1956年、スリランカ(当時セイロン)に移住したが、これはスキューバ・ダイビング好きが高じたのが主な理由であり[7]、死去するまでほとんどの期間をそこで過ごした。『スリランカから世界を眺めて』というスリランカでの暮らしに触れたエッセイ集もある。晩年まで小説を執筆した。1998年エリザベス2世女王よりナイトの称号を授与され[8][9]、2005年にはスリランカの文民向けの最高の勲章 Sri Lankabhimanya を授与された[10]。
静止衛星の概念そのものはクラークの発明ではないが、人工衛星による無線通信の中継(リレー)というアイデアはクラークのものである。1945年にそのアイデアを論文にし、英国惑星間協会の主要メンバーに見せた。その論文を改稿したものを同年10月に科学雑誌“Wireless World”へ寄稿し、現在、通信の基幹となっている衛星通信の構想を初めて科学的に示したとされる[18][19]。1946年から1947年にかけて英国惑星間協会の会長を務め[20]、さらに1951年から1953年にかけても同職を務めた[21]。クラークは宇宙開発に関する科学解説書もいくつか書いており、『宇宙の探検』(1951) と The Promise of Space (1968) が特に有名である。静止衛星による通信網という彼のアイデアを讃え、国際天文学連合は静止軌道の公式な別名として「クラーク軌道」という名前を与えている[22]。
1953年、フロリダに旅行して子持ちの22歳のアメリカ人女性 Marilyn Mayfield と出会い、電撃的に結婚[23]。6カ月後には別居したが、離婚が正式に成立したのは1964年のことである(映画2001年宇宙の旅の製作時期のアメリカ滞在中)[24]。クラークは「この結婚は最初から間違いだった」と述べている[24]。その後クラークが結婚することはなかったが、スリランカ人男性 Leslie Ekanayake とは親密な関係となり、『楽園の泉』の献辞には彼について「生涯ただ1人の親友」と書いていた[25]。クラークはコロンボにある墓地で、約30年前に亡くなった Ekanayake と同じ墓に埋葬された。スタンリー・キューブリックの伝記を書いた John Baxter(ジョン・バクスター) は、クラークの同性愛指向について、彼がスリランカに移住した理由の1つとしてスリランカの法律が同性愛に寛大だったからだとしている[26]。あるジャーナリストがクラークに同性愛者なのかと尋ねたときは否定していた[27]。しかし、マイケル・ムアコックは次のように書いている。
1948年、BBCのコンクール向けに「前哨」を書いた。選外となったが、この作品がその後のクラークの経歴に変化をもたらした。それは『2001年宇宙の旅』の元になっただけでなく、クラーク作品により神秘的および宇宙的要素が加わるきっかけとなった。その後のクラークの作品では、技術的には現在よりも進歩しているが未だに偏見にとらわれた人類がさらに優れた異星生命体に出会うという設定が特徴的に見られるようになった。『都市と星』(およびその元になった『銀河帝国の崩壊』)、『幼年期の終り』、2001年シリーズといった作品では、優れた異星種族との出会いが概念的突破口を生み出し、人類がさらに次の段階へと進化することになる。クラーク公認の伝記において Neil McAleer は「いまだに多くの読者や批評家が(『幼年期の終り』を)アーサー・C・クラークの最高傑作としている」と書いている[24]。
移住当初はまだ「セイロン」と呼ばれており、まず南のUnawatunaに住み、その後コロンボに引っ越した[27]。クラークはイギリスとスリランカ両国の市民権を持っていた[33]。大のスキューバ・ダイビング好きで、Underwater Explorers Club の会員でもあった。作家活動の傍ら、クラークはパートナーの Mike Wilson と共にダイビング関連のベンチャーを何度か起業し、またWilsonの映画製作に資金を投入している[34]。1961年、Wilsonは Great Basses Reef で難破船を発見し、そこから銀貨を回収した。翌年その難破船にダイビングして本格的に宝探しする計画だったが、クラークが麻痺を訴えて計画が中止され、ポリオと診断された。翌年、クラークは海岸や船上で銀貨回収を観察した。その難破船は最終的にムガル帝国のアウラングゼーブのものと判明し、ルピー銀貨の溶融した袋や大砲などが見つかり、クラークは詳細に記録した文書を元にしてノンフィクション The Treasure of the Great Reef を出版した[24][35]。スリランカに住みその歴史を学んだことが、軌道エレベータを描いた小説『楽園の泉』の背景となった。軌道エレベータはロケットを時代遅れにし、静止衛星よりもこちらの方が重大な科学的貢献になるとクラークは信じていた[36]。
1994年、テレビ映画 Without Warning に出演している。アメリカ製作のこの映画は、ニュース番組の形式で異星人とのファーストコンタクトを描いたものである。同年、ゴリラ保護活動の後援者になっている[41]。携帯電話用電池のためのタンタル採掘がゴリラを脅かしていることが判明すると、それに対するキャンペーンにも力を貸している[42]。
死の数日前、クラークは最後の作品 The Last Theorem (邦題『最終定理』)の原稿のチェックを終えたところだった。この作品はフレデリック・ポールと電子メールでやり取りしながら書いた共作である[61]。同書はクラークの死後に出版された[62]。クラークは3月22日にコロンボの墓地にスリランカ風に埋葬された。弟のフレッド・クラークやクラークのスリランカ人家族が数千人の観衆に混じって参列した[63]。
アシモフとは1953年にニューヨークで会った。その後数十年に渡って友好的なジャブの応酬を続けた。アシモフと、もし「最高のSF作家は誰か?」と聞かれたら互いの名を答える「アシモフ - クラーク協定(Asimov-Clarke Treaty of Park Avenue)」を結んでいたと言われている[64]。1972年、クラークは自著 Report on Planet Three にこの協定のことを書いている[24][65]。また、クラークとアシモフはメンサの会員であり、ともにメンサの国際会議に参加したこともある。[12]
宗教的テーマはクラーク作品によく見られるが、クラーク自身の宗教観はなかなか複雑である。彼は「知識へと至る道は神へと至る道である。あるいは真実へと至る道でも何でも好きに呼べばよい」と述べている[66]。また、自らを「神という概念に魅了された者」と称した。空軍に入隊した際には、認識票の宗教欄にイングランド国教会ではなく、「汎神論者」と記した[24]。2000年にはスリランカの新聞のインタビューに「私は神も来世も信じていない」と述べ[67]、自身を無神論者だとしている[68]。International Academy of Humanism からは名誉ヒューマニストの称号を与えられている[69]。また自身を「隠れ仏教徒」と称しつつ、仏教は宗教ではないと主張している[70]。若いころは宗教への興味をほとんど示しておらず、例えば結婚当初の数カ月間だけ妻の強い勧めで長老派教会に入信していた。
Alan Watts による3日間のインタビューの中でクラークは、宗教に対して偏見を持っており、宗教が残虐行為や戦争を防止できない点を許すことができないと語った[71]。
また自身の名を冠した番組(Arthur C. Clarke's Mysterious World の "Strange Skies" という回)で「私は時折、宇宙が天文学者を永久に驚かせるよう設計された機械ではないかと思うことがある」と述べている。また同じ回の最後の方でベツレヘムの星を取り上げ[72]、その正体がパルサーだという説を述べている。パルサーはクラークの短編「星」(1955) とその番組(1980) の間に発見された天体である。そして当時発見されたばかりのパルサー PSR B1913+16 について「キリストの誕生を知らせた星の死にかけた声が今も聞こえるとしたら、何とロマンチックだろう」と述べている[72]。
クラークとハイアムズの電子メールのやりとりを含む『オデッセイ・ファイル―アーサー・C・クラークのパソコン通信のすすめ』が1984年に出版された(原題は The Odyssey File: The Making of 2010)[80][81]。当時最先端の通信手段だった電子メールを使って、別々の大陸に住んでいたクラークとハイアムズが毎日のようにやり取りして映画の計画や製作について話し合った経緯が綴られている。また、クラークが選ぶベストSF映画のリストも掲載されている。
クラーク最大の科学的貢献は、静止衛星による電気通信リレーというアイデアだと言われている。彼は1945年10月の Wireless World に Extra-Terrestrial Relays — Can Rocket Stations Give Worldwide Radio Coverage? と題した論文を発表した[85]。このため静止軌道を「クラーク軌道」と呼ぶこともある[86][87]。
クラークの衛星同士のリレーというアイデア以前に、静止軌道上の人工衛星による通信というアイデアは既に存在していた。静止衛星の概念はヘルマン・オーベルトが1923年の著書 Die Rakete zu den Planetenräumen(惑星空間へのロケット)で記述しており[89]、人工衛星による無線通信というアイデアは Herman Potočnik が1928年の著書 Das Problem der Befahrung des Weltraums — der Raketen-Motor (The Problem of Space Travel — The Rocket Motor) の Providing for Long Distance Communications and Safety という章[90]と Observing and Researching the Earth's Surface という章[91]で記述している。クラークは『未来のプロフィル』でこれら先達の業績を認識していることを示している[92]。