省 は76人分のユダヤ人犠牲者のリストの一部を公開した[169] 。
2017年8月の時点でも、犠牲者全体の40%にあたる1,112人の遺体がいまだ未確認の状態だった[170] 。多くの遺体がばらばらになって散乱しており[171] 、2006年には南棟に隣接するドイツ銀行ビル(英語版 ) の屋上で無数の遺骨の破片が発見された[172] 。
なお、日本人の犠牲者は24人に及んだ。
WTCツインタワー両棟崩壊による健康被害 ツインタワー崩壊後に破片に覆われたパトカー 現場はワールドトレードセンターの鉄骨に吹き付けられていた石綿 (アスベスト)やツインタワー内にあったコンピュータや蛍光灯からの水銀 、ベンゼン をはじめとする火災により発生した多環芳香族炭化水素 化合物等の危険な粉塵 も含まれており[173] 、救難活動を行った犬 が次々に死に、肺 に障害を訴える人が続出していた。しかし、アメリカ政府はそれを否定し、十分なデータの裏付けもないのにEPA も「空気は安全」と報知したことから、安全よりもニューヨークの復旧作業といち早いウォールストリート の営業の再開を優先したのではないかという疑惑も挙がっている。これに対して、EPA監査局はホワイトハウス の環境諮問委員会 からの圧力で安全宣言の発表に至ったという報告書を2008年8月に発表している[174] 。これによると、EPAの安全宣言はアスベストの含有量の数値など実際のサンプルがあったにもかかわらず、曖昧な表現に書き換えられた形跡もあるという。
現場で救助作業などにあたった人では、安全宣言により防塵マスク を付けなかったため、健康被害が拡大された可能性も指摘されている[175] 。このような作業員や消防士、住人を含めテロ発生時またはその直後に現場近辺にいた人では、肺疾患や白血病 、癌 などの発生が報告されており、医療機関などにより粉塵被害との因果関係が追跡調査されている[176] 。特に消防士では、精巣癌 や非ホジキンリンパ腫 、前立腺癌 、多発性骨髄腫 になるリスクが有意に高いとする論文も発表されている[177] [178] 。約3000人の作業員に対する追跡調査では、28%の人で肺機能に何らかの異常が認められている[179] 。
ニューヨーク市警察 (NYPD)など法執行機関においても、多数の警察官がテロ事件に関連した疾病(9/11 related illness)で死亡している[180] 。2016年8月までの警察官及び法執行官の死者数は110人。内訳以下の通り[165] 。
2011年 1月、健康被害を受けた消防士や警察官らに医療費補償など約42億ドルを支給する法案が成立した[181] 。
アメリカ合衆国政府の対応 非常事態宣言 ブッシュ大統領は速やかに非常事態を宣言 した。冷戦 時代につくられた政府存続計画 が初めて実行された[182] [183] 。ワールドトレードセンター・ツインタワーやペンタゴンへの攻撃がなされた後しばらくの間は、さらなるテロに備えて、州兵 、予備役 が動員された。空港などには厳戒態勢が敷かれ、全ての国境が封鎖された。また、連邦航空局の命令によりアメリカ国内の民間航空路の封鎖、アメリカ領空内への民間機の入域・通過が禁止され、領空内を飛行中の民間機は全て最寄の空港に強制的に着陸させられた。
これらの措置は数日間続いた上、この措置が行われた地域はアメリカ本土のみならず、アメリカが航空管制を担当しているサイパン やパラオ などの太平洋 諸国の一部地域や、北大西洋 の一部地域など広範囲に及んだ。これにより多くの外国人がアメリカ国内に足止めされた上に、多くの旅客機と乗客、運航乗務員と客室乗務員 が地上待機させられたため、世界各国の航空会社の運行が大混乱に陥った。
捜査 この事件においては、ハイジャック 犯の機器操作ミス(犯人側は乗客に向けて、機内放送をするつもりだったと見られるが、機内放送用のスイッチではなく、管制塔とのやり取り用の無線スイッチを押していた)によって操縦室内の会話が管制室に入るようになり、アラビア語 を話していることから、おそらくはアラブ人 が犯人 であることが早期に推測できた。
また、客室乗務員 は機内電話を使用して会社へハイジャックを報告し、犯人の特徴、人数と座席番号を伝えた。このため、航空会社は犯人の氏名、住所、電話番号 からクレジットカード の使用履歴までを把握することが可能となった。また、数名の乗客も手持ちの携帯電話や機内電話で家族や友人にハイジャックの事実を伝えた。これらの電話 の会話はほとんどが機体の破壊の時まで続いた。この内いくつかの会話は録音されており、事件捜査 に使用された。
犯人引渡し要求 ウサーマ・ビン・ラーディン(左/2001年11月撮影) アメリカ合衆国政府はこれらの捜査の結果から、このテロ攻撃がサウジアラビア人のウサーマ・ビン・ラーディン をリーダーとするテロ組織「アルカーイダ 」によって計画・実行されたと断定し、彼らが潜伏するアフガニスタン のターリバーン 政権に引き渡しを要求した。
しかしターリバーン側は、「証拠があれば引き渡す。しかし、今の段階ではアルカーイダのやったこととは断定できない」と主張し、引き渡しを拒否したが、アルカーイダの司令官のビン=ラーディンは、後にアメリカ同時多発テロ事件を実行したことを認め逃亡し、2011年5月1日に殺害された。
なお、サウジアラビアなど湾岸協力会議 を構成するアラブ諸国 もテロ攻撃を批判し、アメリカによるアフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。
以降の推移はアフガニスタン紛争 (2001年-2021年) を参照 アメリカ市民の様々な反応 愛国心 喪失感が充溢する中でアメリカ国民は、求心力を愛国的な意識を共有することに求め、速やかな報復を肯定する世論が形成されていった。具体的な物的証拠が挙げられないうちから、CNNなどのアメリカ合衆国の大手マスコミなどにおいても、イスラム原理主義を信奉するアラブ系人種によるテロ説が唱えられ(同じような事は、オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件 の際にも発生した)、流言に乗った市民によるアラブ系住民への暴行事件が多発、アラブ系男性が射殺される惨事にまで発展した。また、ヨルダン 系アメリカ人アメリカ兵がテロ後に受けた差別がきっかけにより、8年後の2009年11月5日に陸軍少佐がフォートフッド陸軍基地で銃乱射事件を起こしている[184] 。
これに対し、アラブ系アメリカ人には「Arabic Americans support U.S.(アラブ系アメリカ人は合衆国を支持する)」などと書いた横断幕を自家用車に掲げ、アメリカ合衆国の味方であることを示した者もいた。事件発生直後のテレビ報道の中で、中東 系の人々が勝ち誇ったように興奮する映像が流されるなど(本テロ攻撃との関係は全く不明)、いわゆる国家的陰謀論 に結びつくような偏った報道が事件直後から行われていたとする説もある。
(大統領時代にはビン・ラーディンを脅威と考えていた)前大統領であるビル・クリントン は、「同時多発テロ事件を見て、それが直ちにビン・ラーディンによるものだろうと考えた」と後に述べており、方法はともかくとしても、アメリカ合衆国に対するイスラム原理主義勢力によるテロ攻撃の可能性は以前から意識されていたものである。
消防隊員、警察官 炎上するワールドトレードセンター・ツインタワーに取り残された人々を救出すべく命がけでビルに突入し、ツインタワー両棟の崩壊で殉職 した消防隊員 や警察官 に対してその勇気と献身的態度を賞賛する声がアメリカ合衆国のみならず世界中から寄せられ、その遺族に対する募金 や手紙も世界各国から寄せられた。同じような賞賛は有毒物質が散乱する事件現場で遺体や遺留品の捜索を行った作業員たちにも同様に寄せられた。
テロ直後、ニューヨークの消防隊員から日本の公安職員で構成するNGO日本警察消防スポーツ連盟 宛てにSOSが発信され、同連盟から消防救助隊員11人を現地入りさせて救助活動 を実施した。世界中から多数の救助隊がテロ現場に向かいアメリカ入りしたが、アメリカ国籍以外の外国人で実際に救助活動したのは、唯一日本の救助隊のみであった。
ブッシュ大統領の支持率 事件直前、ジョージ・W・ブッシュ 大統領の支持率は50%を切っていた。そもそも、前年の大統領選挙は僅差での勝利であるために、また大統領選における大規模な混乱は選挙の正当性への議論を招いたことから、選挙直後から政権支持率は高くなかった。大統領就任後の初めての大きな事件としてその指導力が国民の注目を浴びることとなり、それがテロとの戦争として位置づけられたことから、事件直後には国民の支持率は史上最高の9割に到達、いみじくも政権最初の年から国民の支持を得た形となった。
娯楽・文化活動の自粛 崩壊したワールドトレードセンター・ツインタワーにおける捜索作業の終了に際する式典(2002年 5月28日 ) テロ以降、ニューヨークでは数々のイベントが、市民感情およびセキュリティ上から中止となり、また週末に予定されていたNFL のレギュラーシーズンも中止が決定された[185] 。
しかし、2日後にWWE がヒューストン にて興行を決行すると[186] 、ブロードウェイ のミュージカル やメジャーリーグ をはじめとする多くのイベントは、再度のテロを警戒する警察官の警護の元に程なくして再開し、「テロにひるまず通常の生活を続ける」という意思表示を行うとともに、打ちひしがれたアメリカ合衆国国民の心を慰めた。
放送自粛 これを受け、全米1200もの系列局を傘下に持つラジオ放送大手のクリアチャンネル (Clear Channel Communications ) は、事件直後に放送自粛曲リスト を作成した。リストには以下のような著名なアーティストの楽曲が多数含まれ物議を醸した。
移動手段の変化 オヘア国際空港 を訪問し、航空会社社員から歓迎を受けるブッシュ大統領(2001年9月27日)テロ攻撃の後、アメリカ人の多くがテロを警戒して民間航空機による移動を避けて自家用車による移動を選択したために、同年の10月から12月までのアメリカ合衆国における自動車事故による死者の数は前年比で約1,000人増加した。
また、アムトラック やグレイハウンド などの民間航空機以外の公共中長距離交通機関や、レンタカー の利用者も急増した。これによりグレイハウンドなどは臨時増便を行うなどして収益が改善したものの、空席が増えた航空会社の収益は悪化する結果となった。
イスラム教へのヘイトクライム 同時多発テロの後、アメリカではイスラム教 への敵意が広まり、ムスリム (男性なら頭にターバンを巻き髭を生やした人、女性ならばヒジャブ を被り顔だけ出している人)に対するヘイトクライムの数が急増した。
イスラム寺院やイスラム教の学校、中東系のコミュニティセンターには電話や手紙による脅迫が相次ぎ、落書き、石や火炎瓶 の投擲、銃撃、豚の血を入れた箱をモスク の入り口に置いておくという悪質な嫌がらせが起きた。道を歩いていても罵声を浴びたり、アラブ系経営者の店舗、特にガソリンスタンドは危険なため、閉鎖せざるをえない状況になった。ムスリムは1日5回の祈りをするが、その祈りの中心であるモスクも暴動を恐れて閉鎖された。大学キャンパスでは中東系の学生が卵を投げつけられたり、職場では突然解雇されたり、数々の嫌がらせが広がった。アラブ系には全員身分証明書 携帯を義務づける案に対して賛成者が49%、アラブ系の強制送還を求めようという案には58%ものアメリカ人が賛成する結果が出た。
アメリカ人が持つイスラム教への敵意は長らく続いた。8年前の1993年にアメリカ・イスラム評議会が行なった世論調査によるとアメリカ国内で最も嫌われている宗教はイスラム教徒というデータが出ており、2010年 9月11日には、牧師テリー・ジョーンズの主催により、「国際コーラン焼却日 」と称するコーランを燃やすイベントが開かれようとした。しかし、世界中のイスラム教徒から抗議が殺到して中止に追い込まれた。
国際社会の対応 このテロに対する国際的な反発は大きかった。国際連合 は安全保障理事会 で9月12日にテロの脅威に対して「あらゆる手段を用いて闘う」とした国際連合安全保障理事会決議1368 、この日に行われた第56回国際連合総会 でもアメリカ政府と市民に哀悼と連帯を表してワシントン及びペンシルベニア、そして国連本部を置くニューヨークへのテロ攻撃を非難する決議A/RES/56/1を当時の全加盟国189カ国が満場一致で採択し[187] 、9月28日には史上初の国際立法[188] [189] とされる国際連合安全保障理事会決議1373(英語版 ) で「全ての国」にテロ対策とその報告を義務付けた。11月10日にはルドルフ・ジュリアーニ がニューヨーク市長 としては初の国連演説を行ってテロとの戦いを呼びかけ、ブッシュ大統領も国連総会での初めての演説でこれらの世界の支持に感謝してテロとの戦いを宣言、11月12日には国際連合安全保障理事会決議1377(英語版 ) ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とされ、世界各国でテロ対策が進んだ[190] [191] 。
11日にブッシュ 大統領 は、イギリス のブレア 首相 、フランス のシラク 大統領 、ロシア のプーチン 大統領 、中華人民共和国 の江沢民 国家主席 ら4人の常任理事国 首脳と電話会談し、テロ対策で共闘を合意した。同年4月に南シナ海 でおきた海南島事件 で米中は緊張関係にあったが、テロ後の初外遊[192] で同年10月に訪中したブッシュと協調する中華人民共和国は上海 APEC の議長国としてロシアや日本 など各国首脳とテロとの戦いを呼びかける共同声明をまとめた[193] 。また、北大西洋条約機構 (NATO)・欧州連合 (EU)・東南アジア諸国連合 (ASEAN)・アフリカ統一機構 ・アラブ連盟 [194] 、イスラム諸国会議機構 [195] などのような機関もブッシュ大統領のテロとの戦いの呼びかけに応じた。米州機構は米州相互援助条約 に基づいてテロは米州全体への攻撃とし、NATOとオーストラリア はテロは北大西洋条約第5条と太平洋安全保障条約 第4条に当たるとして自衛権 を発動した[196] 。
また、アメリカの同盟国 や先進国 と大国 だけではなく、インド などアジアの非同盟諸国 もアメリカ合衆国を支持し、さらに1980年代 にパンアメリカン航空 機に対するテロを支援した過去のあるリビア や、ターリバーンの公然たる後援者であったサウジアラビア とパキスタン 、イランアメリカ大使館人質事件 以来アメリカとは犬猿の仲であるイラン 、北朝鮮 のような反米 とされる国々でさえ犯人グループを非難し、アメリカ合衆国に対する支援に同意した(但し、アメリカ合衆国はこの後、後述するようにアフガニスタン、イラク に侵攻するが、これが中東の反米感情を刺激したことを原因として2007年 にはイランがイラク国内の過激派に武器を供与している疑いがあると報道された)。
2006年11月14日に、反米的なウゴ・チャベス 大統領率いるベネズエラ の国会は、アメリカ合衆国大統領に呼びかける決議案を満場一致で採択した。メキシコ 国境における壁の建設を激しく攻撃し、第4章で、「イスラム・テロとの戦争」の根拠となった2001年9月11日の事件について「ブッシュ政権が、ワールドトレードセンター・ツインタワーとその犠牲者に対する自爆テロに関し、またペンタゴンに激突したとされる航空機についての明確な釈明、およびビンラディンとブッシュ家との関係を提示するよう強く」[197] 要求している。
調査 サウジ政府の関与疑惑 オバマ政権は2016年7月、米捜査官のダナ・レゼマンとマイケル・ジェイコブソンがまとめた「ファイル17[198] 」と呼ばれる文書を公開したが、その中には、サウジアラビアとハイジャック犯を結びつける[199] [200] ワシントンD.C.のサウジアラビア大使館付属のサウジアラビア諜報員 の疑いがある人物[201] を含む、3ダースの人物を名指しで挙げたリストが含まれていた。
その後 テロ事件発生以前のワールドトレードセンター・ツインタワー 2004年9月11日、ツインタワーが光線によって再現された 2005年時点のワールドトレードセンター・ツインタワー跡地(グラウンド・ゼロ ) 対テロ戦争 ブッシュ政権は、このテロ事件を契機にアフガニスタン侵攻 を行い、さらに2002年に国際テロ組織 とならず者国家 と断じた悪の枢軸 (イラク 、イラン 、北朝鮮 )との戦いを国家戦略とし、「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と時には先制攻撃が必要」として推進する方針を決めた。これを元に、アメリカ合衆国はイラクに対して大量破壊兵器 を隠し持っているという疑惑を理由に、イラク戦争 に踏み切った。
この行動に対しては、アフガニスタン(当時はターリバーン政権)攻撃と異なり、国際的な態度は分かれ、日本 ・イギリス ・フィリピン ・スペイン ・イタリア などのアメリカ合衆国同調国と、フランス ・ドイツ ・ロシア ・中華人民共和国 などのアメリカ非同調の立場に分かれた。
その後の2004年10月、アメリカ合衆国政府調査団は「開戦時にはイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、具体的開発計画もなかった」と結論づけた最終報告書を米議会に提出。2006年9月には、アメリカ上院情報特別委員会が「旧フセイン政権とアルカイダの関係を裏付ける証拠はない」との報告書を公表しており、開戦の正当性が根底から揺らぐ結果となっている。
なお、テロ直後のアメリカ連邦議会で、対テロ戦争への反対を表明した者は、民主党 議員のバーバラ・リー ただ1人だけだった。
またブッシュ大統領は、イラク戦争 後の2004年 に中東 首脳を招いて会談を開き、サウジアラビアやシリア の様に王制 や独裁政治 が色濃い中東各国がテロの温床になっているとして、これらの国々を民主化 すると宣言し、中東各国は“それぞれの国情を無視しアメリカ式を押し付けるもの”と強く反発した。アメリカ合衆国は中東民主化を今後の外交の方針に掲げるとしているが、この様な強権的なやり方には中東諸国のみならず、多くの国から批判が集中している。
さらに、「アメリカ合衆国がアメリカ合衆国であり続ける為に必要」として、「愛国者法 (反テロ法)」を制定、2005年7月には暫定法であった同法を恒久化。市民のプライバシーを大幅に制限、公安活動の用に供するとして、また12月には、国家安全保障局 の行なう不法な盗聴 を大統領権限で事実上黙認していた事、2006年5月には、テロリスト関係者、またはそれらと少しでも接触のあった外国人をアメリカ合衆国入国の際に令状抜きで不法に連行・収監、自白を取る為の拷問がCIA とFBI によって行なわれていた事が明らかになるなど、警察国家 化傾向が国内の一部市民団体から批判されている。
WTCコンプレックス跡地の再開発 ワールドトレードセンター・コンプレックスの跡地については、遺族から慰霊の場としてほしいという意見もあった。しかし多くのオフィススペースを失ったためにニューヨークから企業が流出することを恐れた市当局や、跡地を所有してきたニューヨーク・ニュージャージー港湾局らは、金融街に近くビジネス街の一等地であるこの場所に新たなオフィスビル ・商業施設と交通ターミナルの再建を希望した。当初の再建案はあまりにも経済復興の色が強く遺族の反対で撤回され、改めて世界の建築家を集めて行われた建築設計競技 の結果、アメリカ人建築家ダニエル・リベスキンド の案が採用された。
2004年 7月、ワールドトレードセンター・コンプレックス跡地に再びビルを建設するための起工式が行われた。敷地内にはツインタワー北棟・南棟跡の祈念スペースを囲むように数本の超高層ビルが建ち、最も高いビルは「フリーダム・タワー(自由の塔)」(2009年に1 ワールドトレードセンター に名称変更[202] )と名づけられ、アメリカの独立した1776年 にちなんで、1,776フィート (541 m )の高さとなる。2014年 11月3日 開業。周囲にはタワー4 ・タワー7 が建設済み、タワー2 ・タワー3 ・タワー5 が建つ予定。
一方、崩落したワールドトレードセンター・コンプレックスの残骸には、発見されない相当数の遺体が含まれると思われた。遺体はDNA すら判別できないほどに傷んでいると思われるが、遺族は取り扱いに非常に神経を尖らせていたため、残骸は廃棄することができず、ごみ処分場に大量に放置されている状態であった。しかし、2005年 3月初め、当局はおよそ1100人分の身元が判明できないまま確認作業を中止すると発表した。鉄骨類は屑鉄として再利用のためインド へと輸出された。
アメリカ同時多発テロ以降のアメリカ国内でのテロ状況 2001年のアメリカ同時多発テロ後から現在(2022年)に至るまでの間、アメリカ国内ではアルカイダなどの国際的テロ組織によるテロは一度も起きていない。この間にテロ計画やテロ警報は何度もあったが、そのほとんどをFBIがテロの実行前に犯人を逮捕しているか、計画だけで実際には実行されずに終わったテロがほとんどである。
しかしFBIが察知できずに実行されたテロが3件だけ起きている。それは2009年12月25日のノースウェスト機テロ 、2010年5月1日のタイムズスクエアテロ、2010年10月29日のアメリカ行き航空便テロの3件がある。しかしこれら3件とも爆弾が爆発せずに未遂に終っている。したがって、アメリカ国内においてアルカイダなどの国際的なテロ組織によるテロはこの事件以降一度も成功していない。
戦死兵と自殺兵 ブラウン大学が2021年6月に発表した調査によると、9・11以降、アメリカはアフガニスタンやイラクへの軍事作戦を展開し、この一連の軍事行動(2001年から2021年の20年間)で、戦死した米兵は7,057人であるのに対し、戦地から帰国した後にPTSDなどを発症して自殺した元米兵は、4倍以上の3万177人にのぼることが分かった。
事件の影響 アメリカ同時多発テロは、アメリカ合衆国の政治 、そして冷戦後の国際社会の大きな転換点となった。アメリカ同時多発テロ事件が勃発する前には、20世紀 の「アメリカ合衆国国民の記憶に残る日」は、1963年 11月22日 のジョン・F・ケネディ暗殺事件 、あるいは1941年 12月7日 の大日本帝国海軍 による真珠湾攻撃 であった。これらに代わってアメリカ国民は、この2001年 9月11日 をテロの脅威と共に永遠に記憶にとどめることになった。
「ネオコンの代表的人物」とされる大統領ジョージ・W・ブッシュ と国防副長官ポール・ウォルフォウィッツ ブッシュとサウジアラビアのアブドラ皇太子(当時) アメリカ同時多発テロは、「外国がアメリカ本土を襲撃した事件」として、「真珠湾攻撃」と度々対比されている。真珠湾攻撃は日本の正規軍が軍事行動としてアメリカ本土ではなくハワイ のアメリカ軍基地を攻撃したケースであったが、アメリカ同時多発テロはアメリカ本土 が襲撃された事件という意味でも衝撃的な大事件ともなった(なお1942年 には日本海軍機がアメリカ本土を数回爆撃 している)。しかも、真珠湾攻撃とアメリカ同時多発テロ事件は干支 が同じ辛巳 であり、「60年後の真珠湾攻撃」とも呼ばれた。2001年12月に開かれた真珠湾攻撃60周年のイベントでも、真珠湾攻撃とアメリカ同時多発テロ事件が一緒に言及された。
アメリカ合衆国国内の世論は急速に先鋭化・超国家主義 化したと言われ、ネオコン (新保守主義)勢力が政治の世界で隆盛し、影響力を増大させた引き金ともなった。その後、アメリカ合衆国によるテロ支援国家への攻撃には国民の大半が賛同した。議会でも野党 民主党 が共和党 のタカ派 路線を容認する動きが目立った。事件直後、ブッシュ政権がアメリカ同時多発テロ事件へのイラクの関与をほのめかし、過剰なマスコミ報道によりそれが増幅された為に国民の間にイラクとサッダーム・フセイン に対する敵意が増大し、2年後のイラク戦争 の呼び水となったと言われる。その後、独立調査委員会の調査でイラクの関与が否定され、ブッシュ大統領自身もそれを認めたにもかかわらず、2005年3月の世論調査では、米国民の約60%が「イラクはアルカーイダを支援していたと思う」と答えている。
一方、他の国ではアメリカ合衆国の方針に対して世論が二つに割れた。親米 的な意見(アメリカ合衆国の主張)としては、これを基に世界中の独裁国家の自由民主化を進めるべきだという意見などがある。特にブッシュ大統領が悪の枢軸としたイラク ・イラン ・北朝鮮 などで非自由民主的体制が猛威を振るっているとされる状況で、これを解決するべきだとの声もある。その後のアメリカ合衆国の対応を見ると、イラクやイランに対しては攻撃的な姿勢であるものの、表向き寧辺核施設 無力化を受け入れた北朝鮮、大量破壊兵器を放棄したリビア 、同盟国のサウジアラビア に対しては穏和な姿勢を持つなど、二重基準と批判する対応が目立つ。
反米 反戦 的な意見としては、「自由の国アメリカ」のシステムを国外に普及させることを使命とするネオコン勢力の拡大は、政府の好戦的姿勢に反対する意見を言えない雰囲気を作り出しているとする声もあり、リバタリアニズム など反ネオコン陣営からの反発も高まっている上に、アメリカ合衆国国内でさえ破綻しかけているアメリカ合衆国的価値観・システムの押し売りであるという反発が多い。
このテロ事件を動機にして、アメリカ合衆国は国連協調を投げ棄てて一国独走主義の時代になったり、冷戦 時代の米ソ対立の構図の残滓も消え、世界の軸は無類の超大国一国によって動かされる(ジョン・ボルトン の国連軽視発言)時代になったとする意見もあり、これを「アメリカ帝国 」と表現するアントニオ・ネグリ 、マイケル・ハート のような思想家 などもいる。
軍事面では、戦争をこれまでの「国家vs国家」から、「民間軍事組織vs国家」の構図として描く傾向が濃厚になった。
対アフガニスタン人道援助 事件後のアフガニスタン 攻撃に伴う対アフガニスタン人道援助・資金援助は、アフガニスタンとの国交を唯一保ったパキスタンが窓口となった。アフガニスタン向け援助は、その10-80%がアフガニスタンに届く前にパキスタンにおいて横流しされ、イスラム原理主義者を勢いづかせたのではないか、という意見もある。
政権交代 なお、事件後にアメリカ合衆国を中心に行われたイラクへの侵攻に同調し派兵を行ったイギリスやスペインでは、この派兵に反対するイスラム過激派と見られる集団による一般市民を狙ったテロ事件が発生し、多くの人命が失われた。また、アメリカ合衆国主導で行われたイラク侵攻に同調し派兵することに対して、上記のようにこれらの国の内部で国民の意見が二分した。
その結果スペインでは、2004年 3月のマドリード における列車爆破テロ事件 後に行われた選挙で、アメリカ合衆国への支持と派兵を決定したホセ・マリア・アスナール 首相率いる国民党が敗退し、ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ 率いるスペイン社会労働党 に政権が交代した。
同じくアメリカ合衆国への支持と派兵を打ち出して以降人気が急落していたイギリスのトニー・ブレア 首相が任期途中で退陣することを発表するなど、アメリカ合衆国への支持と派兵はこれらの国における政権交代 のきっかけを作ることとなった。
金融市場 アメリカ同時多発テロ事件が起きた時刻はアメリカ合衆国での取引が始まる前で、多くの金融機関が入居するワールドトレードセンターで起きた事件ということもあり、その日のアメリカ合衆国国内の取引は中止。翌週の17日(月曜日)に再開するまで、取引所や金融機関は修復作業に追われた。9月10日の終値が9,605.51ドルだったNYダウ は、取引が再開された17日には取引時間中に8,883.4ドルまで下落することになり、9月10日に121円を付けていた円ドルのレート も、翌日には118.5円まで値を落とした。なお、1機目の衝突直後から南側ビルの崩壊までの間だけでNYダウは100ドル以上下落していた。
一方、取引中だったヨーロッパではCNNやCNBCを通じて事態が明らかになるとすべての取引所で株価の全面安が起きる。明くる12日の東京市場 の日経平均株価 は680円以上の下落となった。これは一部で「9・11ショック」とも報道されていた。その後多くの国においては株価の低迷がしばらくの間続くこととなる。
又、9月18日のタイムズ紙によると、事件の数日から数週間前にかけて、アメリカ・日本・イギリス・ドイツ ・イタリア の株式市場で航空会社や保険会社、軍事関連企業などの株式が大量に信用売りされ、テロ攻撃の結果、株価が暴落した直後に安値で大量に買い戻された不審な売買形跡が認められたという。
航空業界 ポートランド国際空港の身体検査場 このテロが航空機を用いたものであったことや、シティグループ やオムニコム・グループ 、マイクロソフト など、アメリカを中心とした大企業が緊急なものを除く外国出張の禁止を命じたことなどから、事件後は航空需要が一時的に激減し、世界中の航空会社 が大きな打撃を受けることとなった。
テロの標的となったユナイテッド航空 だけでなく、標的にならなかったノースウエスト航空 ・デルタ航空 も、連邦倒産法第11章 の適用を申請し経営破綻した。また、サベナ航空 やスイス航空 、アンセット航空 など、アメリカ以外の航空会社も多くが赤字に転落したうえ経営破綻 し、そのうちのいくつかは姿を消した。
また、以前より空港や機内での保安体制が強化され、搭乗客への身体検査や手荷物の検査が厳重化されたほか、操縦室 のドアなども強化するよう法律が改められた。
アメリカは全世界にバイオメトリック・パスポート の導入を要求し、従わない国及び市民はビザ免除プログラム の対象外とした。
陰謀説 博物館 国立9・11記念館・博物館(9・11メモリアル・ミュージアム) 跡地には事件を後世に残す為の9.11記念碑・博物館 (en )が2011年 9月 にオープンした。 9・11トリビュート・ミュージアム(9/11追悼博物館) 事件の遺族や現場に駆けつけた消防隊員などによって設立され、2006年にニューヨーク市のロウアー・マンハッタン地区にオープンした(国立9・11記念館・博物館とは別の施設)[203] [204] 。140を超える国や地域から500万人以上が訪れたが、新型コロナウイルスの世界的大流行で来館者が減少して財政難となり、2022年8月17日に閉鎖され、展示品や記録映像の大半はニューヨーク州博物館に移された[203] [204] [205] 。 参考文献 McDermott, Terry (2005), Perfect Soldiers: The 9/11 Hijackers , HarperCollins, pp. 191–192, ISBN 978-0-06-058470-2 , https://books.google.com/books?id=4Oufo58esZAC&pg=PP1#v=onepage Wright, Lawrence (2006), The Looming Tower: Al-Qaeda and the Road to 9/11 , Knopf, ISBN 978-0-375-41486-2 , https://books.google.com/books?id=RNkj-mO-Nt8C&pg=PP1 Bergen, Peter (2006), The Osama Bin Laden I Know: An Oral History of Al Qaeda's Leader , Simon and Schuster, ISBN 978-0-7432-9592-5 , https://books.google.com/books?id=_XkM92XMlQ4C&pg=PP1 2016年3月18日 閲覧。 サイイッド・クトゥブ ペンでアメリカと闘った男 イスラーム原理主義のイデオロギー サイイッド・クトゥブ三部作: アルカイダからイスラム国まで アメリカと戦う思想 イスラーム原理主義のイデオロギー・解説編 関連資料 報告書 National Commission on Terrorist Attacks (2004). The 9/11 Commission Report: Final Report of the National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States ; W. W. Norton & Company. ISBN 0-393-32671-3 . 同時多発テロに関する独立調査委員会 『9/11委員会レポート ダイジェスト 同時多発テロに関する独立調査委員会報告書、その衝撃の事実』 WAVE出版、2008年。ISBN 4-87290-326-9 . American Society of Civil Engineers (2003). The Pentagon Building Performance Report, January 2003 ; American Society of Civil Engineers. ISBN 0-7844-0638-3 . Therese McAllister (Editor), Federal Emergency Management Agency (U.S.) (Producer), Federal Insurance and Mitigation Administration (U.S.) (Producer) (2002). World Trade Center Building Performance Study: Data Collection, Preliminary Observations, and Recommendations ; Federal Emergency Management Agency(United States Government Printing). ISBN 0-16-067389-5 . 「“テロリスト”と呼ばれて」 (Nスペ)関連書籍 脚注 注釈 出典 関連項目 題材とした作品 外部リンク 年表(英語版 ) 被害者 ハイジャック機 突入・墜落地 余波 対応 実行犯 調査・報告 文化への影響(英語版 ) その他
軍事衝突
テロ攻撃
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