ティエリ・アンリ

フランスのサッカー選手

ティエリ・ダニエル・アンリ(Thierry Daniel Henry, 1977年8月17日 - )は、フランスエソンヌ県レ・ジュリス出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元フランス代表で、フランス歴代2位の51得点を記録している[2]。現役時代のポジションはフォワード

ティエリ・アンリ
ティエリ・アンリ(2021年)
名前
本名ティエリ・ダニエル・アンリ
Thierry Daniel Henry
愛称ティティ
ラテン文字Thierry HENRY
基本情報
国籍フランスの旗 フランス
グアドループの旗 グアドループ
マルティニークの旗 マルティニーク
生年月日 (1977-08-17) 1977年8月17日(46歳)
出身地レ・ジュリス
身長188cm
体重83kg
選手情報
ポジションFW (CF, WG)
利き足右足
ユース
1983-1989フランスの旗 レ・ジュリス
1989-1990フランスの旗 パレゾー
1990-1992フランスの旗 ヴィリー=シャティヨン
1992フランスの旗 クレールフォンテーヌ
1992-1994モナコの旗 モナコ
クラブ1
クラブ出場(得点)
1994-1999モナコの旗 モナコ 105 (20)
1999イタリアの旗 ユヴェントス 16 (3)
1999-2007イングランドの旗 アーセナル 254 (174)
2007-2010スペインの旗 バルセロナ 80 (35)
2010-2014アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク・レッドブルズ 122 (51)
2012イングランドの旗 アーセナル (loan) 7 (2)
通算581 (284)
代表歴
1992-1993 フランス U-154 (3)
1993-1994 フランス U-168 (4)
1994-1995 フランス U-1711 (10)
1996-1997 フランス U-1813 (2)
1996-1997 フランス U-199 (5)
1997 フランス U-2011 (7)
1998-1999 フランス U-215 (2)
1997-2010フランスの旗 フランス[1]123 (51)
監督歴
2016-2018ベルギーの旗 ベルギー (アシスタントコーチ)
2018-2019モナコの旗 ASモナコ
2019-2021カナダの旗 モントリオール・インパクト
2022ベルギーの旗 ベルギー (アシスタントコーチ)
2023- フランス U-21
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

プレミアリーグ歴代最多となる4度の得点王受賞をはじめ[3]、FWA(Football Writers' Association、サッカーライター協会)の投票によるFWA年間最優秀選手賞を3度受賞、PFA年間最優秀選手賞を2度受賞、UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーを同賞最多の5度受賞と数々の個人タイトルを獲得。プレミアリーグにおける1シーズン歴代最多アシスト数(タイ)の(20アシスト)を誇る。

経歴

クラブ

アーセナル入団まで

父親はグアドループでプロサッカー選手をしていたが、生活の安定を求めてフランス本土に渡り、パリ郊外でティエリを育てた[4]。6歳の時に地元のクラブであるレ・ジュリス・フットボールに入団し、クラブでの練習のない日は厳格な父親による英才教育を受けた[4]。なお、このクラブからはパトリス・エヴラもプロサッカー選手に育った。12歳から15歳の間は色々なクラブを転々としたが、クレールフォンテーヌ(INF、フランスサッカー学院)に入学して英才教育を受けた。なお、一度は入学試験に落とされたが、辞退者が出たために入学を許可されたという経歴を持つ[5]

本人が語るところによると、INF卒業後にベルサイユのクラブに1シーズンだけ在籍しており、22試合に出場し76得点を記録しているとのこと[6]。この時にASモナコのスカウトが視察した試合で7得点を決め、16歳の時に父アントワーヌが仮契約書にサインしASモナコに入団。

ASモナコの下部組織での活躍により、当時トップチームの指揮官であったアーセン・ベンゲルに抜擢され、1994年8月31日OGCニース戦でリーグ・アンデビュー。1994-95シーズンは8試合に出場し3得点の成績を残した。なお、この当時のアンリのポジションはフォワードではなくウイングであった。1995-96シーズンは母国で開催された欧州U-19選手権のメンバー入りも果たす。1996-97シーズンには36試合に出場し9得点でチームのリーグ優勝に貢献し、UEFAカップでも初得点を記録。リーグ・アン年間最優秀若手選手にも選出される。

1998-99シーズン途中に監督ジャン・ティガナとの衝突が原因でセリエAユヴェントスFCに移籍。モナコでは起用法を巡ってのすれ違いから退団を決めたが、移籍先のユヴェントスでも不慣れな左ウイングバックでの出場を余儀なくされ、実力をほとんど発揮できずに3得点でシーズンを終える。その頃に、モナコでアンリをトップチームに抜擢したアーセン・ベンゲルから「もし、イタリアでうまくいかなければ、私がまた獲得する」と促されており、その言葉を追うように1999年8月3日にベンゲルが指揮を執るプレミアリーグアーセナルFCに入団[7]。この件にはアーセナルがニコラ・アネルカレアル・マドリードに約45億円で移籍させた背景もあり、アンリ獲得のためにアーセナル側が積んだ金額はアネルカの移籍で得た収入の約半分である。

アーセナル時代

アーセナル時代のアンリ(2006)

ニュータイプのフォワードを構想していたベンゲルは、アンリをウイングからセンターフォワードにコンバートする。移籍初年度こそ新境地のポジションに戸惑いも見せるも、翌2000-01シーズンからは実力を遺憾なく発揮し、得点数こそ昨シーズンと同じながら敵陣のタッチライン際を快足をもって突破していくシーンは観戦者に強烈な印象を与えた。2001-02シーズンには24得点で得点王に輝き[8]、チームは勝ち点87ポイント得失点差43でプレミアリーグ移行後2度目のリーグ優勝を果たす[9]。またFAカップも優勝し、二冠を達成。

2002-03シーズンは優勝を逃し、アンリ自身も得点王を逃したが、得点数は昨シーズンと同じ24得点を記録し、PFA年間最優秀選手賞、FWA年間最優秀選手賞を受賞。チームの総得点数はリーグ最多の85得点と全体として高いパフォーマンスを誇った。またFAカップ2連覇。このシーズンに20アシストでアシスト王になったが、このアシスト数は2018-19シーズン終了時点でプレミアリーグにおける1シーズンの歴代最多アシスト記録である[10]

2003-04シーズン、チームは26勝12引き分け勝ち点90ポイントと無敗優勝を成し遂げ、アンリは30得点で得点王に返り咲く。2年連続でPFA年間最優秀選手賞、FWA年間最優秀選手賞を受賞。この時期のアーセナルはしばしば「The Invincibles(無敵)」と讃えられ、アンリの他にパトリック・ヴィエラロベール・ピレス、シーズン途中に移籍したシルヴァン・ヴィルトールといったフランス人選手が主力として顔を揃えていた。また、これらに監督アーセン・ベンゲルを含めて「フレンチ・コネクション」と呼ばれた。2003年のバロンドールではパベル・ネドベドに次いで2位となった。

2004-05シーズン、アンリは25得点を記録し2年連続で得点王に輝き、更に3年連続でFWA年間最優秀選手賞を受賞。チームは無敗記録を49試合にまで伸ばし、1977-78シーズンにノッティンガム・フォレストが達成した42試合無敗記録を27年ぶりに更新。49試合ぶりの黒星はマンチェスター・ユナイテッドに喫した。アーセナルは勝ち点83ポイント得失点差51で2位。またFAカップ王者に1年ぶりに返り咲く。

2005-06シーズン、3年間アーセナルの主将を務めたパトリック・ヴィエラがユヴェントスに移籍し、アンリはゲームキャプテンを任せられる。アンリ自身は27得点を記録し得点王を3年連続で受賞するも、チームは4位でシーズンを終え2連覇を果たしたチェルシーFCとの勝ち点差は24ポイント。一方で、欧州フットボール界の七不思議とまでいわれ勝てない時期が続いたUEFAチャンピオンズリーグでは連続無失点試合の記録を更新し、決勝でFCバルセロナに敗れるも準優勝と健闘した。

2006-07シーズンは怪我で大半の試合を欠場し、得点王連続記録もここで途絶える。チームの大黒柱の代役を務めたとは言い難いが、アンリのポジションにはエマニュエル・アデバヨールロビン・ファン・ペルシーといった新鋭の台頭も見られ、チームの急速な世代交代により栄華を極めた時代の選手はアンリ以外はほとんど退団していた。2007年6月、2400万ユーロでバルセロナへの移籍が決まる。

バルセロナ時代

練習中のサミュエル・エトーとアンリ(バルセロナ時代)
バルセロナでプレーするアンリ

リーガ・エスパニョーラ2007-08シーズン、当時3トップを形成していたロナウジーニョサミュエル・エトーリオネル・メッシと自身を合わせた組み合わせは“ファンタスティック4”と呼ばれ注目されたが、スペインサッカーのスペースの少ないゆったりしたスタイルに戸惑い、また左ウイングのような役割に徹することで終始低調なプレーが続き30試合12得点でシーズンを終える。

2008-09シーズン、新たに監督に就任したジョゼップ・グアルディオラのチーム再編に伴い、ロナウジーニョ、デコが退団。より強健なチーム作りの中で当初はやサミュエル・エトーアンドレス・イニエスタの控えに甘んじていたものの、次第に復調の兆しを見せ、守備に奔走する姿勢もみせるなか19得点を記録。チームは第36節アウェーでのマジョルカ戦後に3シーズンぶりのリーグ優勝を決め、最終成績は27勝6分5敗、勝ち点87ポイント得失点差70。またUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグからの12試合で3得点をあげ、決勝戦でマンチェスター・ユナイテッドを破り優勝[11]。アンリは5得点を記録。更にコパ・デル・レイも優勝し、スペインのクラブ史上初の三冠を達成した。

復調の兆しを見せた昨シーズンとはうってかわり、2009-10シーズンは終始単調なプレーを繰り返し、ベンチを暖める場面が増えた。若手のペドロ・ロドリゲスの活躍の影に潜んでいたが、終盤戦にセンターフォワードでの起用が多くなると、やや調子を取り戻した。

ニューヨーク・レッドブルズ時代

ニューヨーク・レッドブルズ時代のアンリ

2009-10シーズン終了後、FCバルセロナとの契約を解除した。2010年7月14日、特別指定選手制度 (Designated Player Rule) を用いてメジャーリーグ・サッカーニューヨーク・レッドブルズへ移籍した[12]。7月31日、ヒューストン・ダイナモ戦でMLSデビューを果たし、フアン・パブロ・アンヘルの2ゴールを両方アシストした。8月28日、サンノゼ・アースクエイクス戦でMLS初ゴールを挙げた。レッドブルズはMLS東カンファレンスでコロンバス・クルーを勝ち点1差で上回り[13]MLSカップ・プレーオフに進出したが、準々決勝でアースクエイクスに2-3で敗れた[14]。2011シーズンは、レッドブルズはMLS10位で[15]、MLSカップ・プレーオフの準々決勝で敗れた[16]

アーセナルへレンタル

2012年1月6日、シーズンオフを利用して古巣のアーセナルに2ヶ月間レンタルで復帰した。アフリカネイションズカップ2012への参加のためチームを離れたジェルヴィーニョマルアーヌ・シャマフの穴を埋めるためであった[17]。背番号は「12」。背番号「14」は、アンリが退団後にセオ・ウォルコットが着用していた[18]。1月9日のFAカップ3回戦リーズ・ユナイテッド戦に途中出場し、アレクサンドル・ソングのアシストから得点を決めた[19]。期限付きで在籍した期間の7試合で2得点。特にイングランドでのラストマッチとなったサンダーランド戦では後半ロスタイムにアンドレイ・アルシャヴィンのクロスにボレーで合わせ、勝ち点3をもたらした[20]

レッドブルズ復帰
2014年2月、ファンにサインをするアンリ

2012年2月17日、レッドブルズに復帰した。アンリの基本給は500万ドルであり、MLS最高額であった。ロサンゼルス・ギャラクシーデビッド・ベッカムが減給したことで、アンリが最高額となった[21]。2013年、アンリの基本給は、ロビー・キーンの400万ドルを下回り、375万ドルとなった。しかし、ボーナスを含めた給与では、キーンの432万ドルを上回る435万ドルだった[22]

2012年3月31日、モントリオール・インパクト戦でレッドブルズでの初めてのハットトリックを達成した[23]。2012年3月のMLS月間MVPに選出された。

2013年10月27日、レッドブル・アリーナでのシカゴ・ファイアー戦で1得点1アシストを記録して、5-2での勝利し、チームはサポーターズ・シールドを獲得した。ニューヨーク・レッドブルズの17年間で初のタイトルであった[24][25]

2014年7月12日、コロンバス・クルー戦で3アシストを記録した。そのアシストにより、アマド・ゲバラタブ・ラモスを上回りレッドブルズでの最多アシストを記録した選手となった[26]

2014年12月1日、ニューヨーク・レッドブルズ退団を表明した[27]

代表

フランス代表としてのアンリの経歴は15歳の時にまで遡り、早くからその才能を世界の舞台で輝かせている。本格的な国際大会の初陣としては母国で開催された欧州U-19選手権で、決勝の対スペイン戦では決勝弾を決める活躍で優勝に貢献した。またマレーシアで開催されたワールドユースにもメンバー入りし、後のA代表の主力となるニコラ・アネルカダビド・トレゼゲと3トップを形成している。

代表デビューは1997年10月11日の対南アフリカ共和国戦。

1998年フランスW杯のフランス代表メンバーに選出され、決勝のブラジル戦以外の6試合に出場。通算3得点に終わるも、フランスはグループリーグを全勝で勝ち上がり勢いそのままにW杯初優勝。新世代の台頭を予感させるジネディーヌ・ジダンリリアン・テュラムの存在が光る大会となった。その2年後にベルギーオランダで共催されたEURO2000のメンバーにも名を列ね、3得点を記録。フランスは今大会でも優勝を果たし、史上初となるW杯と欧州選手権を立て続けに優勝した国となった。

2002年にフランス代表の中心選手として日韓W杯に挑むもグループリーグで敗退。アンリはグループリーグ2戦目となったウルグアイ戦でレッドカードで退場となってしまい、そのまま3戦目のデンマーク戦にも出場できず戦犯とされる事態に発展した。同大会のフランス代表はロベール・ピレスが右膝の靭帯断裂で代表に招集されなかったことや、ジダンの左腿の肉離れによる欠場といったことが敗退要因として挙がったが、それでも世界有数の選手を揃えた優勝候補国であることは変りなく、大会早々に大波乱という話題を振りまいて姿を消した。

自国開催となったFIFAコンフェデレーションズカップ2003では2大会連続優勝。この大会ではジブリル・シセと2トップを組むことが多かったが、先発と控えを作らないというチーム方針で全試合には出場していない。日本戦は控えに回ったが、アンリコールを繰り返す大歓声に応える形で後半35分に途中出場。チェイシングを仕掛ける中田英寿を反転して突破し、小笠原満男のスライディングを読んでかわすなど実力の片鱗を見せつけた。

2004年6月にポルトガルで開催されたEURO2004では、フランスはBグループ首位で決勝トーナメント進出を決めるも試合内容は前回王者とは思えないほど精彩を欠いており、とりわけ前々から囁かれていたアンリの代表不調はここにきても変わることはなく、決勝トーナメント一回戦で今大会の王者となるギリシャに敗退。フランスは2大会連続欧州王者とはならなかった。

ジダンが引退表明をして臨んだ2006年ドイツW杯では3得点を決めチームの準優勝に貢献。準々決勝のブラジル戦で決めたゴールはジダンのアシストによるもので、1997年のA代表デビュー以来ジダンから受けた最初で最後のアシストとなった。

EURO2008予選ではチーム最多の6得点を記録し、ミシェル・プラティニが持つフランス代表の最多得点記録を更新。しかし、本大会ではオランダ戦の1得点だけにとどまり、チームもグループリーグで敗退。なお、このアンリの1得点が大会のフランス唯一の得点である。

EURO2008終了後の最初の試合となったスウェーデンとの親善試合でフランス代表のキャプテンに任命された。

2010年南アフリカW杯欧州予選プレーオフ(対アイルランド)では延長戦で、チームを4大会連続本大会出場に導くウィリアム・ギャラスの決勝点をアシストしたが、その際、ゴールラインの方に流れたボールを自身の左手で止めるような形で当たっていたのが確認され、物議を醸した。アンリ自身も「決してわざとではないが、確かに手に当たった」と認めている。本大会で自身4大会連続出場を成し遂げたが、チームは1分2敗の最下位で大会を後にした。[28]

W杯終了後、代表引退を表明した。

現役引退後

2014年12月15日、自身のFacebookで現役引退を表明。引退後はSky Sportsの解説者を務めることを明かした[29]。その後、解説者を務める傍ら、古巣アーセナルで指導者としての経験を積み、2016年3月にUEFAの指導者ライセンスAを修得、アーセナルのU-18チームのコーチを務めていたが、同年6月に辞任を発表した。辞任理由については、トップチームのベンゲル監督より解説業を辞職し、指導者に専念するよう要請を受けた結果と報じられている[30][31]。2016年8月26日に、ベルギーサッカー協会はベルギー代表のアシスタント・コーチに就任すると発表した[32]

2018年10月13日、古巣ASモナコの監督に就任した[33]。契約期間は3年間。アーセナル時代のチームメイトセスク・ファブレガスを獲得するなど、低迷に苦しむチームの立て直しを図る。しかし、就任12試合で2勝にとどまるなど、低空飛行から脱することが出来ず、2019年1月24日に解任された[34]

2021年5月30日より再度ベルギー代表のアシスタントコーチを務め[35]2022年カタールW杯終了後の2023年2月に退任[36]

2023年8月21日、U-21フランス代表監督に就任[37]

人物

  • 2008年、レキップ紙に掲載されたBVAによるフランス国民が選ぶNo.1スポーツ選手で44%の票を集めて第1位となった[38]
  • 自身の浮気が原因で2003年から4年間連れ添ったクレア夫人と離婚、慰謝料はサッカー選手最高額となる1,000万ポンド(約23億2,000万円)とも800万ポンドとも言われている[39][40]
  • 引退後はフットボール祭典やテレビの試合解説などでゲスト活動。
  • 大のNBAファンと知られ、マイケル・ジョーダンを深く尊敬していることで知られている。またトニー・パーカーや元NBA選手のスティーブ・ナッシュとも親交が深いことでも知られている。
  • アーセナルFC史上最高の選手とされ、アンリが背負った背番号14はアーセナルにおけるエースナンバーとなっている。しかし本人は、憧れの選手であるマルコ・ファン・バステンが1988年に欧州選手権で着用した12番をお気に入りの番号としており、アーセナル加入時に12番が空いていなかったため14番を選んだ。フランス代表やニューヨーク・レッドブルズからアーセナルへ復帰した際などには、12番を着用している[41]

個人成績

クラブ

クラブシーズンリーグ戦カップ戦リーグカップ国際大会その他合計
ディヴィジョン出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
モナコB1994-95CFA196----196
モナコ1994-95ディヴィジオン・アン83000000-83
1995-96183003010-223
1996-97369102091-4810
1997-98304401097-441
1998-99131001050-191
クラブ通算1052050702480014128
ユヴェントス1998-99セリエA16310-002[a]0193
1999-000000-10-10
クラブ通算16310001020203
アーセナル1999-00プレミアリーグ31173021128-4826
2000-0135174100144-5322
2001-0233245100117-4932
2002-03372451001271[b]05632
2003-04373033001051[b]15139
2004-0532251000851[b]04230
2005-06322700111151[b]04533
2006-071710310071-2712
クラブ通算25417424732854241370226
バルセロナ2007-08ラ・リーガ301274-103-4719
2008-09291911-126-4226
2009-1021410-604[c]0324
クラブ通算803595002894012149
ニューヨーク・レッドブルズ2010MLS1120000001[d]0122
201126140000003[d]12915
201225150000002[d]02715
201330100000002[d]03210
201430100000-5[d]03510
クラブ通算1225100000013113542
アーセナル (loan)2011-12プレミアリーグ41210010-72
キャリア通算600290411310213959232813366

代表での成績

出典[1][42]


フランス代表国際Aマッチ
出場得点
199710
1998103
199900
200014註15
200173
2002103
20031411
2004133
200563
2006168
200765
2008114
200993
201060
合計12351

註1 フランスサッカー連盟2000年8月16日に行われたFIFA選抜戦を国際Aマッチとして認めている[1][42]

代表でのゴール

#開催年月日開催地対戦国スコア結果試合概要
1.1998年6月12日 マルセイユスタッド・ヴェロドローム  南アフリカ共和国3-03-01998 FIFAワールドカップ
2.1998年6月18日 サン=ドニスタッド・ド・フランス  サウジアラビア1-04-0
3.3-0
4.2000年3月29日 グラスゴーハムデン・パーク  スコットランド0-10-2親善試合
5.2000年6月6日 カサブランカスタッド・モハメド・サンク  モロッコ0-11-5
6.2000年6月11日 ブルッヘヤン・ブレイデルスタディオン  デンマーク2-03-0UEFA EURO 2000
7.2000年6月16日  チェコ0-11-2
8.2000年6月28日 ブリュッセルボードゥアン国王競技場  ポルトガル1-11-2
(GG)
9.2001年3月24日 サン=ドニ、スタッド・ド・フランス  日本2-05-0親善試合
10.2001年4月25日  ポルトガル3-04-0
11.2001年10月6日  アルジェリア3-04-1
12.2002年3月27日  スコットランド3-05-0
13.2002年10月16日 タカリ、タカリ国立競技場  マルタ0-10-4UEFA EURO 2004予選
14.0-2
15.2003年3月29日 ランススタッド・フェリックス・ボラール  マルタ2-06-0
16.3-0
17.2003年4月30日 サン=ドニ、スタッド・ド・フランス  エジプト1-05-0親善試合
18.2-0
19.2003年6月18日 リヨンスタッド・ジェルダン  コロンビア1-01-0FIFAコンフェデレーションズカップ2003
20.2003年6月22日 サン=ドニ、スタッド・ド・フランス  ニュージーランド2-05-0
21.2003年6月26日  トルコ1-03-2
22.2003年6月29日  カメルーン1-01-0
23.2003年9月6日  キプロス4-05-0UEFA EURO 2004予選
24.2003年10月11日  イスラエル1-03-0
25.2003年11月15日 ゲルゼンキルヒェンアレーナ・アウフシャルケ  ドイツ0-10-3親善試合
26.2004年6月21日 コインブラエスタディオ・シダーデ・デ・コインブラ  スイス1-21-3UEFA EURO 2004
27.1-3
28.2004年10月13日 ニコシアGSPスタジアム  キプロス0-20-22006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
29.2005年8月17日 モンペリエスタッド・ドゥ・ラ・モッソン  コートジボワール3-03-0親善試合
30.2005年9月7日 ダブリンランズダウン・ロード  アイルランド0-10-12006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
31.2005年9月9日 フォール=ド=フランス、スタッド・ピエール=アリカー  コスタリカ3-23-2親善試合
32.2006年5月31日 ランス、スタッド・フェリックス・ボラール  デンマーク1-02-0
33.2006年6月7日 サン=テティエンヌスタッド・ジェフロワ=ギシャール  中華人民共和国3-13-1
34.2006年6月18日 ライプツィヒツェントラールシュタディオン  韓国1-01-12006 FIFAワールドカップ
35.2006年6月23日 ケルンラインエネルギーシュタディオン  トーゴ0-20-2
36.2006年7月1日 フランクフルトコメルツバンク・アレーナ  ブラジル0-10-1
37.2006年9月6日 サン=ドニ、スタッド・ド・フランス  イタリア2-03-1UEFA EURO 2008予選
38.2006年10月11日 モンベリアル、スタッド・オーギュスト・ボナール  フェロー諸島2-05-0
39.2006年10月15日 サン=ドニ、スタッド・ド・フランス  ギリシャ1-01-0親善試合
40.2007年8月22日 トルナヴァシュタディオーン・アントナ・マラチンスケーホ  スロバキア0-10-1
41.2007年10月13日 トースハウントースヴェリュール  フェロー諸島0-20-6UEFA EURO 2008予選
42.2007年10月17日 ナントスタッド・ドゥ・ラ・ボージョワール  リトアニア1-02-0
43.2-0
44.2007年11月21日 キエフオリンピスキ・スタジアム  ウクライナ1-12-2
45.2008年6月13日 ベルンバンクドルフ・スタジアム  スイス1-21-4UEFA EURO 2008
46.2008年9月10日 サン=ドニ、スタッド・ド・フランス  セルビア1-02-12010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
47.2008年10月14日  チュニジア1-13-1親善試合
48.2-1
49.2009年9月5日  ルーマニア1-01-12010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
50.2009年9月9日 ベオグラードスタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダ  セルビア1-11-1
51.2009年10月14日 サン=ドニ、スタッド・ド・フランス  オーストリア2-03-1

監督成績

2021年2月25日現在
クラブ就任退任記録
勝率
モナコ2018年10月13日2019年1月24日2045111536−21020.00
モントリオール・インパクト2019年11月14日2021年2月25日2994163850−12031.03
合計49139275386−33026.53

タイトル

選手時代

ASモナコ
アーセナルFC
FCバルセロナ
ニューヨーク・レッドブルズ
フランス代表
個人

栄誉

パートナーシップ

  • リーボック(2006年) - サッカーキャンペーン「So you think you know me?」のイメージキャラクターとして複数年契約[43]

脚注

出典

外部リンク