植村直己

日本の登山家、冒険家 (1941-1984)

植村 直己(うえむら なおみ、1941年昭和16年〉2月12日[1][2] - 1984年〈昭和59年〉2月13日[注 2][2])は、日本登山家冒険家

うえむら なおみ

植村 直己
生誕植村 直已
(1941-02-12) 1941年2月12日[1][2]
日本の旗 日本兵庫県城崎郡日高町
(現:豊岡市[2]
失踪 (1984-02-13) 1984年2月13日(43歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国アラスカ州マッキンリー(現:デナリ)山中
現況行方不明認定死亡
出身校明治大学農学部
職業登山家
冒険家
著名な実績世界初五大陸最高峰登頂[注 1]1970年
世界初犬ぞり単独北極点到達(1978年
世界初マッキンリー(現:デナリ)冬期単独登頂(1984年
身長162 cm (5 ft 4 in)[3]
体重60 kg (132 lb)前後[3]
受賞バラー・イン・スポーツ賞(1978年
国民栄誉賞1984年
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兵庫県出身[2]1970年世界最高峰エベレスト日本人で初めて登頂した[注 3][2][6]。同年、世界初の五大陸最高峰登頂者となる[注 4][2]1978年犬ぞり単独行としては世界で初めて北極点に到達した[2]1984年、冬期のマッキンリー(現:デナリ)に世界で初めて単独登頂[2]したが、下山中に消息不明となった[2]。1984年、国民栄誉賞を受賞した[2][7]

生涯

生い立ち

1941年2月12日兵庫県城崎郡国府村(現:豊岡市日高町)上郷[注 5]で、父・植村藤治郎と母・梅の7人兄弟の末子として生まれた[注 6][10][9]。実家は農業わら製造[11][12][注 7]

藤治郎の3代前の「植村直助」[14][15]から「直」の字を取り、干支の「」と合わせて「直巳」と名付けられたが[16][17]村役場戸籍担当職員が戸籍簿に誤って「直已」と記入したことから、戸籍名は「直已」として登録された[18][19]。後に、「巳(へび)や已(すでに)より、己(おのれ)の方が格好良い」として、大学時代から「直己」を名乗るようになった[20][18][21][8][注 8]

1947年4月、国府村立府中小学校(現:豊岡市立府中小学校)に入学[2]

1953年4月、国府村立府中中学校(現:豊岡市立日高東中学校)に入学[2][22]

1956年4月、兵庫県立豊岡高等学校に入学した[2][23]。高校1年のとき、春の学校遠足蘇武岳標高1,074m)に登った[24]。特に山には興味はなかった[25]1959年3月、高校卒業[26]

1959年4月、豊岡市の新日本運輸に就職した[27][2][28][注 9]。自ら希望して、就職から1か月後、東京両国支店に転勤となった[29][30]1960年2月、新日本運輸を退職[26]

1960年4月、明治大学農学部農産製造学科に入学[29][31][注 10]山岳部に入部した[34][注 11]。それまで登山の経験も知識もなかったので、5月、新人歓迎合宿の日本アルプス白馬岳の山行で、疲労から一番先に動けなくなり[35]、著しい屈辱を感じた[36][37][注 12][注 13]。その後、独自にトレーニングを重ね[注 14]、登山に没頭し、年120~130日間山行した[38][39]。また、ガストン・レビュファ/著『星と嵐』(近藤等/[40]や、同じ兵庫県出身の加藤文太郎/著『単独行』[41][42]を読み、感銘を受けた。大学3年の冬、黒四ダムを出発し、黒部峡谷の阿曽原峠 - 北仙人尾根 - 剱岳北側の池ノ平 - 剣沢 - 真砂尾根 - 真砂岳 - 地獄谷 - 弥陀ケ原 - 千寿ケ原に達するという5日間の単独山行をした[注 15][40][43][注 16]。大学4年のとき、サブリーダーとなった[39][注 17]。山岳部の同期であり、親友の小林正尚[46]から、米国アラスカ旅行でマッキンリー(現:デナリ)の氷河を歩いてきたとの話を聞き、海外の山に憧憬を募らせるようになった[47][48][49]。なお、学費は長兄の植村修[注 18]が仕送りしていた[52]

大学卒業後に台湾新高山(現:玉山)に登りたい[53][54][注 19]と思い、ビザを申請するが許可されず[注 20]、断念した[56][54]

1964年3月、明治大学農学部卒業[57]。同年4月明治大学法学部に入学[57][注 21]

世界“放浪”の旅

1964年、23歳のときに、ヨーロッパアルプス氷河を見ようと決心した[59]が資金が足りないため、まず生活水準が高い米国で資金を貯めて[注 22]、その後ヨーロッパに行こうと考え[59]、家族の大反対を押し切って[注 23]5月2日横浜港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込み、米国ロサンゼルスへ向かった[62][63]。片道の船賃は長兄の植村修が援助してくれた[10][64]が、所持金は、とび職などのアルバイトで貯めた[65]、110ドル(当時・約4万円)と日本円3,500円であった[66]

ロサンゼルス到着[注 24]後、フレズノ近くのパレアの農場で、ぶどう摘みなどの仕事をした[68][69]が、観光ビザしか持っていなかったので、同年9月末に不法就労で移民局に捕まった[70][注 25][66]。強制送還は免れたが、国外退去処分となったため、10月22日ニューヨークから船に乗り、フランスル・アーブルへ向かった[69]

1964年10月末、シャモニーに入った[74]11月10日、ヨーロッパ最高峰のモンブラン標高4,807m[注 26])単独登頂に挑戦した[75]。3日目、ボッソン氷河のヒドゥン・クレバス[注 27]に落ち、クレバスの底までの落下は避けられた[注 28][66]が、怖くなって撤退した[76]

同年の末、スイスとの国境近くのモルジヌで、1960年スコーバレーオリンピックの男子滑降金メダリストであるジャン・ヴュアルネが経営するアボリアス・スキー場に就職した[注 29][69]。ここで資金を稼ぎながら登山活動の拠点とした[78][79][80]

1965年、明治大学山岳部のゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)(標高7,646m)登山隊[注 30](登山隊長・高橋進、以下7人[82][注 31])に途中参加するため[注 32]、同年2月19日、ネパールのカトマンズに入った[85][注 33]3月31日、ベースキャンプを設営した[88]4月23日シェルパのペンバ・テンジンと共に世界初の登頂を果たした[89][90]。しかし、遠征の計画や準備段階での苦労もしていない自分が登頂し、また、日本新聞に自分だけが大きく掲載されたのを見て、他の隊員に対して申し訳ないという気持ちになり[注 34]、隊長・高橋から一緒に日本に帰国しようと言われたが、それを断った[92][93]

その後、インドのボンベイ(現:ムンバイ)からフランスのマルセイユ行きの貨客船に乗り[94][95]、再びモルジヌに戻るが、黄疸(おうだん)を発症して1か月の入院生活をした[96][注 35][注 36]

1966年7月、モンブラン単独登頂に成功[102][103][注 37]、続いて7月25日マッターホルン(標高4,478m)単独登頂[注 38]に成功した[104][98]

同年9月23日、マルセイユから、ケニアモンバサ行きの船に乗り、アフリカ山行に向かった[105][98][注 39]

同年10月16日ケニア山レナナ峰(標高4,985m)に登頂し[107][注 40][注 41]10月24日アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(標高5,895m)単独登頂に成功した[111][98][注 42]10月29日、モンバサから船に乗り、モルジヌに戻った[114][98]

1967年8月、グリーンランド単独横断を夢見て[115]、西海岸のヤコブスハウン氷河を半月間、視察した[116][117][118][119][注 43][注 44]

同年12月、モルジヌを去り[121]12月22日スペインバルセロナから南アメリカ行きの船に乗った[122][注 45]1968年1月7日アルゼンチンブエノスアイレスに着いた[124][125]

1968年1月19日アンデス山脈のエル・プラタ(標高6,503m)に登頂[126][121][注 46]2月5日、南アメリカ大陸最高峰のアコンカグア(標高6,960m[注 47])単独登頂に成功した[128][129][121][注 48]2月15日、無名峰(標高5,700m)に初登頂し、母校である明治大学の名前に因んで「明治峰(ピッコ・デ・メイジ)」と命名した[132][121]

その後、ボリビアを経てペルーリマに行き[注 49]、さらにバスと船を乗り継いで、同1968年4月イキトスに入った[135]。ここで、北アメリカ行きの船が出る河口までアマゾン川源流から自力で下ろうと決心した[133][注 50]。同年4月20日、ペルーのユリマグアスを出発[137][138]、単独で6,000km[注 51]の距離を筏(いかだ[注 52]で流れ下り[146][注 53]6月20日ブラジルマカパに到着した[147][138]。同地で、明治大学山岳部の同期であり、親友の小林正尚の交通事故死[注 54]を知り、ショックを受けた[149][150][151]

その後、北アメリカ最高峰のマッキンリー(現:デナリ)(標高6,194m[注 55])登頂を目指して、米国カリフォルニアの農場で2か月間[注 56]働いて山行資金を稼ぎ[154]アラスカに入るが、単独登頂の許可が下りず[注 57]、断念した[154]。同1968年9月14日、サンフォード(標高4,940m)に登頂した[152][156]

1968年10月1日、4年5か月ぶりに日本に帰国した[157][152][158]。日本への航空運賃は、長兄の植村修が負担した[159][158]。植村、27歳。

世界初の五大陸最高峰登頂者となる

帰国後、地下鉄工事の仕事をした[160][注 58]。この頃の“夢”は、アコンカグアの冬期単独登頂と、筏下りをしたアマゾン川をモーター付きのゴムボートで河口から源流へ遡上することだった[161][162]

1969年日本山岳会が創立65周年事業として、世界最高峰のエベレスト(標高8,848m[注 59])登山隊の派遣を決定し、同年4月、明治大学山岳部の先輩である大塚博美[注 60]に誘われ、これに参加することにした[164]。第1次偵察隊[注 61](隊長:藤田佳宏[注 62]、以下、植村を含めて4人、うち報道1人[167])に参加し、同年4月23日に日本を発ち[168]、同年5月、標高6,300mの南壁基部まで試登し[156]、6月21日、帰国した[169]。続いて、第2次偵察隊(隊長:宮下秀樹、以下、植村を含めて8人。ほか報道4人[170])にも参加し、8月20日、日本を発ち[171]、9月13日、ベースキャンプを設営[172]、10月31日、小西政継と共に南壁の標高8,000m地点まで到達した[173][156]。その後、偵察隊が11月7日にベースキャンプを撤収し[174][175]、帰国した後もネパールのクムジュン(標高3,800m)に滞在し[注 63][注 64]、翌年の本隊のための物資調達やシェルパらの予約をしつつ、高度順化や高所トレーニング[注 65]を行った[184][156]

1970年2月、日本山岳会エベレスト登山隊の本隊(総隊長:松方三郎登攀隊長:大塚博美、以下39人[185])をカトマンズで迎え入れた[185][156]3月23日ベースキャンプに入った[186]。植村は、自己分担金[注 66]を用意できなかった[187]ため、荷揚げ、ルート工作要員としての参加であったが[188]、抜群の体力などが認められ、5月3日松浦輝夫とともに東南稜ルートの第1次アタック隊に指名され[189][190]5月11日午前9時10分、エベレスト登頂に成功した[6][191][192][193]日本人として初めてのことであった[194]。なお、隊として主目標であった南壁からの初登頂は、標高8,050m地点で断念された[186][195]

同1970年7月30日、日本を出発し[196][197]、同日、アラスカに入り[197]、エベレスト登頂の勢いを借りて[注 67]、再びマッキンリー(現:デナリ)に挑戦した[注 68]8月17日軽飛行機でカヒルトナ氷河に入り[202][203]8月19日、ベースキャンプ(標高2,135m)を出発[204][205]8月26日、単独登頂に成功した[206][207]。この時点で、世界初の五大陸最高峰登頂者となった[注 69][208][209]。植村、29歳。

南極大陸横断を夢見て〈エスキモーと共同生活・北極圏12,000km犬ぞり単独行〉

この頃から、犬ぞり南極大陸を単独で横断することを夢見るようになり[注 70][212][213][214](併せて、後年には、南極大陸最高峰ビンソン・マシフ(標高5,140m[注 71])に単独登頂することも夢見るようになる[215][213])、南極関係の資料を集め始めた[216][217]

1970年12月21日、次に控えているエベレスト国際隊参加のためのトレーニングとして、小西政継らの山学同志会隊に加わり、冬期のグランド・ジョラス北壁に挑戦した[218][注 72]登攀中、ヨーロッパとしては20年ぶり[注 73]の大寒波に襲われ[221]、6人中4人の隊員は凍傷にかかり手足の指を失うことになったが、植村と高久幸雄の2人は無傷で、翌1971年1月1日に完登し、ウォーカー峰(標高4,208m)に到達した[222]

同1971年2月、BBCが主催し、アメリカ人のノーマン・ディレンファース隊長が率いるエベレスト国際隊[注 74]に伊藤礼造[注 75][注 76]と共に参加した。ネパール側南壁を“征服”して[227]植村にとって2度目となるエベレスト登頂を目指すが、4月15日、インド人のハッシュ・バフグナ隊員の遭難[228][注 77]の後、各国からの代表を寄せ集めた国際隊は互いの利害関係が徐々に表面化、隊は“空中分解”した。なおも強硬に[230]先頭を登るイギリス人の隊員2人のために、植村と伊藤の2人だけが酸素ボンベ無しで標高8,230mの第6キャンプまで荷揚げした[231][注 78]が、5月21日、標高8,300m地点で登頂は断念され、失敗に終わった[231][233][234][注 79]。植村、30歳。

同1971年3月、最初の著書である『青春を山に賭けて』(毎日新聞社)を出版した。

同1971年、南極横断距離3,000kmを体感するため、同距離[注 80]となる北海道稚内市から九州鹿児島まで日本列島縦断を徒歩52日間で実現した[注 81][注 82]8月30日宗谷岬を出発[239][注 83][注 84]日本海側を通り、10月20日国鉄(当時)西鹿児島駅(現:鹿児島中央駅)に到着した[238][241]

同1971年12月30日、アルゼンチンのブエノスアイレスから同国の南端のウシュアイアに入った[242]1972年1月5日砕氷船「サンマルティン号」で同地を出航し[243]、同年1月14日アルゼンチンが南極に持つヘネラル・ベルグラーノ基地に入り[244][245]、軍用ヘリコプターで数十km内陸まで飛行するなどの偵察した[246][247][248][249][注 85]。1月18日、同基地を離れた[251][252]。その他、数か所のアルゼンチン南極基地に立ち寄り、2月2日、ウシュアイアに帰港、下船した[253]

一方、南極大陸横断のもう片方のマクマード基地を管轄しているアメリカ国立科学財団からは、「南極条約により個人的探検は認められない」と拒否された[246][254][注 86]

同年2月、アコンカグアの未登攀ルートであった南壁に挑戦する[注 87][257]が、落石が多く、断念した[258][247][注 88]

同年4月11日グリーンランドエスキモー集落で犬ぞりの操縦を教わり、また極地の気候に身体を順化させることを目的として[259]、日本を発った[260]

同年5月、グリーンランド東海岸のアンマサリックを視察した[257]

同年9月11日、グリーンランド最北の村シオラパルクで、エスキモーと共同生活を始めた[注 89][262][247][注 90]。植村は31歳になっていた。

1973年2月4日犬ぞりでグリーンランド3,000km[注 91][注 92]の単独行に出発[265][266][257]、同年4月30日、成功した[267][266][257]

同年6月26日、シオラパルクを去り[268][247]、同年7月に帰国した[257]

この頃、東京都板橋区の住居の近くで、野崎公子と出会った[266][269][270][271][注 94]

1974年3月6日、長兄・植村修、三兄・武夫と共に野崎家に結納に行った[274]

同年3月8日、明治大学山岳部OB組織「炉辺会」のヒマラヤ遠征偵察隊[注 95]の隊長として、ネパールのダウラギリV峰の偵察に出発し[276][275]5月12日、帰国した[276][277]

同年5月18日、33歳のときに、野崎公子と結婚した[278][279][注 96][注 99]

この頃、グリーンランド一周犬ぞり旅行を計画するが、目当てのスポンサーから「探検価値として弱い」と言われ、断念した[284]

同年11月22日、日本を発ち[285][286]12月11日、グリーンランドのヤコブスハウンに入った[287]。同年12月29日北極圏12,000kmの犬ぞり単独行を目指し、グリーンランド西部の村ケケッタを出発した[注 100][289][290]1975年6月12日カナダのケンブリッジベイに到着[291][292]、アンダーソンベイで越夏した[292]。同年12月15日、同地を出発[293][292]1976年5月8日、ゴールであるアラスカのコツビューに到着した[294][295]。1年半の長い旅であった[注 101]。植村、35歳。

その後、ベーリング海峡を渡り、シベリア北極海沿岸からヨーロッパまで犬ぞりで走るという北極海一周を夢見るが、ソ連の許可を得るのが困難であるため断念した[297]

1976年7月31日、ソ連のエルブルス山(標高5,642m)に登頂した[298][299][注 102]

南極大陸横断を夢見て〈北極点到達・グリーンランド縦断犬ぞり単独行〉

1977年3月21日北極点犬ぞり単独行のための視察にカナダレゾリュートを訪れ、20日間滞在した[300]。また、同年9月にも7日間の旅行でレゾリュートを再訪した[300]

北極点・グリーンランド犬ぞり単独行のために必要な資金がスポンサー3社[注 103]だけでは賄えず、広告代理店[注 104]が加わり、全国的に「一口千円募金」の宣伝もされた[303][302]

1978年1月30日、世界初の犬ぞりによる単独での北極点到達に挑戦する[注 105]ため、日本を出発した[305][306]。同年2月22日、カナダのエルズミア島アラートに入った[307]3月5日、カナダ最北のコロンビア岬[注 106]を出発し[309][308][注 107]、約800km[注 108]の犬ぞり単独行の末、4月29日、北極点到達に成功した[313][314][注 109][注 110][注 111]。なお、植村が北極点に到達する前日の4月28日日本大学北極点遠征隊[注 112](隊長:池田錦重[320])の隊員5人が犬ぞりで日本人として初めて北極点に到達していた[321][322]。植村と日本大学が、同時期に同じ犬ぞりで北極点到達を目指したことから、世間は、“どちらが先に北極点に着くか”と注目した[320][注 113]。また、日本人として初めて『ナショナルジオグラフィック』の表紙を飾った[注 114][325]。植村、37歳。

同年、犬ぞりによる単独でのグリーンランド縦断にも成功した[注 115][注 116]5月12日、「モーリス・ジェサップ岬」を出発[330][310]7月12日、内陸氷床の最高地点(標高3,240m)を経て[331][332]8月22日、グリーンランド南端のヌナタック(岩峰)に到着した[注 117][333][310]。このグリーンランド縦断では、そりヨットのようなを張り、犬の負担を軽減するのに効果を上げた[334][注 118]

同年8月30日、米国ワシントンD.C.スミソニアン博物館で“凱旋”記者会見が行われた[336][注 119]

帰国後、10月から翌年3月までの半年にわたって、北極点とグリーンランドの冒険に要した約2億円の支出[338]のうち約7千万円の赤字[339]を埋めるために、講演[注 120]とイベント参加[注 121]を全国的に数多く行った[342][343][注 122]

同年10月9日、第26回菊池寛賞の受賞が決定された[344]。授賞理由は「犬ぞりによる単独北極点到達とグリーンランド縦断…日本青年の成果を内外に高めた二大冒険」に対してである[344]

1979年2月22日イギリスのビクトリア・スポーツ・クラブからスポーツの分野で最も勇気を発揮した人に贈られる「バラー・イン・スポーツ賞」を受賞した[345][346]。授賞理由は、「北極の荒涼とした地での単独の行為などで見せた類(たぐい)まれな勇気」に対してであり、「常に第一歩を行うものであり、孤独の道の発見者であった」ためである[345][347]。授賞式は、同日、イギリスのギルドホールで行われ、55,000ポンド(2,200万円)相当の黄金の月桂冠を頭に被せられた[346][注 123]。植村、38歳。

南極大陸横断を夢見て〈冬期エベレスト・南極〉

1979年6月6日中華人民共和国政府に招待されて、チベットラサに入った[349][350][351]

同年8月、アメリカ国立科学財団から、「植村の南極での計画にアメリカ合衆国は協力できない」との最終回答があった[352]

同年12月、ネパールのカラタパール(標高5,400m)に入り、約1か月間、冬期エベレストを偵察した[353][354][350][355]

1980年、エベレストの冬期登頂を構想するが、単独での登頂は困難と考え[356]、明治大学山岳部OBを主力とした「日本冬期エベレスト隊」を編成し、植村が隊長となった[350]

同年2月18日、エベレスト冬期初登頂にポーランド隊が成功し[注 124]、植村は先を越された。

同年4月下旬から約3週間、冬期エベレスト山行の準備のため、ネパールに滞在した[358][注 125]

冬期エベレストのトレーニングとして、冬期のアコンカグア(南アメリカ最高峰)に挑戦するため、同年7月11日、日本を発った[359][注 126]8月5日、ベースキャンプに入り[359]8月13日、松田研一、阿久津悦夫と共に、第2登に成功した[350][361]。しかし、計画していた頂上でのビバーク訓練は断念した[362]。植村、39歳。

同年10月30日、エベレスト冬期登頂を目指して、日本を出発した[363]。ポーランド隊に先に冬期登頂されたことにより、植村の隊は登攀以外に学術的な性格も併せ持つこととなった(登攀隊員6人[注 127]、学術5人[注 128]、報道6人)[365][366][注 129]12月1日、ベースキャンプから登攀を開始した[350]。しかし、翌1981年1月12日、標高7,100m地点で登攀隊員の竹中昇が死亡し[注 130]、また悪天候に阻まれ[注 131]、同年1月27日、登頂を断念した[373][350][374]。同年2月14日、帰国した[350]。植村、40歳。

1981年南極大陸3,000km犬ぞり単独行と南極大陸最高峰ビンソン・マシフ単独登頂の計画について、アルゼンチン軍の協力が得られることとなった。ただし、3,000km犬ぞり単独行については、アメリカの協力が得られないため南極大陸横断は不可能となったことから、ビンソン・マシフまでの往復での3,000kmとなった[375]

同年12月テレビ雑誌取材のため、アルゼンチンを訪問し、南極のマランビ基地に7日間滞在した[363]

1982年1月24日、南極3,000km犬ぞり単独行とビンソン・マシフ単独登頂に挑戦するため、日本を出発した[376][377]。同年2月10日アルゼンチン最南端の港であるウシュアイアから砕氷船イリサール」で出港し[378]2月13日南極半島にある同軍のサンマルチン基地に到着した[376][379]。同基地で待機し出発を待つが、3月19日フォークランド紛争が勃発し、同年12月22日、軍が協力を撤回した[注 132]ため断念した[376][382]1983年3月16日、約1年間の南極生活を終えて帰国した[383]。植村、42歳。

冬期マッキンリー単独登頂・最期

この頃、植村は、南極大陸横断を達成した後の夢として、野外学校を設立する構想を口にするようになる[384][385]

1983年8月、野外学校を開設するための適地を求めて、北海道帯広市を視察した[386][387]。同年10月20日、日本を出発し[388][注 133]10月24日ミネソタ州にある野外学校『アウトワード・バウンド・スクール (OBS)』に参加した[384][390][注 134]1984年1月16日ミネソタを発った[384]

1984年1月18日シカゴアメリカ企業のデュポンの社員と会談した[392][393][394]。植村の南極計画[注 135]への支援についてだと思われる[392][394]

そのついでに[要検証]マッキンリー山冬期単独登頂を目指すため、同年1月21日アラスカアンカレッジに入り[384][396]1月24日、タルキートナに入った[396][注 136]1月26日軽飛行機でマッキンリーのカヒルトナ氷河に降り立った[398][399]2月1日ベースキャンプ標高2,200m)から登攀を開始した[400][401]。一部の記者のみがその様子を取材した[注 137]

1984年2月12日午後6時50分[注 138]、世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たした[406]。この日は、ちょうど植村の43歳の誕生日であった。しかし、翌2月13日午前11時に行われた軽飛行機[注 139]との、登頂に成功したこと、現在位置が20,000フィート[注 140](6,096m) であることを伝える無線交信[注 141]を最後に連絡が取れなくなり、消息不明となった[410][390]2月15日、軽飛行機[注 142]が標高2,900mの氷河上に、植村がクレバスへの転落防止に使用した竹竿があるのを発見した[411][412]が、ベースキャンプや登山ルートに植村の姿は発見できなかった[411][412]。最後の交信から3日後の2月16日、軽飛行機のパイロット[注 143]が、標高4,900m地点の雪洞で植村と思われる人物が手を振っているのを視認した[413][注 144][注 145]デナリ国立公園管理事務所は、軽飛行機2機、高度5,000mまで飛行できるヘリコプター[注 146]1機で広範囲の捜索を展開した[420][421]2月20日、同公園管理事務所による捜索活動に参加していた2人の登山家[注 147]が標高4,200m地点の雪洞で、植村の日記[注 148]カメラ、フィルムなどを発見した[424]。また、2月25日、標高4,900m地点の雪洞[注 149]でも植村の所有物を発見したが、植村本人は発見できなかった[注 150][424]2月26日、デナリ国立公園管理事務所は、「植村の生存の可能性は100%ない[426]」として捜索を打ち切った[426]。その後、明治大学山岳部OB「炉辺会(ろばたかい)」によって捜索が行われた[427][注 151]が、植村は発見できず、3月6日、標高5,200m地点の雪洞に残された植村の装備を発見する[429][430]に留まった(標高5,200m地点から山頂までの間は捜索できなかった)。3月8日、炉辺会による捜索も打ち切られた[431][432]

植村と最後に無線交信できた2月13日命日となった[注 152]

4月下旬から5月にかけて、明治大学山岳部OB「炉辺会」によって再度、マッキンリー山での捜索が行われた[433][注 153]。前回捜索できなかった標高5,200mから山頂までを中心に捜索が行われ、植村が山頂に立てた「日の丸」の[注 154]を回収した[438][439][440][注 155][注 156]が、植村は発見できなかった[注 157]

なお、植村が消息を絶ったというニュースが報じられたところ、多数の人から植村の捜索費に充ててほしいとの義援金の申し出が明治大学山岳部OB「炉辺会」に寄せられたことから、その受け皿として、1984年3月1日、『植村直己の会』が設立され、明治大学体育課がその受付窓口となった[445][446]。同年12月25日までに、3,116件、約2950万円の義援金が寄せられた[447]

その後

1984年4月19日国民栄誉賞を受賞した[448][449][390]。功績名は「世界五大陸最高峰登頂などの功[450][注 158]」である。

同年6月11日明治大学名誉博士学位が贈呈された[451]

同年6月16日、『植村直己に別れを告げる会』が東京青山斎場で執り行われた[452][453][454]。祭壇には、笑顔の植村の写真[注 159]と、マッキンリー(現:デナリ山頂で回収された日の丸や愛用のピッケルなどが飾られた[453][454][注 160]

同日、デンマーク政府が、1978年グリーンランド縦断の際の到達点であったヌナタック峰(標高2,540m)[注 161]を、史上初のグリーンランド縦断という植村の業績を後世に残すために「ヌナタック・ウエムラ峰」と改称すると発表した[注 162][456][457][454][注 163]

同年8月、故郷である日高町(現:豊岡市)から名誉町民称号が贈呈された[5][注 164]

同年9月20日、グリーンランド縦断犬ぞり単独行のゴール近くのナルサスワックで、植村の功績を伝えるレリーフの除幕式が行われた[461][注 165]

同年12月アラスカ州裁判所公聴会において、植村直己の死亡が公式に認定された[463]

1985年1月、板橋区役所で植村直己の死亡届が受理された[注 166][4][5]

同1985年8月、植村が構想していた野外学校が、有志によって『植村直己・帯広野外学校』(北海道帯広市)として開校された[464]。植村の妻・公子が名誉校長となった[386]

1992年東京都板橋区に『植村記念財団』(事業主体・板橋区)が設立され、『植村冒険館』が開館した[465][466]

植村直己冒険館

1994年4月10日、故郷である兵庫県豊岡市日高町に、日高町立(現:豊岡市立)の『植村直己冒険館』が開館した[467][466]

1996年、『植村直己冒険賞』(主催・豊岡市)が設けられた。

2011年5月パーク・レンジャーにマッキンリー(現:デナリ)山中で遺体を発見したとの通報があり[注 167]、付近一帯の捜索が行われたが、発見されなかった[468]

主な登山・冒険歴

参照:「七大陸最高峰#エルブルス山はヨーロッパを代表する山か

人物

  • 植村家は代々農家で、直己の祖父は損得・金勘定抜きで困っている人を助ける性分だった[要出典]。直己もこの祖父の血を引いており[要検証]登山隊に加わる時にはトップに立ちたいという想いはあっても、自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場に立った[要出典]
  • 高校時代は、友人と共に学校の池のを焼いて食べるなどのいたずらもした[32][469][470]が、成績は平凡で目立たず地味な存在だった[471]。植村の顔を覚えている同級生は少ないくらいであった[469]
  • 明治大学山岳部に入部した当初は、登山の経験や知識がないため、よく転ぶことから、童謡どんぐりころころ』からの連想で「ドングリ」というあだ名(ニックネーム)を付けられ[472][注 173]入部当初は馬鹿にされていた[要検証][要出典]が、同期の連中と肩を並べたいと密かに山行を重ね、その陰の努力が実り、大学4年のときにサブリーダーになった[474][注 174]
  • 1965年、未踏のゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)に初登頂した際の隊長・高橋進は、植村について、世界を股にかけて無銭旅行などには思い切った無鉄砲なことを平気でやる反面、先輩から一言でも怒られると、すくんでしまって返事もできないような純情さ、気の弱さを人一倍持っている、と評している[475]
  • 数々の冒険の成功から大胆不敵な面がクローズアップされているが、実際には人一倍臆病な性格で、十分な計画と準備を経て必ず成功するという目算なしには決して実行しなかった[要検証][要出典]
  • 体力以外に取り立てて優れている面があるわけではない自分に対して常に劣等感を抱いており、記者会見などで自分が持ち上げられることを極度に嫌った[要出典]。しかし、妻・公子や知人の多く[要検証]が指摘している[要出典]ように、逆にその劣等感をバネにして数々の冒険を成功させたともいえる[要検証]
  • 人前に立つのは大の苦手で、資金集めの講演会や記者会見で大勢の聴衆を前にして話をする際は、第一声を発するまでしばらく気持ちを落ち着けなければならなかった[要出典]が、口下手ながら自身の体験に基づいた講演は多くの聴衆に感動を与えた[要検証]

冒険スタイル

単独行に傾倒した以降[いつ?]の植村は、アマゾン川単独筏(いかだ)下り、犬ぞりによる北極点到達単独行、犬ぞりによるグリーンランド縦断単独行など数々の有名な冒険を達成している。

単独行の際の特徴としては、例えば登山における高度順化を目的とはせず、冒険する現地で生活し、現地の人びとの生活に慣れ技術を習得するような“生活順化”をする点が挙げられる。

特に、犬ぞり行に先立つ約5か月間、単身、グリーンランドのエスキモーと共同生活し、衣食住や狩り釣り・犬ぞりの技術などを極地に暮らす人々から直に学ぶことに努めた。それらは、犬ぞり行でシロクマに襲われた翌日に同じシロクマと思われる個体を狩りでしとめ、さばいて生肉を食べ極地では貴重なタンパク質を摂取するなどに活かされた。キビヤックは、特異な製法と強烈な異臭で知られているが、植村はこれが大好物だった[476]

冬山単独行では、1964年11月、モンブランクレバスに落ちた際に、アイゼンと荷物が引っかかり九死に一生を得た経験から、何本もの竹竿をストッパーとして身体にくくり付けていた[477][注 175]。植村が行方不明となった最後のマッキンリー(現:デナリ)の山行においても、腰に竹竿をくくりつけて登攀して行く姿が見られた[478]

エピソード

生まれ故郷にある植村直己冒険館
  • 日本人初のエベレスト登頂に成功した際、松浦輝夫の前を歩いていた植村は、頂上まであと10mのところで松浦に道を譲り、松浦を先に頂上に立たせたと、植村は自著に書いている[191][479]。しかし、松浦の証言によると、植村に「どうぞ、先に登ってください」と言われた松浦は、植村と肩を組んで2人同時に頂上に立った[480][193]
  • エベレストに登頂した際、「カメラより山頂の石をみんなに見せた方がいい」と松浦輝夫を説得し、「カメラからテープを抜こうとして、手が滑ってネパール側に落としてしまった」という言い訳を考え、NHKから渡されていた最新型のビデオカメラを山頂に置いてきた。(カメラは、その翌日、日本の第2次登頂隊[注 176]によって発見され、無事に日本に戻ってきた。)
  • エベレストの山頂に、植村がアマゾン川を筏(いかだ)下りしていた頃に日本で交通事故死した、明治大学山岳部同僚・小林正尚の生前の写真を埋めた[482][483]。(一緒に登頂を果たした松浦輝夫も同じく、山頂に写真を埋めている[注 177]。)その後、帰国した植村は、小林の家を訪ねて、仏壇の前で、「お前の代わりにエベレストに登ったよ。頂上の石も持って来たぞ」と言うなり、声をあげて泣き出した[193]
  • 犬ぞりによる北極点到達挑戦の際には、テレビ番組制作を担った毎日放送から8mmカメラを託され、冒険中に自分の犬ぞりが氷原の彼方に走り去る場面を撮影した。周囲には誰もいないことから、その後、彼方から引き返しカメラとフィルムを回収するという貴重な記録映像となった。当時の番組では、その「歩いて戻って来る植村直己」のユーモラスな様子も放送された。

死去に対する反応

記者「もし生きていたら、どういうことを言いたいですか?」
公子「常に『冒険とは生きて帰ること』って偉そうに言ってましたので、ちょっとだらしがないじゃないの、って(言いたいです)[490][491]
記者「大切な人だと思えば、止める必要があったのではないですか?」
公子「どんな旅にも全部反対しました。でも『俺にはこれしかない』って言ってました。(そして、)反対しても出かけていく人でした[492]
  • 行方不明後、標高4,200mの雪洞で発見された日記には、登頂アタック前の最後の日である2月6日日付で、最後に「何が何でもマッキンリー登るぞ[注 179]」と書かれていた[493]。これについて野口健は、「何がなんでも」という言葉は素人が使う言葉であり、その言葉を変えれば「いかなる状況下においても決行せよ」という意味であると解釈している[494]。その上で「自然を相手に、植村さんなら、そんなことするべきではないってよくわかってるはずですよね。だから、その彼がどうしてなのか、と。」と疑問を呈している[494]

墓碑

著書

単著

  • 単行本『青春を山に賭けて』毎日新聞社1971年3月、全国書誌番号:73001400[注 183]

共著

監訳

メディア

関連書籍

一般書

雑誌(植村を特集したもの)

テレビ番組

映像

レコード

植村をモデルにした映像作品

音楽

顕彰施設

植村直己記念スポーツ公園

脚注

注釈

出典

参考文献(出典の根拠資料)

関連項目

外部リンク