サミュエル・エトー

カメルーンのサッカー選手

サミュエル・エトー・フィスSamuel Eto'o Fils, 1981年3月10日 - )は、カメルーンリトラル州ドゥアラ出身の元サッカー選手。元カメルーン代表。ポジションはフォワード

サミュエル・エトー
名前
本名サミュエル・ゑトー・フィス
Samuel Eto'o Fils
愛称黒い宝石、黒豹
ラテン文字Samuel ETOO
基本情報
国籍カメルーンの旗 カメルーン
スペインの旗 スペイン
生年月日 (1981-03-10) 1981年3月10日(43歳)
出身地ドゥアラ
身長180cm
体重79kg
選手情報
ポジションFW
利き足右足
ユース
1992-1996カメルーンの旗 カジ・スポーツ・アカデミー英語版
1996-1997スペインの旗 レアル・マドリード
クラブ1
クラブ出場(得点)
1997-2000スペインの旗 レアル・マドリード 3 (0)
1997-1998スペインの旗 CDレガネス (loan) 28 (3)
1999スペインの旗 RCDエスパニョール (loan) 0 (0)
2000スペインの旗 RCDマジョルカ (loan) 13 (6)
2000-2004スペインの旗 マジョルカ 120 (48)
2004-2009スペインの旗 FCバルセロナ 144 (108)
2009-2011イタリアの旗 インテルナツィオナーレ・ミラノ 67 (33)
2011-2013ロシアの旗 FCアンジ・マハチカラ 53 (25)
2013-2014イングランドの旗 チェルシーFC 21 (9)
2014-2015イングランドの旗 エヴァートンFC 14 (3)
2015イタリアの旗 UCサンプドリア 18 (2)
2015-2018トルコの旗 アンタルヤスポル 59 (36)
2018トルコの旗 コンヤスポル 13 (6)
2018-2019カタールの旗 カタールSC 16 (7)
代表歴
2000 カメルーン U-236 (1)
1997-2014カメルーンの旗 カメルーン118 (56)
監督歴
2015-2016トルコの旗 アンタルヤスポル (暫定)
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
2000 シドニーサッカー
1. 国内リーグ戦に限る。2018年8月31日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

サミュエル・エトオと表記されることもある。フィスは英語の Jr. (ジュニア)に相当するフランス語の添え名である。

カメルーン代表の最多得点記録保持者であり、史上最多の4度のアフリカ年間最優秀選手賞受賞、2度のアフリカネイションズカップ優勝、3度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝など数々の栄誉を手にしている。

2021年12月よりカメルーンサッカー連盟会長を務める[1]

経歴

初期の経歴

カメルーンのドゥアラ市にあるカジ・スポーツアカデミーの一期生。その後、16歳でレアル・マドリード・カスティージャと契約。しかし、外国人であった為セグンダ・ディビシオンBでは試合に出場できず、成長を妨げないようレンタルされ、CDレガネスRCDエスパニョールRCDマジョルカで過ごした。

2000年のシーズン終了後に、6億6000万円でRCDマジョルカに完全移籍し、2002年にコパ・デル・レイ優勝に導くなど活躍している。

バルセロナ

バルセロナ時代のエトー

2004-2005シーズンにFCバルセロナに移籍し、リーガ優勝を経験した。

2006年9月のUEFAチャンピオンズリーグ1次リーグ、ヴェルダー・ブレーメン戦で右ひざ半月板を痛め、全治5ヶ月と診断された。自身が「第二の故郷」としているマヨルカ島で療養していたが、2007年2月に復帰し、ゴールも決めている。なお、復帰後の起用法を巡って出場を拒否するなど、トラブルメーカー的な側面も見せた。

2007-08シーズンはティエリ・アンリがバルセロナに加入し、前述のフロントとの衝突などから放出が噂されたが、結局チームに残った。しかし開幕前のインテルナツィオナーレ・ミラノとの親善試合で怪我を負うと、ボージャン・クルキッチの台頭などもあり出場機会が減少。ただし、出場した試合では18試合で16ゴールと抜群の決定力を見せた。また、2007年10月17日にはスペイン国籍を取得し、カメルーンとの二重国籍となった。

2008-09シーズン、監督に就任したジョゼップ・グアルディオラの意向により一度戦力外通告を受けるが、最終的に残留する形で踏み止まると、10月25日の第8節UDアルメリア戦でバルサ史上最短の23分間でのハットトリックを達成し(この時点で8試合9得点を記録、バルサ在籍中の得点率が1.34試合となり、バルサ歴代2位につく)[2]リオネル・メッシ、アンリとともに世界最強ともいわれる3トップを組むと、自己最多、リーガ2位の30ゴールを記録し、チャンピオンズリーグ決勝のマンチェスター・ユナイテッドFC戦では決勝点を挙げた。3シーズンぶりのリーガ・エスパニョーラ制覇とUEFAチャンピオンズリーグ、さらにはコパ・デル・レイをも制し、スペイン勢史上初の3冠獲得に大きく貢献した。

インテル

インテルでプレーするエトー(2009年)

2009年7月、ズラタン・イブラヒモビッチとのトレード(エトー+移籍金4600万ユーロ)により、5年契約でインテルナツィオナーレ・ミラノへ移籍。2008-09シーズンセリエA24得点(得点ランキング2位タイ)のディエゴ・ミリートと2トップを組むことになった。8月8日のスーペルコッパ・イタリアーナSSラツィオ戦で移籍後公式戦初出場、初得点を記録すると、セリエAデビューとなった2週間後のASバーリ戦でPKによりセリエA初得点を挙げた。2010年3月16日のUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦2ndレグチェルシーFC戦では、チームを4シーズンぶりのベスト8へと導く決勝ゴールを挙げた。その後インテルはセリエA、コッパ・イタリア、チャンピオンズリーグを制し、エトーは史上初めて2シーズン連続で三冠を獲得した選手となり、これは現在に至るまで唯一の記録である。

2010-11シーズンも好調が続き、UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ6戦で1位の7得点を記録。セリエAでも得点ランクトップを走ったが、11月21日のACキエーヴォ・ヴェローナ戦では相手選手に頭突きをしてしまい、3試合の出場停止処分を受けた[3]FIFAクラブワールドカップ2010では決勝のマゼンベ戦で1ゴール1アシストを記録するなど活躍し、ゴールデンボール(MVP)を獲得した。12月21日にはクラブでの活躍が評価され、4度目のアフリカ年間最優秀選手賞を受賞した。その後はセリエ、チャンピオンズリーグともに得点王こそ逃したものの攻撃の中心として活躍。2011年5月9日のコッパ・イタリア決勝のUSチッタ・ディ・パレルモ戦では2得点を挙げ、インテルの2連覇に貢献。またこの2得点でシーズンの総得点を37とし、バルセロナ時代の2008-09シーズンに記録した自己記録を更新した[4]

アンジ・マハチカラ

2011年8月24日、ロシアダゲスタン共和国に本拠地を置くFCアンジ・マハチカラに3年契約で移籍した[5]。移籍金は非公表であるが、移籍金2700万ユーロ、年俸は2000万ユーロと伝えられている[6]。その3日後に行われたロシア・プレミアリーグ第22節のFCロストフ戦(2-2)では後半58分から出場して80分に同点ゴールを挙げ[7]、第23節のFCヴォルガ・ニジニ・ノヴゴロド戦では2試合連続となる得点を挙げた[8][9]

チェルシー

2013年8月、アンジは経営規模の縮小を発表。結果、主力選手の大半が市場に出ることになった。古巣のインテルなどが獲得に動いたが、2013年8月29日、チェルシーFCに1年契約で移籍決定。再びモウリーニョの下でプレーすることになる[10]。背番号は29番。10月19日のカーディフ・シティFC戦で移籍後初ゴールを挙げると、2014年1月20日のマンチェスター・ユナイテッドFC戦ではハットトリックを達成した[11]

エヴァートン

2014年8月26日、エヴァートンFCに2年契約で加入した[12]

サンプドリア

2015年1月24日、UCサンプドリアに移籍した[13]

アンタルヤスポル

2015年7月1日、スュペル・リグアンタルヤスポルと3年契約を結んだことを発表した[14]。同年12月7日、ユスフ・シムシェク英語版が監督を退任すると、翌2016年1月初頭まで暫定的に選手兼任監督を務め、最初の2試合で2勝を挙げた[15]

コンヤスポル

2018年1月30日、フリーエージェントでコンヤスポルに加入した。8月3日、クラブと双方合意の上で契約を解除した[16]

カタールSC

2018年8月13日、カタールリーグ・1部カタールSCが契約を結んだことを発表した[17][18]。そして翌2019年2月に退団し、同9月に現役の引退を表明[19]

代表

カメルーン代表でのエトー

1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会にはカメルーン代表史上最年少となる17歳3ヶ月で出場した。同年のトヨタカップ2000年のアフリカネイションズカップシドニー五輪を制した。

また、カメルーン代表として2002年日韓ワールドカップで来日した際にサガン鳥栖と試合をして決勝点を奪っている。ワールドカップではグループリーグ第2戦のサウジアラビア戦で決勝点となるゴールを決め勝利に導く。しかし1勝1分1敗の3位でグループリーグ敗退となった。

2006年ワールドカップドイツ大会アフリカ最終予選は、アウェーでコートジボワールに勝利し最終戦を前に首位に立つが、最終戦でエジプトに終盤に追いつかれ、ロスタイムにピエール・ウォメがPKを失敗して引き分けに終わる。最終戦に勝利したコートジボワールに抜かれ本大会出場を逃した(ヤウンデの悲劇)。

2006年のアフリカネイションズカップ・エジプト大会では、準々決勝でワールドカップの最終予選で最後まで出場を争ったコートジボワールPK戦までもつれたが全員成功し2巡目の最初の番でエトーはクロスバーを越えるミスキックをしてしまい、チームはベスト8で敗れた。

2010年ワールドカップ南アフリカ大会ではグループリーグ初戦の日本戦では、チーム事情から本来のポジションとは異なる右サイドでのプレイを余儀なくされ無得点だったが、デンマーク戦とオランダ戦ではゴールを記録した。9月5日のアフリカネイションズカップ2012予選のモーリシャス戦で2得点を挙げ、代表通算100試合出場と50得点を達成した。

2011年11月15日、代表戦出場ボーナスの支払いがないことから、アルジェリア代表との親善試合をボイコットして試合は中止された。これを重く見たカメルーンサッカー連盟は、16日に代表戦15試合の出場停止処分を下したが[20]、エトーは処分が不服であるとして規律委員会に訴え、4試合の出場停止に軽減された[21]

2014年8月27日、代表引退を表明した[22]

エピソード

  • 幼い頃に父親に腕時計を買ってもらって以降、腕時計にはこだわりがあり、自らプロデュースも行っている。2010年W杯予選の際は「カメルーンがW杯に出場できたらチームメイト全員に腕時計をプレゼントする」と宣言し、実際に出場決定後、自らのブランドの450万円相当の腕時計を贈った(計1億円に上る[23])。
  • 携帯電話のマニアとして知られており、400台もの携帯を所持している(そのうち14台は別々の国、電話番号で稼働中)[24]。また、2012年1月には母国カメルーンで携帯電話会社を設立した[25]

個人成績

クラブ

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点出場得点出場得点 出場得点
スペインリーグ戦 国王杯オープン杯期間通算
1997-98レガネスセグンダB28321-304
レアル・マドリードプリメーラ1000-10
1998-99エスパニョール0010-10
レアル・マドリード20001030
1999-00マジョルカ13600-136
2000-01281152-3313
2001-0230611-317
2002-039301465-3619
2003-04321720213618
2004-05バルセロナ372510-3825
2005-06342600223628
2006-07191121302412
2007-08181630-2116
2008-09363040-4030
イタリアリーグ戦 イタリア杯オープン杯期間通算
2009-10インテル9セリエA321221113514
2010-11352145434329
2011-1200001010
ロシアリーグ戦 ロシア杯オープン杯期間通算
2011-12 (en)アンジ・マハチカラ9ロシア・プレミア221310-2313
2012-13 (en)251032-2812
2013-146200-62
イングランドリーグ戦 FLカップFAカップ期間通算
2013-14チェルシー29プレミアリーグ2192030269
2014-15エヴァートン1431010163
イタリアリーグ戦 イタリア杯オープン杯期間通算
2014-15サンプドリア9セリエA1820000182
トルコリーグ戦 トルコ杯オープン杯期間通算
2015-16 (en)アンタルヤスポル9スュペル・リグ332210-3422
2016-17281600-2816
2017-18コンヤスポル13610-146
カタールリーグ戦 リーグ杯オープン杯期間通算
2018-19カタールSC81カタールリーグ16623189
通算スペインプリメーラ280162251083313175
スペインセグンダB28321-304
イタリアセリエA853566649745
ロシアロシア・プレミア532542-5727
イングランドプレミアリーグ351240304212
トルコスュペル・リグ744420-7644
カタールカタールリーグ16623189
総通算5712874522173633316

代表歴

出場大会

試合数


カメルーン代表国際Aマッチ
出場得点
199730
199850
199910
200095
200192
2002135
200372
200494
200561
200655
200731
20081111
200985
2010128
201194
201220
201342
201431
通算11856

得点

#開催日開催地対戦国スコア結果大会
12000年1月28日 アクラ コートジボワール2–03–0アフリカネイションズカップ2000
22000年2月6日 アルジェリア1–02–1
32000年2月10日 チュニジア2–03–0アフリカネイションズカップ2000準決勝
42000年2月13日 ラゴス ナイジェリア0–12–2(PK3-4)アフリカネイションズカップ2000決勝
52000年4月19日 ヤウンデ ソマリア3–03–02002 FIFAワールドカップ予選
62001年1月28日 ロメ トーゴ0–10–2
72001年7月1日 ヤウンデ1–02–0
82002年1月7日 ブルキナファソ1–03–1親善試合
92002年1月28日 シカソ トーゴ2–03–0アフリカネイションズカップ2002
102002年3月27日 ジュネーヴ アルゼンチン1–12–2親善試合
112002年5月26日 神戸市 イングランド0–12–2
122002年6月6日 新潟市 サウジアラビア1–01–02002 FIFAワールドカップ
132003年3月27日 チュニス マダガスカル2–02–0チュニス・トーナメント
142003年6月19日 サン=ドニ ブラジル0–10–1FIFAコンフェデレーションズカップ2003
152004年2月8日 チュニス ナイジェリア1–21–2アフリカネイションズカップ2004
162004年6月6日 ヤウンデ ベナン1–12–12006 FIFAワールドカップ予選
172004年7月4日 コートジボワール1–02–0
182004年9月15日 カイロ エジプト3–23–2
192005年6月4日 コトヌー ベナン0–41–4
202006年1月21日 カイロ アンゴラ1–03–1アフリカネイションズカップ2006
212–1
223–1
232006年1月25日 トーゴ1–02–0
242006年1月29日 コンゴ民主共和国2–02–0
252007年6月3日 モンロビア リベリア0–21–2アフリカネイションズカップ2008予選
262008年1月22日 クマシ エジプト3–14–2アフリカネイションズカップ2008
273–2
282008年1月26日 ザンビア4–05–1
292008年1月30日 タマレ スーダン1–03–0
303–0
312008年5月31日 ヤウンデ カーボベルデ2–02–02010 FIFAワールドカップ予選
322008年6月8日 パンプルムース モーリシャス0–20–3
332008年6月21日 ヤウンデ タンザニア1–02–1
342–1
352008年10月11日 モーリシャス1–05–0
362–0
372009年2月11日 ギニア2–13–1親善試合
383–1
392009年9月5日 リーブルヴィル ガボン0–20–22010 FIFAワールドカップ予選
402009年9月9日 ヤウンデ2–02–1
412009年11月14日 フェズ モロッコ0–20–2
422010年1月17日 ルバンゴ ザンビア2–13–2アフリカネイションズカップ2010
432010年1月21日 ベンゲラ チュニジア1–12–2
442010年6月19日 プレトリア デンマーク1–01–22010 FIFAワールドカップ
452010年6月24日 ケープタウン オランダ1–11–2
462010年8月11日 シュチェチン ポーランド0–10–3親善試合
470–3
482010年9月4日 パンプルムース モーリシャス0–11–3アフリカネイションズカップ2012予選
491–2
502011年9月3日 ヤウンデ モーリシャス3–06–0
512011年10月7日 キンシャサ コンゴ民主共和国1–12–3
522011年11月11日 マラケシュ スーダン3–13–1LGカップ2011
532011年11月13日 モロッコ0–11–1
542013年3月23日 ヤウンデ トーゴ1–02–12014 FIFAワールドカップ予選
552–1
562014年6月1日 メンヒェングラートバッハ ドイツ0–12–2親善試合

タイトル

クラブ

RCDマジョルカ
FCバルセロナ
インテルナツィオナーレ・ミラノ

代表

U-23カメルーン代表
カメルーン代表

個人

脚注

外部リンク